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神泉の聖女  作者: サトム
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お茶と名前

「あの……?」


 青年を見たことはない。ルーフェリアの記憶にもない……多分。初対面であるはずの男性に首を傾げる。


「いい匂いがする」


 身体の芯に響く低い声が用件らしき物を告げた。

 アップルパイの匂いにつられてこんな神殿の奥まで来たのだろうか。酒は飲みそうだが、甘い物は絶対に食べないような容姿を持つこの男性は。けれどここは安全だとラザフォードは言っていた。不審な人物は入り込めないだろうし、何よりそんな人間はノックをしたりしないだろう。

 祭司長や副祭司長へのお客様なのかもしれない。


「今、カイユのパイを焼いていたんです。試作品ですが宜しければ食べていかれますか?」


 中に入れた果物の名前をとって適当にお菓子の名を名付けながら家の中へ勧めると、青年は一つ肯いて屈みながらドアを潜った。


「どうぞ、こちらへ」


 ダイニングキッチンのテーブルを勧めると、腰の剣を外してテーブルの足に立てかけながら男性は素直に従う。時間も頃合いだし、一度様子を見てみようとオーブンの扉を開けて中を覗き込むと、少し酸味の混じった甘い匂いとバターと焼けたパイ生地の香ばしい匂いが部屋に充満した。

 少しムラはあるが一応表面はきつね色だ。鍋つかみで器を寄せると、テーブルに出しておいた鍋敷きにゆっくりと乗せた。


「ん、良い感じ。お茶を淹れますが、紅茶、香草茶、花茶、薬木茶の中で何がいいですか?」


 家にあるありったけのお茶を挙げると「同じ物で」という返事が返ってくる。だが用意をしながらこっそり見てみると、男性の感情を浮かべることの少なそうな紫の目はテーブルのパイに釘付けだ。楽しみにしている風にも見えて嬉しくなる。


「もう少しお待ち下さいね。本当に焼きたてのパイは凶器と同じくらい熱くて危険なので」


 特に砂糖が主のフィリングはとろみがあって冷めにくい。お客様に火傷をさせるわけにはいかないのですぐには出せないのだと説明しながら、皿とフォークを用意した後、お茶を淹れようと茶葉を手に取ると男性から待ったがかかった。


「待て。先にポットとカップを温めるんだ」


 つい一般家庭と同じ手抜きでお茶を淹れようとしたのがばれたらしい。それでも折角だからと青年の言う手順に従ってお茶を淹れていく。


「最後に心の中で『美味しくなるように』と唱えながら、ポットをゆっくり回してカップに注ぐ」


 男性にはそぐわない可愛いおまじないに笑って肯きながらお茶を注ぐと、同じ茶葉とは思えないくらい奥の深い香りが立ち上る。


「良い香り」


 お客である彼にお茶を渡してから自分の分を引き寄せると、お茶を蒸らしていた間に切り分けていたパイを皿に載せて青年に渡す。


「どうぞ、召し上がれ」


「今日の糧に感謝を」


 食事前の挨拶らしきものを言った青年がナイフとフォークを手に取り、多少苦労しながらパイとフィリングを切り分けると口に運んだ。それを見てから自分も口に入れる。

 パイ皮のサクサク感は問題ない。ちょっと硬いような感じがするから、もう少し材料を調整する必要があるだろう。フィリングのカイユは甘さの中に酸味が残り、シャリシャリといった食感まで残っていたので満足のいく出来だ。柔らかすぎる気もするから、もう少し水分を飛ばしても良いかもしれない。

 そして青年の言う通りに淹れた紅茶も美味しかった。今までいかに手を抜いて飲んできたかを思い知る。やはりティーパックと同じ要領で淹れては駄目だったのだ。アレはお茶の成分が出やすい工夫がされていたのだろう。何気ない生活の中で使ってきた物のありがたみを実感する日々である。

 黙々と食べ続ける青年。気が付けば皿は空だ。カップを口に運ぶ仕草すら優雅で、見とれていると目があった。


「美味かった」


 お世辞なのか本気なのか見分けがつかないが、満足そうな様子に安堵する。


「出来としては八割でした。もう少し改良の余地がありそうです。もう一切れ、いかがですか?」


 教えられたとおりの手順で再びおかわりのお茶を淹れながら勧めると、手際を見ていた青年が不思議そうに見上げてきた。


「他に……食べさせる人はいないのか?」


 心に痛い質問に自分の分のパイを取り分けながら笑ってみせる。この程度の動揺を隠すなど社会人なら誰でも出来る。


「残念ながら家族はいません」


 驚くように見開かれたアメジストの目が綺麗な断面を見せるパイを見る。


「ではもう一切れ貰おう……構わないのなら二切れ貰えないだろうか?昼飯がまだなんだ」


 身体の大きな彼は見た目に違わず食べるらしい。失敗とは言わなくても完全ではないパイを美味しいと言って食べてくれる青年に、お茶のおかわりを注ぎながら笑った。


「もちろん、お好きなだけお召し上がり下さい。ついでに野菜のパイはいかがですか?」


 カイユパイと入れ替わるようにオーブンに入れていた野菜のパイを勧めると、青年はもちろん遠慮なく肯いた。








 石の廊下を黒髪の男性が目的地に向かって歩いていく。腰に下げた剣がカチャカチャと煩いが、いつどこで礼儀に煩い貴族に出会うか判らない以上、持ち歩かない訳にはいかない。

