緑草書簡
シリーズものです。続編ではありませんが、今作では世界設定の説明が乏しいので、初めての方はできれば第一弾からお読みください。
はいこれアンタの分、と母はそれを押し付けた。大小様々の紙の束。二日間の留守に溜まった郵便物だ。
ありがと、と言い置いて、イメルダは椅子に腰を下ろした。きれいに研かれた硝子テーブルの反対側では、父が煙草をふかしている。新聞に隠れて顔が見えないのだが、煙が薄く立ち上っているのですぐにわかる。イメルダはテーブルに手をついて身を乗り出し、新聞をめくってみた。口髭を蓄えた仏頂面が現れて、じろりと彼女を見やる。
「おはよ、パパ」
明るく声をかけたが、うん、と上の空の返事が返ってきた。朝はいつもこうである。
イメルダは仕方なく椅子に戻って、トーストをかじりながら郵便物に目を通す。家族で二日間の旅行に行って帰ってきたら、留守中の郵便物――これを見るに、イメルダ宛のものが大半だったようである――が、小さな郵便受けからこぼれんばかりに貯まっていた。月始めだからだろう、パソコンの料金案内から化粧品のカタログまで、留守の間に狙ったように届いたらしい。怪しげな団体の、勧誘の手紙も雑ざっている。
適当に目を通して、要らないものから宛名を切ってごみ箱に入れる。必要なものだけより分けて、纏めてから立ち上がった時――。
ほとりと音を起てて、その小さな若草色の封筒が、――落ちた。
拾いあげて、裏を見る。差出人の名前を見て、母に宛ててきた手紙が、間違えて雑ざってしまったのだと、そう思った。丸みを帯びたきれいな字が並んでいる。
トウコ・サイハラ――。
知らない名前だ。
ママ、ママの手紙があたしのに雑ざってたわよ――そう言おうと思って口を開きかけ、宛名を見て彼女は言葉を飲み込んだ。
差出人の名前と同じ、丸っこい字で丁寧に。そこには、イメルダ・フレンツェル様、と――そうはっきり書いてあった。
◆
知らない人から手紙が来る、というのは妙なものだ。ワープロ打ちのものなら、請求書も勧誘の手紙も、知らない人間が出した手紙ではある。
しかしこれは手書きだ。そのせいでよりいっそう、個人的な手紙だという印象が強い。いや、実際にそうなのだろう。
宛名は何度確認してもイメルダになっているし、よくよく考えればこの若草色の封筒は見たことがあるような気はするのだが――差出人の名前には、どんなに考えても心当たりがなかった。なんだか開けるのも戸惑ってしまう。
対処に困ったイメルダが、手紙をとりあえず自分の部屋に置いて戻ってくると、両親は居間でテレビを観ていた。何気なく目をやって、彼女は思わず声をあげていた。
「――なに、それ」
画面下には大きな字で、今日の早朝に起きた鉄道事故についてのテロップが出ている。イメルダはその文字を読んでから、再び視線を画面中央に戻した。
青々とした山を背景に建った、巨大な黒い鉄橋。その鉄橋の中ほどから、ずるりと――まるで紐か何かのように――電車がずり落ちていた。
やがて画面は切り替わり、深刻な顔つきの男性キャスターが登場して解説を始めた。脱線事故だそうだ。――生存者は、と彼は言った。
生存者は二十二人。そのうち十二人が軽傷、十人が重傷。死者・行方不明者ともに人数は不明だが、早朝のことであるから乗客は少なかったものと思われる――。
回りくどい口調のキャスターから汲み取れたのは、それだけである。
「嫌ねぇ……」
ぽつりと、身を乗り出すようにして見入っていた母がつぶやいた。ごく小さな声だったが、それははっきりとイメルダの耳に留まり、胸の中に妙に重たく沈んでいった。
◆
――嫌ねぇ。
「嫌――か……」
なんとなく打ち沈んだ雰囲気になった居間を出て、自室に戻ったイメルダは、ベッドに腰掛けて小さくつぶやいた。
