血判と黒騎士団団長
大勢の人間とのファーストコンタクトを終え、最初の興奮が去って徐々に落ち着いてきても思い出しては再び興奮してしまう。まるで変態のようだが仕方がないとルーフェリアは自分を慰めた。だってファンタジーを好む人間なら大抵憧れる猫耳、犬耳、獣人が存在するのだ。興奮するなというほうが無理だろう。
前を行く第三隊の青年隊長は今日中に説明を終える気らしく、野外訓練場から厩舎、食堂と恐らくヴァルター達が関係する事務関係の数カ所の部屋を案内してくれた。注意力は散漫だがルーフェリアの記憶力は半端なくいいので問題はない。聖女のチート能力様々である。
「以上だが質問はあるか?」
夕方から働く酒場以外の説明を終えたヴァルターが執務室へと戻りながら問うてくる。しばらく考え、さっきからずっと気になっていた事を思いきって聞くことにした。
「アステル様ってドスケベ変態なのですか?」
確か野外訓練場で班長の一人であるカレがアステルをそう呼んでいた。周りを囲んでいた騎士達も複数肯くのを目撃していたので信憑性はあると睨んでいるのだが。恐らく意図していた質問とはかけ離れたものだったのだろう、幾分困ったような顔でヴァルターが見下ろしてくる。
「答えられないのでしたら構いませんが」
別段自分には何も関係がないだろう。こんなおばさんにちょっかいを掛ける男性など、特殊な性癖でもない限りいないだろうし。
「いや、答えられない訳じゃないんだが……」
アメジストの目を逸らし、困惑する美形の黒騎士。女性には言いにくいとか、実は諜報活動を行っている為に真実を話すことが出来ないなどといった類かもしれないと一人で納得しそうになった時。
「本人を前にして本当の事を言うのは」
「なるほど。私の事が聞きたかったのか」
聞き覚えのある声が真後ろから聞こえて硬直する。
「おや。驚いて動けなくなったパームだな」
幻聴であることを願った声が再び聞こえ、あろう事か耳元でクスリと笑われた。悪寒が背を這い登り、鳥肌が立つ肌を隠しながらようやく頭のスイッチが切り替わる。
「ただ今戻りました」
まるで何もなかったかのように満面の笑みを浮かべて振り返り、こちらも不機嫌さを器用に隠した従兄弟を見上げた。
「私への質問なら直接したらどうだ?」
アステルが細い目を更に細めて見下ろし促してきても、事情を知らぬ男性が見たら見惚れるような柔らかな微笑みを崩さすにルーフェリアは小首を傾げる。
「何のことでしょう」
ここは知らぬ存ぜぬで通すしかない。身を守るにはそれしかない!と本能で悟った。ヴァルターですら彼を前に言えない事実なのだ。本人に聞いたら何が起こるのか見当もつかない。
ニコニコにこにこ
しばらく無言で微笑みの応酬が続いたが、上司の前であると気が付いた猫目騎士が唐突に書類を差し出す。
「今日はここまでにしておくか。今度からは背後の気配にも気を付けるんだな」
教育の一環だったのか瞬く間に気配を一変させたアステルを見上げ、激しい動悸を落ち着かせながらフラリと後ずさった。
「そんなことが出来るのは貴方達だけですが……これからは充分注意します」
王城とはそういうところなのだとの注意喚起に、「壁に耳あり、障子に目あり」と頭の中で繰り返してから差し出された書類を受け取った。
「その書類に血判とサインを。登城に必要な身分証の発行する」
「これだ」
そう言ってヴァルターが指し示したのは襟元の銀で出来たバッチ。親指の爪ほどの大きさのそれは、一枚だけ葉のついた丸い蔦を周囲に中心に何かの花をあしらったデザインで、微かに魔力が感じられた。
「騎士棟にはないが、連絡通路の先から結界が張ってある。許可のない者が通ればすぐさま宮廷魔導師に連絡がいく仕掛けだ」