 だが先程までの空腹が満たされたお陰で機嫌は持ち直している。というか初めて食べたお菓子に、滅多にないほど機嫌がいい。


「いました!」


 廊下の奥から騎士が走り寄り大声を上げる。騒動の中心が自分である自覚はあるから不快になることもなく、奥から歩み寄る長い銀髪の青年の文句も耳を素通しだ。


「ディルグレイス卿!門番から知らせを受けてどれほど時間が経っていると思うんですか!祭司長様もずっとお待ちですよ」


「ああ、済まない」


 軽い謝罪に副祭司長の綺麗な顔が微かに歪む。常に硬い雰囲気を身に纏わせていて、容姿に似合わず熱血漢。目の前の青年を見下ろしながら、私服の男性はそう評価して歩みを進めた。

 不満そうだが世俗を離れ祭司として生きている以上、公爵家の子息といえども騎士に反論することは出来ず、ドゥーイは先程までいた祭司長の執務室のドアを叩く。穏やかな入室を許可する声に、見目麗しい副祭司長は連れてきた客人の為に扉を押し開いた。


「随分寄り道をしていたようだな、ディルグレイス卿」


 開口一番に皮肉を口にする祭司長に、短い黒髪とアメジストの目を持つ青年騎士が楽しそうに唇の端をつり上げる。


「あんたに会うより大事な用があった。それよりまだ生きてたのか」


 昔の戦友に遠慮なく悪態をつく青年騎士に、ソファに座るように促しながら祭司長が笑いだす。


「相変わらずだな、ヴァルター。さて、お主とわしの仲だ。面倒な会話は避けたいのだが……建前と本題、どちらを先に聞きたい?」


「本題」


 出されたお茶を飲みながら答えたヴァルターは眉を寄せて手の中の茶器を見下ろす。不可解な、というような表情に祭司長が視線で問うと、「そうだよな。爺の所で出るお茶はこの味だ」と独り言のような言葉を洩らした。


「悪い、続けてくれ」


 満腹に近くお茶もそれほど飲みたくはない。さっさと話を終えて帰ろうとする意図が見え見えの態度で話を促せば、何かを見透かしたような祭司長が簡単に用件を告げた。


「『聖女の小屋』に今代の聖女が住んでおる。彼女に常識とマナーを教えて貰いたい」


 悪名高い神泉の聖女、ルーフェリア。手に負えない厄介者という関係者の話はうんざりするほど聞いていた。


「お断りになられても構わないのですよ。どうせいつもの気まぐれか、何かの幼稚な策略なんでしょうから。貴方は一年の実戦配備をやり抜き、少なくともこれから一年は内勤や騎士団の訓練などの休暇に入る。そんな輝かしい栄光を持つ方が、せっかく休める時期に愚かな娘に付き合う必要はないのです」


 横から掛けられたドゥーイの言葉は自分たちの抱える聖女なのに酷い言い様だが、戦地に行く前に耳に入っていた彼女の噂はそう言わせても仕方のないくらい悪い物だった。


「爺、一つ答えろ。なぜ俺だ?」


「わしの知る中で、お前が一番信用できる騎士だからだ」


 白い髪に穏やかな青い目は揺るぐ事はなく、すでにこちらの意志が決まっていることなどお見通しといった風体だ。


「面白そうだな。いいだろう」


 白く優雅なカップの中のお茶を飲み干し立ち上がる。


「聖女の知りたいことはルーフェリアから聞くといい。彼女がその気なら多少の無理も聞いてやってくれ」


 呆気に取られている副祭司長と案件が一つ片付いたと笑う祭司長に、戦場を生き抜いてきた誰よりも逞しい男性は一つ肯くと颯爽と部屋を出ていった。








 そう言えば名前を名乗るのも、青年の名を聞くのも忘れた。

 後片付けをしながら唐突に思い出し、自分はどれだけ人恋しかったのだと突っ込みを入れる。不審者では無かったが、知らない人間を歓待する自分をおかしく思ったかもしれない。


「ごめん、ルーフェリア。評判を回復させるどころか、変人なんていうレッテルも貼られちゃったかも」


 若干頭が足りないと思われるのとどちらが良いのかは判らないが、これ以上評判が落ちることはないだろう。神殿からこの小さな家に移って一週間。たまたま居合わせた祭司たちの悪口の現場では「聖女は神殿の侍女達の仕事ぶりが気に入らなくて、高い金を使わせて執事とメイドを雇い、一軒家で豪遊している」という、実態とはかけ離れたものだったからだ。

 何をしても悪い方に取られてしまうのは、今までの言動が悪いのだが。


「ディルグレイス様はこんな噂を聞いて味方になってくれるかな」


 なんだか無理そうな気がしてきたが……今日、訪れた青年騎士との約束を思い出す。


『次回はもう少しましなカイユパイを焼けるようになっておきますね』


『楽しみにしている』


 別れ際の言葉に柔らかい眼差しで小さく肯いた精悍な青年を見て、ウチの息子もこんな風に凛々しくならないかしら~と思ったのは内緒だ。


「また来てくれないかな。可愛い青年だったし」


 冷静になって考えてみれば、十八歳の少女が持つ二十代後半の男性に対する感想ではなかったが、誰もいなかったので良しとしよう。

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