そう、確かに――嫌な気分だった。嫌ねぇ――と、そう言った母が、何を言いたかったのか、何を思っていたのか。イメルダにも父にも――いや、この町に暮らしている人間ならきっと、誰にだってわかる。わかってしまうから嫌なのだと、彼女は思う。
死者の人数は不明だと、キャスターは言っていた。それはそうだろう。なにしろ確認のしようもない。きっとたくさんの人が死んだのに、その人達のことを覚えている人間は、きっと誰ひとりとして居ないのだから。――あの事故で、いったいどれだけの人が、家族を、伴侶を、友人を亡くしたのか。どれだけの人が忘れられてしまったのか――。
イメルダは身震いした。例えば彼女の友人や恋人が、あの電車に乗っていたとしたら――?忘れているのは、彼女も同じかも知れないのだ。今――覚えていないだけで、あの惨状の中で消えてしまった人が、身近に居たかもしれないのだ。
「嫌だ……」
それはひどく淋しい想像だ。そういう仕組みになっているのだと、誰もが了解しているのだけれど、それでも。忘れるのも、忘れられるのも嫌だと――そう思うのは当然だ。
生きているのだから。
ベッドに座ったままあれこれ考え込んでいるうちに、いつの間にかうとうととしていたらしい。カクンと頭が前に倒れかかって、それで目が覚めた。
とっさに時計を見ようと机に目をやって、先程置いた手紙に気づく。小さな、若草色の封筒。
手に取ろうとしてふと頭に浮かんだ考えに、躊躇いを覚えて手を止めた。
――どうしよう。
見覚えのある若草色の封筒と、覚えのない名前が意味すること。テレビで見た、紐のようにだらりとぶら下がる電車が目に浮かんだ。
――違う。
そんなはずはない。事故があったのはずっと遠くだ。あんな場所まで付き合いはない。
そう言い聞かせて、手紙を手に取る。頭の隅のほうで――それだって忘れているだけかも知れない――とちらりと思ったが、イメルダはそれを無視して封筒を破いた。
中から現れたのは、封筒と同じ若草色の便箋だった。恐る恐る広げて、イメルダはその薄手の紙に、そっと目を走らせた。
◆
親愛なるイメルダ、元気ですか?返事が遅れてごめんなさい。
最近どうですか。わたしは、友だちが結婚することになって、その手伝いで走り回
ってました。海辺の崖っぷちにある式場での挙式だったんだけど、テラスに立つと
背景が海ですてきよ。オススメです。あなたも結婚することになったらここでどう?
そうそう、今度の連休に地元の友人たちと旅行に行くことになりました。海水浴です。
お土産送るからね。なにかリクエストがあったら、パソコンは持っていくからメール
ください。
それじゃ、お返事待ってます。
トウコより
◆
これは――何だろう。イメルダはどこか呆然と、手の中の短い文面を見つめていた。
「今度の――連休……?」
壁にかかったカレンダーを見る。今日は何日だろう。連休というのは――。
今じゃないか。
手紙をまじまじと見る。
今度の連休に地元の友人たちと旅行に行くことになりました。
そう、今は連休だ。イメルダは仕事の関係で休みがずれている。明日から出勤で、だから両親と一緒に一足早く旅行に行ったけれど、世間的には今日から三連休だ。
封筒の裏を見る。住所は書かれていなかった。でも――消印は二日前である。
イメルダは手紙を放り出して立ち上がった。机の中から小箱を取り出す。個人的にやり取りした手紙の類は、この中にまとめて入れてある。
ふたを開けて――彼女はため息をついた。やっぱり、という気持ちと、何故、という気持ちが綯い交ぜになって。
箱の中にきちんと収まった手紙の束に雑ざって、今朝来たのと同じ若草色の封筒が見えた。かなりの数だ。箱の中の手紙の、半数以上を占めていると言っていい。
