語彙はなくとも言葉は足りる
卒業式の日、先輩は泣かなかった。
体育館の外では、三月の風が桜の蕾を揺らしていた。後輩たちが花束を抱え、写真を撮り、あちこちで涙混じりの笑い声が上がっている。
その輪の少し外で、私は先輩を探していた。さっきまで体育館でやっていた追い出し会にはいたし、人付き合いの悪い人でもないから、こんな日にさっさと帰るとは思えないけれど。
体育館の周辺を見て回って、校庭を眺めて、体育館の中を覗いて、それでもいなくて。ぐるぐる歩き回ってようやく見つけたのは校舎裏だった。
「こんなところにいたんですか」
見間違えるはずもない背中に声を掛ければ、先輩は驚いたように振り返って、笑った。
「見つかっちゃった」
悪戯がバレた子どものようだった。
その顔を見た瞬間、隙間風が胸を通って行った。寂しい、とも、悲しい、とも違う、けれど決して良いものではない、小さな感情。
今日で終わりだ。
明日から、先輩はここにいない。
頭ではずっと分かっていたはずなのに、現実になった途端、何も整理できなくなっていた。
「みんな、探してますよ」
「あとで戻るよ」
短いやり取りが済むと、沈黙が下りた。
本当は、もっとたくさん言いたいことがあるはずなのに。
もっとたくさん。ありがとうございました、とか。先輩のおかげで頑張れました、とか。寂しいです、とか。
――好きです、とか。
けれど喉の奥で言葉が絡まる。口を開いても、何一つ出てこない。頭に思い浮かぶすべての言葉が、私の感情を否定している気がした。
「どうしたの?」
何かを言いかけては口を閉じる私の姿に、先輩が首を傾げる。
「なんでもないです」
だから、短くそう返した。
嘘だ。
なんでもなくなんてない。
伝えたいことがありすぎて、言葉が大渋滞を起こしていて、そのどれもこれもが、音にならない。
先輩は少しのあいだ黙ってくれていて、それからゆっくり空を見上げた。今日はいい天気だけれど、方角の関係で校舎裏は日陰になっている。隙間から覗く青空は、少しだけ暗い。
「私ね、卒業なんてすると思ってなかったんだ」
「え?」
突然の発言に目が点になる。
「留年ギリギリだったってことですか?」
「違う違う。実感がなかった、って話」
ひどいなあ、と拗ねたように言う先輩に、私はだいぶ失礼なことを言ったのだと気付き、慌てて口を両手で覆った。先輩は、気にしてないよ、と笑った。
「……ほんとに実感沸かなくてさ。でもさっきみんなと話してたら、急に寂しくなっちゃって」
笑いながら話す声が、少しだけ震えていた。
「……逃げてきちゃった」
「先輩でも逃げるんですね」
「言うようになったなあ」
今度は意図的に言ったことだから、私はにやりと笑って返す。それに先輩も笑う。
ふたりで笑った。
それに、ああ、と先の隙間風がまた胸を揺らす。私の、学生生活の、大半を占める、先輩とふたりきりの時間。たぶん私は、この時間が好きだった。
先輩とくだらない話をして。
一緒に帰って。
悩みを聞いてもらって。
そんな時間が。
「来年も頑張ってね」
先輩が言う。
「はい」
「君なら大丈夫」
その一言で、堰が切れそうになった。
大丈夫じゃない。
先輩がいなくなるのに、大丈夫なわけがない。
けれどそれを言えば、先輩を困らせてしまう気がした。
代わりの言葉を喉が探す。堤を立てなければ、感情が溢れてしまう。
「……先輩」
「うん?」
「私、」
――好きでした。
――寂しいです。
――行かないでください。
どれも、何かが違う気がした。何かが足りない気がした。どの言葉も、私の感情を素直に並べているはずなのに、どこかで否定しているようだった。
どれも本当なのに、どれだけ並べても足りない。
続きが出ない。
先輩はそんな私を見ていた。
「言わなくても分かるよ」
やがて聞こえた優しい声に、先輩を仰ぐ。ひとつしか変わらないはずの先輩は、やはり先輩だった。
「私もね」
その先は言わなかった。けれど十分だった。十分に、言いたいことが理解できた。
言葉にならないものがある。
言葉にしきれないものがある。
それでも確かに伝わることがある。
私は泣きそうになるのを堪えながら頷いた。
「さて、戻ろうか」
「はい」
先輩の先導で、来た道を戻る。校舎の影を抜けて、もう傾き始めた太陽の下に出る。
逆光で翳っている先輩の背を、私は見た。今日で見納めのこの背中に、私はいつ追い付けるのだろう。おうい、と遠くでみんなが呼ぶ声がする。それに先輩が、たっ、と跳ねるように走り出す。
――きっとずっと忘れない。
あの背中も。ふたりきりの時間も。優しい声も。
そして。
半分しか言葉にならなかった気持ちのことを。




