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『語彙はなくとも言葉は足りる』

語彙はなくとも言葉は足りる

作者: 淳一
掲載日:2026/06/26

 

 卒業式の日、先輩は泣かなかった。

 体育館の外では、三月の風が桜の蕾を揺らしていた。後輩たちが花束を抱え、写真を撮り、あちこちで涙混じりの笑い声が上がっている。

 その輪の少し外で、私は先輩を探していた。さっきまで体育館でやっていた追い出し会にはいたし、人付き合いの悪い人でもないから、こんな日にさっさと帰るとは思えないけれど。

 体育館の周辺を見て回って、校庭を眺めて、体育館の中を覗いて、それでもいなくて。ぐるぐる歩き回ってようやく見つけたのは校舎裏だった。

「こんなところにいたんですか」

 見間違えるはずもない背中に声を掛ければ、先輩は驚いたように振り返って、笑った。

「見つかっちゃった」

 悪戯がバレた子どものようだった。

 その顔を見た瞬間、隙間風が胸を通って行った。寂しい、とも、悲しい、とも違う、けれど決して良いものではない、小さな感情。

 今日で終わりだ。

 明日から、先輩はここにいない。

 頭ではずっと分かっていたはずなのに、現実になった途端、何も整理できなくなっていた。

「みんな、探してますよ」

「あとで戻るよ」

 短いやり取りが済むと、沈黙が下りた。

 本当は、もっとたくさん言いたいことがあるはずなのに。

 もっとたくさん。ありがとうございました、とか。先輩のおかげで頑張れました、とか。寂しいです、とか。

 ――好きです、とか。

 けれど喉の奥で言葉が絡まる。口を開いても、何一つ出てこない。頭に思い浮かぶすべての言葉が、私の感情を否定している気がした。

「どうしたの?」

 何かを言いかけては口を閉じる私の姿に、先輩が首を傾げる。

「なんでもないです」

 だから、短くそう返した。

 嘘だ。

 なんでもなくなんてない。

 伝えたいことがありすぎて、言葉が大渋滞を起こしていて、そのどれもこれもが、音にならない。

 先輩は少しのあいだ黙ってくれていて、それからゆっくり空を見上げた。今日はいい天気だけれど、方角の関係で校舎裏は日陰になっている。隙間から覗く青空は、少しだけ暗い。

「私ね、卒業なんてすると思ってなかったんだ」

「え?」

 突然の発言に目が点になる。

「留年ギリギリだったってことですか?」

「違う違う。実感がなかった、って話」

 ひどいなあ、と拗ねたように言う先輩に、私はだいぶ失礼なことを言ったのだと気付き、慌てて口を両手で覆った。先輩は、気にしてないよ、と笑った。

「……ほんとに実感沸かなくてさ。でもさっきみんなと話してたら、急に寂しくなっちゃって」

 笑いながら話す声が、少しだけ震えていた。

「……逃げてきちゃった」

「先輩でも逃げるんですね」

「言うようになったなあ」

 今度は意図的に言ったことだから、私はにやりと笑って返す。それに先輩も笑う。

 ふたりで笑った。

 それに、ああ、と先の隙間風がまた胸を揺らす。私の、学生生活の、大半を占める、先輩とふたりきりの時間。たぶん私は、この時間が好きだった。

 先輩とくだらない話をして。

 一緒に帰って。

 悩みを聞いてもらって。

 そんな時間が。

「来年も頑張ってね」

 先輩が言う。

「はい」

「君なら大丈夫」

 その一言で、堰が切れそうになった。

 大丈夫じゃない。

 先輩がいなくなるのに、大丈夫なわけがない。

 けれどそれを言えば、先輩を困らせてしまう気がした。

 代わりの言葉を喉が探す。堤を立てなければ、感情が溢れてしまう。

「……先輩」

「うん?」

「私、」

 ――好きでした。

 ――寂しいです。

 ――行かないでください。

 どれも、何かが違う気がした。何かが足りない気がした。どの言葉も、私の感情を素直に並べているはずなのに、どこかで否定しているようだった。

 どれも本当なのに、どれだけ並べても足りない。

 続きが出ない。

 先輩はそんな私を見ていた。

「言わなくても分かるよ」

 やがて聞こえた優しい声に、先輩を仰ぐ。ひとつしか変わらないはずの先輩は、やはり先輩だった。

「私もね」

 その先は言わなかった。けれど十分だった。十分に、言いたいことが理解できた。

 言葉にならないものがある。

 言葉にしきれないものがある。

 それでも確かに伝わることがある。

 私は泣きそうになるのを堪えながら頷いた。

「さて、戻ろうか」

「はい」

 先輩の先導で、来た道を戻る。校舎の影を抜けて、もう傾き始めた太陽の下に出る。

 逆光で翳っている先輩の背を、私は見た。今日で見納めのこの背中に、私はいつ追い付けるのだろう。おうい、と遠くでみんなが呼ぶ声がする。それに先輩が、たっ、と跳ねるように走り出す。

 ――きっとずっと忘れない。

 あの背中も。ふたりきりの時間も。優しい声も。

 そして。

 半分しか言葉にならなかった気持ちのことを。






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