彼女はその束を抜き出して、次々と裏返していく。どれも差出人の住所はなかった。ただあの丸っこい字で、「トウコ・サイハラ」と記してあるだけである。書いていないのは、イメルダが住所を空で言えるほど、この人と親しく手紙のやり取りをしていたからだろうか。それとも、この送り主は住所書かない主義だったのか。
手紙は全部で十五通、今日来たのが十六通目である。一番古いものは二年前だ。学校を卒業した年だから、学友だったのかもしれない。およそ一、二カ月にごとにやり取りしていた計算になるだろうか。
イメルダは顔をゆがめて、並んだ手紙を見る。やはり何も思い出せない自分を確認する。それからもう一度、十六通目の手紙を――正確にはその手紙の消印を見て、ああこの人はもう死んでしまったのだと、ひどく悲しい気分で――ようやく、そこに思い至った。
◆
翌日、出かける前に小箱の底に保管していた、小さなアドレス帳を引っ張り出してみた。
居間に行って父から新聞を取り上げると、おい、何をするんだ――と目線で問われた。無口なのである。
新聞の一面には思った通り、昨日の鉄道事故の記事が載っていた。どこからどこへ行く電車だったのかを確認して、今度はアドレス帳に目をやった。アドレス帳を埋めた名前は思ったよりも多い。目的の名前を捜すのに少しだけ手間取った。
「トウコ・サイハラ」――その人の頁には住所と最寄駅が記されていた。その駅の名前を、イメルダは知っていると思った。事故のあった鉄橋を通過する電車が、それよりも前に停車する駅である。
ふう、と彼女はため息をついた。
やはり――乗っていたのだろうか。
ありがと、と言って新聞を父のほうに押し返すと、父は不機嫌なようでいて、どこか気遣わしげな様子でじっと彼女を見ていた。
味のしないトーストをコーヒーで流し込んで、行ってきます、とだけ言って立ち上がった。アドレス帳を部屋に戻しておきたかったが、時計を見るともう時間がない。少し躊躇してから、鞄の中に滑り込ませた。
「――おい」
部屋を出かかったイメルダの背中に、豪くぶっきらぼうな声がかかった。振り返ると、父が相変わらずの仏頂面をしている。
「なに?」
父はいや、と言ってちょっと目を逸らし――それからやはりぶっきらぼうに、気をつけていって来い――とだけ、言った。
バスにはなんとか間に合った。連休二日目の朝であるから、バスの中は空いている。おそらくこの一時間後あたりのバスから混みだすのだろう。
一番後ろの座席に腰掛けてほっと一息ついたイメルダは、ふと思い立ってアドレス帳を取り出した。ぱらぱらとめくって、「トウコ・サイハラ」の頁を開く。
いくら見つめても、それはもう意味を持たない文字の羅列に過ぎなかった。この人がどんな人物で、自分とどんな時間を共有していたのか、どんな顔をしていたのか、どんなふうに生きていたのか――何より、確実に同じ時間に生きていたのだという事を、イメルダが知る術はもう、ないのだ。
――ごめんなさい。
声に出さずに、その人に詫びる。それからイメルダは、鞄の中からボールペンを取り出すと――力を込めて、「トウコ・サイハラ」という文字の上から、黒々とした線を引いた。
こんにちは!
というわけで第四弾です。
えと、今回いろいろ突っ込まれそうな気がするので、先に言い訳をば。
町、町というわりに規模がデカイような気がするのは、気のせい……ではありません。
この「町」はきっと「世界」と同義なのです。たぶん(おいおい)
そんな漠然としたイメージで書いています。でも、大きさはせいぜい「小国」くらいで書いています。
というわけなんで、お願いします、突っ込まんといてください(泣)
今回は手紙がテーマでした。感じとしては一作目に近いような近くないような……って感じですね。
では、ありがとうございました!