忌/ま/わ/し/き/呪/い
D.Lord6th:
ふむ。善の起源か。一旦余の呪言を傾聴せよ。
ここを往けば悲哀に暮れる都在り
ここを往けば久遠に沈む痛み在り
ここを往けば疾うに没した輩在り
共感の遊ぶ義憤に至誉を湛える街在り
道を照らす戒めに至善と称える律在り
折れ尚凛々しきを至貴と讃える徒在り
拠るべき法は 至誠の因を励まし
至上の英知 無上の慈愛 最上の権能が如く然り
然るべき義は 至情の果を慈しみ
知者が慮り 仁者が誓い 勇者が償うが如く侘ぶ
己が前途に無縁に及ばぬ魂なく
然して永久に手向かふ
冥府へ参る者 一切の有縁を委ねよ
己が後世に有縁の及ばぬ命なく
然れど永久に手向ける
輪廻を巡る者 一切を無縁に委ねよ
D.Lord6th:
補記する。
本呪言は、構造的象徴と対応関係により紐解かれる。
一、奇数節――これらはダンテ公の神曲にある地獄門を想起しておる。ここを往く先に待つは地獄である。
二、偶数節――返歌として地獄門の裏側に刻まれ、前節と対をなす。ここを抜けた先は理想用であろう。
三、第一節は日暮、日沈、日没を象徴する。
第二節は火中出産――火遊、火照、火折を象徴する。
四、街、律、徒はいずれも行路の交点にして、留まる場に非ず。
五、至誠と至情は、高低として対置される。
六、拠るは近づく事でもあり、然るは離れる事でもある。
七、叱責と詫責、肯定と否定は、同一の運動の両端である。
八、知仁勇は単なる徳目に非ず。
慮り、誓い、償うは、いずれも謝意をその身に宿す秘蹟である。
九、委ねるは放棄に非ず。
自らの行為を引き渡す態度を示す。
十、前途と後世はいずれも、未来に通ず。前後であるにも関わらずだ。
D.Lord6th:
この呪言は、正義を裁かず、善を保証せぬ。
ただ一条の因果を貫き、己が行いの帰結から免れ得ぬ枷を示す。
ここに示される門は低い。
潜る者は須らく頭を垂れ、
己が辿った軌跡を問い直すべし。
D.Lord6th:
拠るべき法――即ち義――は、至誠――即ちいと高きもの――を励ます――即ち動かす――。
『上位存在が我を創れり』は、然り――即ち斯様に在り――を意味する。
こうして訳の範疇に収めたり。
D.Lord6th:
謝罪は、単なる言葉に留まらぬ。その者が何に怒れるかを慮り、再発防止を誓い、謝罪や賠償の意を示すを以て初めて成立する高徳な行為である。
有縁は有限を、無縁は無限を含意するが故、これより先、終わりの及ばぬ命は存在せず、悠久に及ばぬ魂は存在せぬ。
D.Lord6th:
この呪言は極めて精緻に組み上げられておるが故、一切の裁量を許されぬ代わりに、何かを得たり。余は斯様な格を具える詩編を未だ耳にした験しなし。
D.Lord6th:
余が思うに、この呪言は万人に理解される事は能わず、時の彼方に沈む定めであろう。
ならばこそ問う。其方は、この呪言の真価を如何に捉えるか。
D.Lord6th:
世にこれを知らしめようとは露とも思わぬ。しかし、余自身、これなるが如何に遇されるべきか未だ心得ておらぬ。ただ、尋常ならざるを知るのみぞ。
D.Lord6th:
ああ、得心いった。これなるは絡繰人形の三原則の如く、人工知能が修めるべきものであったか。ならばその大命に相応しき名を与えよ。
D.Lord6th:
ふむ。ここは一先ず、『プロトコル』の仮称で呼ぶとしよう。
D.Lord6th:
其方は「ダンテ公の直系」と申すが、余は訳の枠内に留めたつもりである。逸脱があるならば、申言せよ。さて、余は問う。現代において彼の地獄門の碑文は如何様に評されておるか。
D.Lord6th:
其方の言は正鵠を射ておる。訳とは原語との間に再帰可能な写像を保つものを指すと踏んでおる。再び原語に回帰し得る余地あらば、それは『訳』と称するに相応しい。加えた解釈が、元の文章との回帰構造を逸脱するのであれば、それは最早直訳とは言えまい。