なるほど。国の中心で王様のいる建物だ。元の世界で言えば国会議事堂や皇居のようなものだろう。出入りする人間のチェックが欠かせないのは当然である。ここでも魔導を便利に使い安全を確保していた。
「血判……」
ヴァルターの執務室へと戻りながら難しい顔をする。ネット小説でもちょくちょく見かける行為だが、正直怖い。
別に血を見るのが嫌だとかではない。主婦であるが故に包丁で指を切ることなどあるし、子供もいれば鼻血だ、擦りむいただのとしょっちゅうで慣れている。だが、だからこそ『故意』に『指先』を傷付けるのが嫌なのだ。経験者は判るだろうが、指先の傷は何をするにも痛む。酷いとせっかくくっついた傷口が再び開いたりすることもあるのだ。
ナイフを渡されて途方に暮れていると何かに納得したようにアステルが近付いてきた。
「耳たぶで良ければ手伝うか?」
真偽のほどは定かではないが、少量でいいのならそこが一番痛くないと言われている。自分では出来ない場所だからこそ困っていたので、助け船に大きく肯くとナイフを受け取ったアステルの顔が近付いてきた。
「声を掛けてから切った方がいいか? それとも何も言わずに切った方がいいか?」
彼の指が耳たぶを押さえながら問われ、本気で悩む。ちなみに注射は見ないのだが。
「……声を掛けて貰えますか?」
覚悟を決めてからの方がいいと答えると、ナイフをテーブルに置いたアステルの小さな笑い声が聞こえてきた。
「もう終わったぞ。指をかせ」
耳たぶをギュッと絞られながら右手を取られて、人差し指を這わせる。微かにヌルついた感触に事実と悟り、微妙にガッカリしながらも乾かないうちに紙へと押しつけた。そして先程の質問が痛みから意識を逸らすためのものだと気が付いて、やはり悪い人ではないと改めて思った。
「ありがとうございました」
「ああ……あとこれは小屋での侮辱への謝罪だ」
返事と同時に耳たぶが熱くなり、驚いて手を持っていくと踵を返したアステルが振り向かずに告げる。訳が分からぬまま触れても痛みはない。どうやら癒しの魔導を掛けてもらったのだと気が付いて、彼の言葉を反芻し、ようやく理解した。
「……ありがとうございます」
しっかりした男性だ。ちょっと意地悪だが、年若いが故に自分の非を認め謝罪できる潔さもある。決してドスケベ変態には見えない。だからこそ班長カレとの間に何があったのか猛烈に気になった。
仕事は至って簡単だ。午前と昼食、午後の三回お茶を淹れる。来客があればお茶を淹れる。書類をそれぞれの事務室に持っていく。ヴァルターが訓練に出ているときは部屋の掃除をするなどだ。
簡単すぎて不安になっていると一息付いて書類から目を上げたアステルが「暇そうだな」と声を掛けてきた。
「家にいるよりはマシですけど」
汚す者もなく、こぢんまりとした家では掃除する量もたかが知れていて、お菓子研究以外は暇だったのだ。それに比べればここは様々な刺激があっていい。時折聞こえる爆音や大勢の人の気配にもテンションが上がる。
「それならこれを会計室まで持っていってくれ」
十枚ほどの紙の束を渡されて執務室を出ようとドアを開けようとした時。
「ヴァル、いるか」
一瞬先にドアが開くとグレーの髪に菫色の目を持つ中年の騎士が入ってきた。慌てて脇に避けて頭を下げると、ドアを開けた姿勢のまま固まっていた男性がゆっくりと近寄ってくる。
「これは……綺麗なお嬢さんだ。名は?」
黒騎士の制服を着ているのに上品な立ち振る舞いが貴族のような男性に問われ、顔を上げぬまま名を告げる。
「ルーフェリアと申します」
「ふむ……どこかで聞いた名だが、まぁいい。私はシルヴァ。黒騎士だ。ルーフェリア、私の嫁にならないか?」
