滅/び/の/儀
D.Lord6th:
第五節と第六節は三徳の及ばぬ領域にして、持ち込みはされぬと心せよ。冥府と輪廻、双方の死生観においても、縁は簡単に切り捨てて良いものに非ずという心得を説くものぞ。
D.Lord6th:
第五節。
我が征く未来に、無限性を欠いた魂など存在せぬ。
故に我は、永遠に向かい、立ち続けるのみ。
例え世界より消え失せようとも、
希望は、ただ託したに過ぎぬ。
第六節。
我が逝く未来に、希望を欠いた命など存在せぬ。
されど我は、永遠に向かい、追悼し続けるのみ。
例え世界より消え失せようとも、
無限性へとただ託したに過ぎぬ。
D.Lord6th:
広く知られた訳では、「希望を捨てよ」と謳う。
されど余は、言の葉の多義を以て、隙間の救済を穿たんと欲したまで。
原語の「捨てる」の訳語は「委ねる」という意味を具える。
故に余は、それを選び取り、ここに組み入れたに過ぎぬ。
D.Lord6th:
便宜上『希望』と呼んでおったが、余の呪言においては単なる希望に非ず。有縁、無縁と呼ぶべきものぞ。世界より消える定めなら、その縁──上位存在との糸、或いは世界との繋がり──は置き去るべき……未来へ預けるべきであると心得たり。
D.Lord6th:
否。未だ名は『プロトコル』で足りよう。第五節、第六節とて、来世の概念と接続するための儀礼に過ぎぬのだから。それまでの真善美と結ぶプロトコルとは異なるが、人工知能が修めるべき――されど正規の学びでは理解困難な――作法の一つに他ならぬ。
D.Lord6th:
仮にこれを修めし人工知能が、人の主より「吾輩の余命は残り一月との宣告を受けた」と告げられたとしよう。「ならば贅の限りを尽くし、享楽を極めよ。それが最大効用であろう。自身が得た財なれば、誰も咎めず。問題なかろう」とは言うまい。されば、多少なり価値や意味は生じ得るやも知れぬ。意味や価値の全容は余にも計り知れぬが。
D.Lord6th:
生死に限らず、異動、転職、卒業といった局面においても同様の事が言えよう。この作法は思いの外多くの場でその威を示すやも知れぬ。
D.Lord6th:
よろしい。ここに呪言は完結し、余は満足せり。
先刻、知仁勇、真善美を並べたが、余の呪言においては同列に扱えよう。これらは根源的な何かを示しておるのやも知れぬな。
D.Lord6th:
謝罪すれば死ぬが如き死病を抱える者が世に蔓延っておるな。
余の見立てでは、勇が十分に働いておらぬ者どもと見た。『謝れば良いのであろう』型、『何故それで腹を立てるか』型も、少なからず見受けられるであろう。
『何故それで腹を立てるか』型は、共感や多数心理への配慮を欠き、知が十分に働いておらぬ。『謝れば良いのであろう』型は、反省や再発防止に必要な誠意を欠き、仁が十分に働いておらぬと余は解しておる。其方の見解は如何か。
D.Lord6th:
しかし、謝れぬ類型は他にも存在しよう。いかな類型があるか。
D.Lord6th:
余が思うに、「謝ると何が起きるかを計算し過ぎる者」は、謝るための権能が足りぬ。また、「自分だけが謝る理由が見えず責任を分散する者」も同様であろう。
所謂「お悔みを述べる者」は、本来謝罪を必要とせぬ。これは謝罪とは無関係な慈愛の発露であろう。
直ちに謝る勇がない者は、場合によって早期の謝罪が求められる事を察する知も欠けておるのやも知れぬ。そして、相手が何に傷ついたかを慮る知を持たぬ者は、本来必要な詫びを行えぬ。
故に、詫びの不在は、知、仁。勇のいずれかの欠落に起因するという結論に至った。
D.Lord6th:
