表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Herr Deutsch  作者: 樫宮穂月
3/3

第三話 ドイツ語Ⅰ

 寮に引っ越してきてからはや一週間。部屋はすっかり整えられ、料理にも慣れてきた。土地勘はまだあまりついていないが、毎日あちらこちらを散歩しているので次第に慣れてくるだろう。

 今日は大学での最初の講義がある。教科書は履修科目が決定した日に買っておいたし、ノートも辞書も完璧だ。私は大学の門の前で立ち止まり、図書館で印刷した自分だけの時間割で教室の場所を確かめた。

「一時限目ドイツ語Ⅰ一一八番教室エーデルシュタイン」

 一時間目で八時五十分から開始とはずいぶん遅いが、遠くから通ってきている人もいるそうだし仕方がないのかもしれない。その点寮から大学までは歩いて行ける距離にあるので、遅くまで寝ていても安心だ。

 早めに出たからか教室にはまだあまり人はいなかった。なので私は鞄から読み()しの文庫本を取り出し物語の世界に沈み込んでいった。

「すみません、隣いいですか」

 可愛らしい声にはっと顔を上げると、小首を傾げた女の子が横に立っていた。

「ああ、構いませんよ」

 私は三人掛けの端の席から真ん中に移動した。本に没頭していたので気付かなかったが、いつの間にか席はいっぱいになっていて、教室は話し声でうるさくなっていた。不快だ。

 まだ始まらないのかと腕時計を見る。長針が五十分を示した時、バンッと勢いよく扉が開き、長身の男性がつかつかと入ってきた。途端に教室は静まり返る。

 黒い巻き毛に白い肌。黒いティーシャツに深緑のズボンに編み上げブーツ。たくましい体躯は優に百八十はありそうだ。その見た目は鋭い視線と相まって、軍人を彷彿させた。

「Guten Morgen」

 見るからにドイツ人、といった風体の先生は教壇に両手をつき教室を見回すと、朝の挨拶をした。

「グ、グーテンモルゲン」

 つたないドイツ語で教室の皆が復唱する。大学に入り立てでもそれくらいは知っているらしい。

「Ich heiße Ewald Edelstein. Nennt Sie mich Herr Edelstein bitte. Ich komme aus Schwarzwald, im Südwesten von Deutchland. Meine Hobbies sind Lesen, Rad Fahlen, und Kochen」

 そう言って先生は、厳めしい表情のまま再び教室を見渡した。

 教室中の空気が固まるのが分かる。しまった、この授業を取ったのは失敗だったかもしれない――そんな声が聞こえてくるようだ。

 私も例に漏れずそう思ったのだが、そんな後悔よりもただ、一番前の席で先生の低い声に聞き惚れていた。生のドイツ語を聞いたのは初めてであった。意味の分からない言葉は音楽としてしか入ってこない。なんて格好いいのだろう。

 呆けたように先生の顔を見ていると、緑の瞳と目があった。視線が絡んで、目が逸らせない――。

 どうすべきかと戸惑っていると、先生はいたずらっぽく唇を歪めた。笑ったのだ。

「――皆さん、分かりませんね?」

 おそらく、教室の全員が呆気にとられた。

 彫の深いドイツ人が流暢な日本語を話しだすなんて思っても見なかったのであろう。

「でも、しばらく僕の授業を受ければ大体分かるようになります。僕はエヴァルト・エーデルシュタインと言います。皆さん、ヘル・エーデルシュタインとお呼び下さい。『ヘル』とは日本語の『さん』や『君』のようなもので、男性に使います。女性は『フラウ』を使います」

 ヘル・エーデルシュタインは黒板にそれぞれ「Herr/Frau」と筆記体で綴った。英語のそれとは微妙に違っていた。私はすかさずノートに書き込む。

「僕はドイツの南西にあるシュヴァルツヴァルツの出身です。シュヴァルツヴァルツは黒い森という意味です。趣味は読書と自転車に乗ること、料理をすることです」

 どうやら先程のドイツ語は自己紹介をしていたらしい。それが分かり、教室の雰囲気は一気に柔らかくなったような気がする。また、恐そうな顔つきをした先生がとてもチャーミングに笑ったということも関係しているだろう。

「この授業はドイツ語Ⅰです。授業は全部で三十回で、中間と期末のテストがあります。病気などで授業を休まなくてはならない時は僕にメールして下さい」

 黒板に書かれるアドレスをノートに書き留める。

「何か質問はありますか?」

 誰も何も言わない。私はこの間が嫌いだ。学年が上がるごとに授業中での発言率は下がっているような気がする。

「何もないなら、今日はオリエンテーションですのでこれで終わります。次からは内容に入ります。それでは皆さん、Tschüss. これがドイツ語のさようならです。Tschüs!」

「チュース」

 え、本当に終わっちゃうのか――と思いながらみんなに交じって復唱すると、ヘル・エーデルシュタインは学生達の返事に満足そうに頷き大きな手でファイルを閉じると、颯爽と教室を出ていった。


 それから一週間、ほとんどの授業が物凄く早く終わった。中には一時間半みっちり話す教授もいたが、それは例外の部類らしい。

 なんだかなあ――。

 私は教室を出て、こんなものでいいのだろうかと溜息をついた。大学に合格して、さあ学問をするぞと意気込んでいたのに、肩透かしを食らったような気分だ。まあしかし、学問とは一人でもできるものであるし、その孤独な作業なくして始まらない。手始めに図書館の探検にでも行こう。私は六階建ての建物に向かった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