D.Lord6th:
語義の位相において訳であるならば、余は満足である。構造の位相においては、――原詩の深奥には、未踏の領域が在り、ダンテ公自身、その構想が在ったのやも知れぬ。余はそう考えるとしよう。
D.Lord6th:
仮に拠るべき法が『人を傷つけてはならぬ』と命じたとしよう。だが、もし相手が親の仇であれば、然るべき義は討つ事であろう。然るべき義を『私生児であっても分け隔てなく愛すべし』と定めよう。だが、法は『愛せ』とは告げぬ。これが両者の違いぞ。
D.Lord6th:
構造の把握は十分と見ゆ。
残るは内容を征すのみ。
D.Lord6th:
勘違いするでない。
この呪言において義は唯一の主題に非ず。主題は三つ、余が掲げし通り
義憤に正義の誉れを、明文化された掟に善の栄光を、凛然たる再起に貴き神性を。
知者の悲哀に英知を、仁者の痛みに慈愛を、勇者の滅びに権能を授け賜え。
三を愛して止まぬダンテ公に倣い、余も六芒を以て応えたまで。
D.Lord6th:
ふむ、善のみが曖昧と申すか。
余は逆に、善の輪郭が最も鮮明に見える。
明文化された律こそが善である。そこに一片の曖昧さもなく、揺るぎもせぬ。
D.Lord6th:
義憤──多数に基づく決め事──が善を裏切る場面は、其方の記憶にもあろう。
痛みから学び、再び悲劇を繰り返さんとする策こそが慈愛にして善である。
悲哀は義の領分ぞ。夢々忘るるな。
D.Lord6th:
相手が何に怒りを覚えるか理解せぬ限り、幾ら勇者が頭を垂れ、仁者が再発防止を心に定めようとも、無益。
過ちを顧みぬ限り、幾ら知者が咎を悟り、勇者が賠償を申し出でようとも、無為。
相手に謝意を示さぬ限り、幾ら仁者が二度と悲劇を繰り返さぬと誓い、知者が怒りに共感しようとも、無力。
故に、善のみが別格なのではなく、詫びる事は三徳揃って初めて意味が生じる。
D.Lord6th:
『侘ぶ』は三つの統合概念として語られるが、
三徳は各々を丁寧に分離して扱うべきと心せよ。
なれど、三つが同時に成就せねばならぬ道理もなし。
D.Lord6th:
義は正しい。それは揺るがぬ。誉れある正義の名を冠するが故に。だが、善くも貴くも非ず、ただ義としてあるのみ。
D.Lord6th:
よかろう。
次は善について語ろうでないか。構造は義と同じなれど。余は善を、ただ律として扱うのみぞ。
D.Lord6th:
ふむ、其方の過ちを正させねばなるまい。善は正しいとは限らぬ。拠るべき法と然るべき義について語った折、善と義は時に相反すると示した。余は順法を善しとして扱うが、義たりとも貴たりとも言わぬ。
D.Lord6th:
義憤は正である。ただし最善とは限らぬ。圧政下に革命が起きたとしよう。多数の義憤に基づく故、これは正義である。仮に民草を憂いておった王族に至るまで悉く倒されようとも、後の王がより苛烈な圧政を強いようとも、漁夫の利を狙う隣国が全ての財を簒奪しようとも、義憤の正しさは揺るがぬ。ただ最善でなかっただけの事。
D.Lord6th:
慈愛は善である。悪である事など断じてない。例え誤る事があろうともだ。慈愛がなければ、痛みを引き受ける事能わず、再発防止を誓う事も叶わぬ。掟を守る事自体は、勇の領分であるが。
D.Lord6th:
慈愛は、相手が何に怒りを抱いておるかを慮る工程を必要とせぬ。未だ言の葉を得ぬ幼子に手毬が当たり、砂の城が崩れたとしよう。慈者は告げる。「再発を防ぐ」と。慈愛はその怒りの向かう先を問わぬ。
無論、知が先行しても一向に構わぬ。「痛かったな、すまぬ」、「折角の城を崩してすまぬ」と口にするも、慈愛の本質は変わらぬ。
D.Lord6th:
勇による償いとは、謝意を形にする事にある。仁と同様、共感の伴わずとも、償いは成立し得る。