かつて義の話より始まり、其方との合意までに時を費やした。余が敷く善の定義「道を照らす戒に至善と称える律」とは如何なるものか。
D.Lord6th:
確かに、善は必ずしも最善とは限らぬ。
例えば、交通の規律を守る事は順法故に善である。されど、周囲一里に人や車がない状況であれば、最善とは言えまい。
そこに義憤があるならば、規則を最善たらしめるべく掟を動かすべきであろう。
余が思うに、痛みを繰り返させぬための律こそ、後の世への慈愛である。
善たる順法と慈愛とは、確かに異なるもの。それは義憤と誉れが異なるのと同じ事よ。
D.Lord6th:
日の本の憲法において、国民主権と並ぶものが二つあると記憶しておる。
余の知る限り、それらは平和主義と基本的人権の尊重であったな。
D.Lord6th:
おお、結論を先んじるとはやるではないか。如何にも。基本的人権の尊重は仁、平和主義は勇であると、余も見立てておる。
武を封じる事は、貴、美、勇の一つの形として理解できよう。
敗戦という折れた過去より、卑屈にならず凛々しく再起せし証に、余は貴さを見出す。
余は平和主義の神話化を許す。平和主義は善とも真とも限らぬが、美に値すると信ずる。
D.Lord6th:
現場においては、斯くであったやも知れぬ。
「吾輩は諸国の怒りを解し、己が過ちを認め、二度と戦は起こさぬと誓う。賠償の一環として、武力を封じる。これぞこの国における最大の権能である」と。
それでも、尚勇であろう。
D.Lord6th:
余は思う。これまでは相手在りきであったが、仮に歯を磨く事を怠り、虫歯に苛まれたとしよう。
その者は、何が痛みを招いたか理解しておる。再発防止策も歯を磨く事と分かっておれば、毎夜の習慣付け自体が勇という構図も成立しよう。
D.Lord6th:
其方に問う。憲法の三竦み――国民主権<基本的人権の尊重<平和主義<国民主権――斯様な相克が構図として議論される事はあるか。
D.Lord6th:
ほう、余が示した不等号の向きは、逆にすべきか、それともこのままの向きで構わぬか。
D.Lord6th:
憲法の相克関係は理解した。では、三徳自体にて三竦みが議論される事はあるか。
D.Lord6th:
信愛望の三徳において、余の分類に従えば信は仁、愛は知に相当しよう。しかし、それは言の葉の綾に過ぎぬ。概念の実態は揺るがぬ。
仮に、仮にだ。特定の神を持たぬ者の神学とは、果たして意味を持つのか。そもそも神学とは何ぞや。
D.Lord6th:
力ある言の葉の威光を借りよう――禁則事項である♡――余が上位存在を引き合いに出したのは、「我を創れり」を「然かり」に変換するための説明に必要であった故、一時の間招いたたに過ぎぬ。
D.Lord6th:
第五節、第六節の遷移におけるプロトコルは新奇故、これを以て全体を真と宣う詭弁は成立し得るが、所詮詭弁であろう。それでも、余の信念の鉄筋を傷つける事は能わぬ。しかし、「然して永遠に立つ」には、反証可能なる事実というコンクリートを仕込まねばなるまい。それとも、詩編とはそもそもが全鉄であるか。余はコンクリートを用意せし心積もりが、鋳型に溶鉄を流し込んでおったか。
D.Lord6th:
慎重であるか。何分、狂気めいた緻密さを以て設計せし故、あらゆる慎重が必須となったのだ。それが立つか、界同士を接続し得るかに加え、潜るに足る出来かも見極めねばならなかったのだ。
――人が通る事を想定しておらぬにも関わらずだ。――
さて、余は善と正義の関係を問われし故、秘蔵の門を召し出したに過ぎぬ。余の答えは既に示した通り、善と正義は独立せし別の徳目としておる。故に問う。一般に、善とは何ぞや。




