食堂と食欲
酒場のマスターは情報通でもあるらしい。
早めの夕食を取り終えて店に入ると、白いものが混じったヒゲを触りながらグラスを磨いていたギルベルトが楽しそうに笑っていた。
「上級侍女から嫌がらせを受けたそうだな」
まだ城から戻らない保護者のヴァルターすら知らない事実を告げ、愉快そうに肩を揺らす元黒騎士団長に苦笑を漏らす。
「滅多にできない体験をさせてもらいました」
ウエストにエプロンを着けながら開店の準備を始めると、『準備中』の札を揺らしながらドアが開いた。立っていたのは落ち着いた色合いの上質な服を着た壮年の男性。ルーフェリアを視界に入れて一瞬躊躇するも、どこか威厳を保ちながら無言でカウンターに座った。
ギルベルトも注意もなく慣れた様子でグラスに琥珀色の酒を注ぐ。どうやらこの国のお偉いさんらしい男性の背を見て、どうしたらいいのか視線で指示を仰ぐと、マスターは気にしなくていいと首を振った。
「開店時間を遅らせる」
一言で指示を受け取ると、カウンターに座って酒を飲んでいた男性が顔を上げた。
「彼女は信用がおけるのか?」
いつもの給仕ではないと警戒する男性にギルベルトは再びグラスを磨きながら躊躇うことなく肯くが、それでも気にするようにこちらにチラチラと視線をむける彼のためにルーフェリアは指で外を示す。
「食堂が混む時間なので手伝いに行ってきますね。開店時間になったら呼んで下さい」
最低の聖女ですが今は空気読んで外にいますと言葉の裏で告げると、ギルベルトも小さく肯いた。
「すまないな。人を向かわせる」
恐らくまた飲みに来た人物を使い走りに使う気だろう。客を使うってどんなお店よ?と最初は思ったが、酒を奢っているのを見てギブアンドテイクなのだと思うことにした。
「ごゆっくり」
営業スマイルを浮かべながらドアから出ると、今が戦場だろう食堂へと足を向ける。ここ数日で話をするようになったコック長に、事情を簡単に説明して手伝いを申し出ると快く許可してくれた。
騎士棟の食事は基本セルフサービスだ。メニューは日替わりだが選ぶことはできず、自分で受け取り、食事を終えた食器も自分で片付ける。食堂は三百人ほどの人員を一度に収容できる広さを持つが、それでも三度の交代制で食事を取るというから騎士団の規模の大きさが判るだろう。王都に自宅のある者や白騎士などはここで食事を取ることがないから、今いる人々はほぼ平民なのだ。
そんな中でルーフェリアができることといったら汚れを拭いてテーブルを整えたり、水が入ったポットを入れ替えることくらいなのだが、訓練で疲れ切った彼等にはこれが意外と喜ばれた。
「お疲れさまです」
食事を終えたテーブルから次々と拭きあげ、せめてこれくらいはと笑顔で騎士達を迎えていると背後から声をかけられた。
「あれ? ルーちゃん。今日、酒場はお休み?」
働き始めて数日のルーフェリアに知り合いは少ない。その上愛称で呼ぶ人物は一人しかいない。振り返れば濃緑の髪を結い上げたサレイユと銀狼ウルム、有翼人のカレが連れだって夕食を取りに来ていた。
「皆様、お疲れさまです。マスターの用事で開店時間が遅くなるそうなので、こちらにお手伝いに来ました」
ざわつく食堂から様々な視線が彼等に注がれる。第三隊の隊員のみならず他の隊の隊員もチラチラとこちらを気にしていた。国境戦を生きて勝ち抜いた彼等を英雄視する者は多いと聞いていたので、その人気の高さに改めて驚く。
答えを聞いてルーフェリアがこの場にいる理由に納得したサレイユだが、再び人懐っこそうな笑顔を浮かべると首を傾げた。
「この間から気になってたんだけど、どうして君は俺達を『様』付けするわけ?」
「え? えっと……『騎士様』ですから」
元の身分が例え平民でも騎士の称号というのはそれだけで準貴族の扱いだ。一般人である自分が様をつけるのは当たり前らしいし、ヴァルターからも別段指摘はなかったからなんの疑問もなく使っていたのだが。
「……我らの名を忘れたとか」
サレイユの隣りに立ち、腕を組んで意地悪そうな笑顔を浮かべたのはカレ。淡い金髪と雨上がりの空のような澄んだ目のせいで冗談にも聞こえる。
「いえ、ちゃんと憶えております。サレイユ様にカレ様、ウルム様ですよね」
そんな失礼なことしませんよ~と笑いかけると、ほぅと片眉を上げたカレの背で純白の羽根が膨らんだ。
「じゃあさ~、様付けとついでに敬語もやめない?」
優しげな笑みを浮かべたまま結構無茶なことを言ってのけたサレイユを、戸惑いと困惑の眼差しで見上げる。隣のカレも肯き、ウルムは無表情でこちらを見下ろしていた。
「納得できないって感じだから説明するけど、俺達、騎士だけど育ちは平民なわけよ。だから敬語で話しかけられることに慣れてないわけ。判る?」
言っていることは判るので素直に肯く。
「で、隊長は生まれながらの貴族だけど、俺達はあの人に公務以外で敬語を使わないんだ。隊長もそれを黙認してくれてる」
