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”もう殿下じゃないよ。…フィオレはエルヒュームに戻っていたんだな”
”はい。年老いてようやくお役御免となりました。故郷の海が忘れがたく、祖国に戻った次第でございます”
フィオレのフロランに対する対応は明らかに主従関係の従者で、フロランもまたそれを受け止めている。
”今なお大公家のため尽くしてくれていることに感謝する”
”とんでもございません。私こそ、大公をこの国にお戻しいただきましたこと、感謝するばかりでございます”
フィオレは、かつてエルヒューム大公だったフロランの母セラフィーヌの侍女をしていた。セラフィーヌが帝国に連れ去られた時、フィオレの夫は既に他界し、三人いた子供達は皆独立していたので迷うことなく単身皇城に向かい、セラフィーヌ付きの侍女に志願し、セラフィーヌの希望もあって採用された。セラフィーヌが冤罪で城を出て離宮に住むことになった時もセラフィーヌと共に離宮に行き、予算も使用人も限られていた離宮を切り盛りして大公の品位を守り、最後までセラフィーヌに仕え、その死を看取った。
堅物ではあるが仕事ぶりが評価され、セラフィーヌの死後皇后によって皇城に引き抜かれ、皇子皇女達の教育係を勤めた。離宮を離れることになったが、フロレンシオの元にも教育係として週に二度ほど訪れていた。その後皇城の侍女頭になったが、フロランが留学に行く前に引退し、故郷エルヒュームに戻った。それを知ったヴィクトルが自分の娘の教育係に抜擢したのだ。
フィオレは長い間イングレイ帝国で暮らしたために家族とも疎遠になっていた。いい年になった子供達に今更口うるさい母親と共に暮らさせることに気が引けていたフィオレは、その申し出を喜んで引き受けた。
二人の令嬢は「殿下」という言葉に反応し、二人寄り添って遠巻きにフロランを見つめていた。
帝国にいるフロレンシオ皇子がこの国の長、大公だとフィオレから教えられていた。二人が生まれた時から大公閣下は帝国にいて、帝国の属国として多くの資源や金銭を搾取されることはエルヒュームでは当たり前のことになっていたが、いつか大公閣下がお戻りになると信じ、民も、大公の代理を務めている父ヴィクトルも、その日が来ることを待ち続けていた。
数年前にそのフロレンシオが不慮の死を遂げたらしいと噂が立った。大公家では大事件だったが、帝国からは何の知らせもなかった。第三皇子が国を荒らし、皇族が命を落とすのが珍しくない時期でもあった。正式にその死が証明されれば二人の父親である大公代理ヴィクトルが大公を継ぐことになるが、帝国が簡単に大公の地位をエルヒュームに戻すとは考えられず、どう出てくるか読めなかった。
何ができる訳でなくてもいざという時の心構えを持つよう、令嬢達はフィオレから言い聞かされていた。ヴィクトルも娘達の身の安全を優先し、貴族ではないが裕福な商家に娘を縁付けていたのだが…。
大公の帰還。それはフィオレ自身が長年切望してきたことだった。
”お願いでございます。どうかフロレンシオ殿下、…いえフロラン様、次期大公となりこの国をお守りいただけますよう。なにとぞ私共の願いをお聞き届けください。確かな後継者がこの国を継いでいかなければ、必ずや帝国は再びこの国を狙ってきます。現皇帝陛下は和平の道を望んでいると言われてはおりますが、利に敏いあの方のこと、いつお気持ちが変わるかもしれません。次期皇帝となられるエルヴィーノ殿下は、疎開先からの戻り道に帝国に逆らう賊共を皆殺しにしたと伺っております。まだまだ油断なりません”
その帰路にフロランもエリザベスもいたことは知られていない。わざと目立つ馬車を用意して賊を刺激したが、エルヴィーノ一行が先に襲われ、それに反撃したといういきさつさえ正しくは伝わっていない。誰もが帝国を恐れている。そう思わせる意図もあっただろうが。
”私は死ぬことで大公の座をこの国に戻したんだ。もう大公になることはないよ”
フロランはフィオレに諭すように言ったが、
”死んだのはフロレンシオ殿下です。フロラン様は生きていらっしゃいます”
フィオレの毅然と訴えかける様子に、ヴィクトルは希望を持った。フィオレならフロランを説得できるかもしれない。
帝国のことをよく理解し、あの帝国で生き延びてきたフロランならこの大公国を守る術を知っている。自分は代理として国内の業務を執行し、言われるがまま金を送り、貴重なこの国の資源を目の前で持ち逃げされ、海運の利権を取り返そうともしなかった。そんな人間が大公として巨大な帝国と張り合って行くなど、とてもじゃないが自信がない。娘達の夫、婚約者もしかりだ。
フロランはフィオレの願いとヴィクトルの期待に満ちた目を前にして、大きく息をついた。そして隣にいるエリザベスを見たが、エリザベスはやっぱりとでも言いそうな顔をしながらも、黙って成り行きを見守っている。
大丈夫だと言う代わりに、フロランはエリザベスの手を取った。
”私の願いは、ここにいるエリザベス・シーモアと共に生きること。この国に留まるのは、そのための居場所を作りたかっただけです。叔父上やフィオレが思っているほどこの国の事を考えて動いていたわけじゃない。エリザベスといられるなら、帝国以外であればどこでもいいんです”
エリザベスはフロランの言葉を聞いて、嬉しいと思うより先に衝撃を受けた。今、この場所で突っ込むようなことではないのだが、気になってしまったことがそのまま口から出た。
「フロラン、…エリザベスって言えてる…。エリジャベシュじゃない」
エリザベスの間の抜けた言葉に、フロランは今の状況も忘れて笑い声を漏らした。
「エリー…。今それ、言う?」
「だ、だって、エリザベスって言えないからエリーって、そう呼んでいいって」
「愛称呼ぶOKもらう、悪い男の手口ね。…あの頃から、ワタシ、エリー気に入ってた、きっとそういうコトね」
真っ赤になってうつむいたエリザベス。ルージニア語がわからない者であっても、繰り返されるエリザベス、エリーの名にフロランのにやにやした笑み、赤くなったエリザベスを見れば二人がじゃれていることくらいは想像がつく。
令嬢二人は目の前のラブラブな二人に目をキラキラと輝かせ、思惑ある大人達はこんな状況で何を見せられているんだと眉をひそめた。
”エリザベスと私を引き離す前提なら、これ以上話をする意味がない。あなたの娘達も私との結婚など望んでいないことを考えてほしい。もう一度言いますが、私は大公になったあなたの娘の影武者になり、愛する人と別れてまで大公の仕事を引き受けるようなお人好しではありません。…少なくともそんな条件で話し合いに応じる気はありません。三日待っても進展がないなら、私はエリザベスと共にこの国を出ていきます”
はっきりとエリザベスを選ぶと言ったフロランに、エリザベスはこの緊迫した場にありながら、つい笑みが込み上げてニヤつきそうになる自分を必死にこらえていた。
フロランといていい。フロランといてもいいんだ。
二人は部屋を後にした。ミレーヌとクロディットが笑みを浮かべながら小さく手を振るのが見え、エリザベスも小さく振り返した。