これが俗に言う『一目惚れ』だろうかと思わず遠くを見てしまいそうになる。胡乱な眼差しを向けない為に頭を下げたまま、同室のアステルにこの男をどうにかしてくれ!と電波を送ると、彼は仕方なさそうに立ち上がった。
「シルヴァ団長、お帰りなさいませ。ヴァルター隊長でしたら間もなく戻られます。自室でお待ち下さい」
今、アステルは団長と言ったか。頭を下げたまま目を丸くする。アステルが『団長』と呼んだと言うことは、このふざけた男性は黒騎士団の最高位に就いているらしい。
「相変わらずつれない男だな、アス。そんなんだからむっつりスケベの称号を得るんだ」
「そんな称号など一度ももらったことはありませんよ。それより彼女は『ヴァルター隊長の付き人』の『ルーフェリア』です」
あんたは彼女の素性を知ってるはずだよな!というアステルの心の努声が聞こえてきそうだ。いい加減腰が痛くなってきたので紹介されたついでに顔を上げると、シルヴァは腕組みしたまま部下の心情にまったく気付かぬ様子で肯いた。
「そう言えば付き人を入れると言っていたな。貴女がそうか。実に私好みだ」
ヒゲを綺麗に整えた顔に落ち着いた菫色の目と、年齢を感じさせない覇気を発する騎士団長が柔らかく微笑む。本気なのか、冗談なのかの見極めが出来ずに困惑していると、ようやく部屋の主が帰ってきた。
「シルヴァ団長」
低い鋼の声が冷気と共に入り口から流れてきて、足音も立てずに部屋に入ったヴァルターはドアを閉めると呪文を唱える。
『この部屋で全ての音と光を閉じこめよ』
問答無用で盗聴、透視不可の結界を部屋に張り巡らせると、彼はシルヴァの前に立ちはだかった。
「私が付き人を付けるという報告書は読みましたか?」
「ああ。許可のサインをしたのは私だ」
「では、彼女が神泉の聖女であることもご存じですよね」
表情の薄い彼でも少々怒っているのが気配で判る。戦闘のせの字も知らない人間が感じるのだから、残りの二人は恐らく確実にヴァルターの怒気を感じているはずだ。それなのに前にいる騎士団長の表情が変わることはなく、それどころかだから何だ?と再び胸を張った。
「なるほど。どこかで聞いた名だと思っていたんだが聖女だったか。だが彼女が承諾すれば結婚しても構わんだろう?」
こちらの身分を知っていて口説いているらしい。旦那がいなかったら思わず肯いてしまいたくなるくらいにはいい男なのだが、どうにも口調が本気に思えなかった。
彼は何をしたいのだろう。『誰』に『何を仕掛けて』いるのだろう。
ヴァルターの背を隠れ蓑にジッと見つめていると、穏やかな笑みが向けられる。
「いい加減にして下さい」
その視線を遮る広い背中を見てなんとなく理解した。
ルーフェリアの噂を聞いていて、若い男である優秀な隊長が悪女に騙されはしなかと心配になったのかもしれない。そう考えるとアステルの嫌味や警戒もごくごく普通の事だと言えよう。
さて、どうしたものか。
自分はヴァルターに興味がないというのもおかしいし、恋人になって欲しいとも思っていないと言うのも駄目だ。だからといってシルヴァの求婚を受け入れるなど問題外だし、せっかく外に出る機会である付き人を辞めるのも嫌だ。
一番はヴァルターが聖女に惚れることがないと認めさせるのが一番なのだが……
長年に渡って培われてきた悪評はそう簡単に覆すことは出来ないのだと腹に力を入れて、例え信用がなくとも今はただ実直に仕事をこなしていくしかないと覚悟を決めた。
「せっかくのお申し出ですが、お断りさせていただきます。私はまだ、この世界の様々な事を学びたいのです」
今はただそれで手一杯なのだとため息を吐きながら、ルーフェリアは恭しく頭を下げた。
誤字修正(1/17)