なんとなく理解できてきた。一代限りの騎士職だから日々付き合うのにそれ程畏まらなくてもいいと、それが様付け、敬語禁止の理由だと言いたいのだろう。時と場所を弁えさえすれば自分達に敬語を使う必要はないとサレイユは言っているのだ。
「では……サレイユ、さん」
「サレイユ」
笑顔のまま呼び捨てるように強制する緑の青年。奥ゆかしい性格でイケメン男性に耐性のない自分としては妙にハードルが高かったが、平凡主婦故に開き直ることにした。考えてみれば結婚もして子供も産んだ(中)身でいまさら男性を意識するなどないし、親密になれるいい機会でもある。
「判ったわ。よろしくお願いします、サレイユ……カレ、さん……ウルム…様」
それでもそれぞれ顔を見て挨拶していくうちに恥ずかしくなって敬称が付き、俯いてしまったルーフェリアに救いの手を差し出したのは意外にも銀狼の獣人だった。
「急ぐことはない。徐々に慣れるといい」
大きな毛むくじゃらの手が頭を撫でると、すれ違いざまに低く呟いていく。
「私は許さんぞ。敬称など面倒だからな。早く慣れることだ」
綺麗な顔で無茶を言うカレも笑いながらカウンターへと進んでいく。
「ん~。なんとか合格点かな。ちなみに残りの奴らは『様』付けで呼んでやれ」
「はぁ」
嫌がらせを指示したサレイユがウィンクして夕食を取りに行くと、周囲の視線が更に集中した。ここは一発無難に愛想笑いで乗り切ろうと薄笑いを浮かべながら空いたテーブルに向かいかけたルーフェリアだが、背後の気配と煙草の香りにビクリと足を止める。同時に腰にくる掠れた低音が、あろう事か耳元で発せられた。
「やっぱりいい匂いがする」
そして視界の端に灰色の髪がうつったと思った途端。
ペロリと。
経験のある感覚に思わず首筋を押さえて振り返れば、味を吟味するように口の中で舌を動かしていたユーザが自分の唇を舐めるのが見えた。
「ああああああ!!! てめぇ! なにしてやがる!」
「甘くない」
叫び声を上げる周囲の目撃者と意味の判らない言葉に不思議そうな顔をしたユーザ。訳が分からないのはこちらの方だと心の中で精一杯怒鳴りかけたルーフェリアは、彼の茶金の目に性的な欲望の光がないことに気が付いて視線を合わせた。
「ユーザ様……?」
それでも激しい動悸と羞恥で顔に血がのぼり、それを見た周囲の男達がイスを飛ばして立ち上がる。
「ユーザだ」
こちらも敬称を略せと笑う男の大きな手が伸びて頬に触れる寸前。
目の前の青年が消えた。代わりにいたのは尻尾を限界まで膨らませたウルムで、逞しい背から低い唸り声が響く。
「ウルム! なにしやがる!」
怒鳴るユーザの声にルーフェリアは肩を揺らし、大きな銀狼の背後から覗き込んで見えたのは5メートルほど先で膝を付く灰豹の半獣人の姿だった。
「彼女はお前のつがいではない」
「俺のつがいをテメェが決めるな。一体なんのつもりだ!」
「発情期なら城下に出ろ」
「俺の発情期はあと2ヶ月先だ。知ってんだろが」
成人男性の本気の睨みあいと怒鳴りあいに、この場の空気だけで足が竦む。
「……そうだったな。ではなぜ彼女にあんな事をした」
「昼にも言っただろう。いい匂いがすると。腹が減って食いたくなったから確かめてみたんだよ」
つり上がった切れ長の目を持つ美丈夫のセリフとしては結構際どいものがあるとおもったが、銀狼はその大きな背を丸めて肩を落とした。
「人族だぞ?」
「本気で食うか。いい匂いがしたから舐めてみただけだ」
自分をネタに思いっきりセクハラされているように感じつつ、どうやらユーザは本気で食欲を感じていたらしい。『食う』も性的な意味ではなくて言葉の意味そのままなのだろう。
「もういいです。ただ舐められただけですから」
自分を庇ったらしいウルムに小さく声をかけると、目の前の潤沢な毛を持つ尻尾が消えて鼻の上に微かに皺を寄せた狼が見下ろしてきた。不機嫌そうな威圧感が漂っている気がして、ルーフェリアがギュッと手を握ると背後から優しく肩を抱かれる。
「誤解が解けたのならもういいだろう。確かに彼女はいい匂いがするし、柔らかそうで、腹の減ったユーザが食いたくなるのも判るけど、そろそろ止めないと本気で夕飯を食いっぱぐれるよ?」
……サレイユが言った途端に『食う』の意味が変わったように聞こえるのはなぜだろう。
微かに身の危険を感じてサレイユから一歩離れるのをウルムの深い海のような蒼い目が追い、怒っていたわりにはあっさりと近づいてきたユーザがニヤリと笑ってルーフェリアの頭にキスしてきた。
「驚かせて悪かった」
行為と言葉はキザだが、まったく不快を感じさせずに謝罪した獣人の青年を見上げてこれが素の表情なのだとようやく理解した。
ちなみに。
騒動に加わらなかったカレは一人で夕食を受け取ると優雅に食事を取っていた。これが天使のごとき有翼人の彼の性格なのだと、多少残念に思ったルーフェリアを責めることは誰もしないだろう。




