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ブリジット・レポート  作者: 河辺 螢
第六章 エルヒューム編
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6-6

 もう旅の準備はできていた。予定通り明日はピネタを離れる。そこから先の行先が変わるだけ。

 二年間の約束はあまりにあっけなく終わった。

 待つことなんてなかった。皇城では同じ部屋に住んでいたのに、それでも分かり合えなかった。それなのにたかが手紙を送ったくらいで離れていても心はつながっていると思い込んで、ばかな夢を見ていた。

 そう、夢だ。あの時フロランが死んでしまったと聞いてからずっと見続けている悪夢。

 それが終わった。もう追いかけなくていいんだ。



 エルヒュームを離れる前に、エリザベスは海の魚や貝をしっかり堪能した。もう二度と食べることはないだろうが、悔しいくらいにおいしい。

 明日の馬車でここを離れたら、もう二度とここに来ることはないだろう。フロランが他の誰かと暮らすこの地に足を向けるなんてありえない。


 最後にもう一度、初めて見た海を見に行った。

 砂浜は前よりかなり広くなっていて、岩場は思った以上に沖の方まで伸びていた。ごつごつした岩の上を歩いて以前は海の中だったところまで行き、岩の間を覘きこむと水たまりに魚がいた。狭い水たまりに取り残された魚が自分のように思えた。またそのうち波が戻って来て、広い海に戻れるのだろうか。


 太陽が海に向かって飛び込もうとしていて、その手前には大きな船が止まっていた。この海の先にある国に行く船だろうか。エルヒュームの北に行った時に乗った船よりずっと大きい。

 あの船に乗ったら、他の国に行ける…?

 ふと昔読んだ冒険物語を思い出した。主人公の少年が停泊中の船にこっそり乗り込み、船倉に隠れて異国に行き、剣の修行をして悪党を倒し、お宝を手に入れる、そんな話だった。


 ここから泳いであそこまでたどり着けるだろうか。船はすぐそこに見えている。川で泳いだ程度しか泳ぎは経験はないが、なんだか簡単に行けそうな気がした。


 ゆっくりと水に足を踏み入れ、そっと岩を蹴ってみた。

 体が浮く。いけちゃうかも。

 船まで行って、見つかりそうになったら戻ってくればいいか、と軽い気持ちで先に進んだが、水を含んだ服が体にまとわりつき、徐々に重く感じてきた。もう着く頃だと思っているのにいつまで経っても船が近づいてこない。見た目より遠かったかと足をつこうとして驚いた。

 頭の先まで水に浸かっても全然足が届かない。

 これはまずい。岸に戻らなければ。

 泳いでいるはずなのに見えてる岸が一向に近づいてこない。気がつけば岩場の位置がずれている。そこでようやく自分が流されていると気がついた。

 川でも流れの早いところや深みはあるが、対岸が見えず、体験したことのない流れにさすがに恐怖を覚えた。しかもここにきて疲れてきた。決して泳ぎ慣れている訳ではないのに、なぜ変なことを思いついてしまったんだろう。しかもそれを実行するなんて、これで死んだら失恋のショックで自殺とか思われたりするんだろうか。

 それだけは絶対に嫌だ。


 波間にちらちらと見える岸の方から何かが近づいてきた。

 何とかあれのところまで…

 エリザベスは力を振り絞って泳ぎ、小さな木のボートがエリザベスまで追いつき、ボートの上に引き上げてくれた。

 助かった…。


 エリザベスはボートの上にひっくり返り、ただひたすら息をした。荒れる息はなかなか収まらなかった。

 そもそも服を着たまま泳ぐなんて無茶もいいところだった。もう少し遅くなって日が沈めば、もう誰もエリザベスを見つけてくれなかっただろう。

「あ、…あり……、あり、が…」

 何とか礼を告げようとしたが、息が乱れて言葉にならない。引き上げてくれた人と目が合い、エリザベスは言葉を失った。

 向こうもまた言葉を失い、エリザベスよりも衝撃を受けていた。


”…どうしてこんな無茶なことを!”

 助けてくれたのは、フロランだった。フロランに怒られたのはこれが初めてかもしれない。びくりと震えたエリザベスに、フロランはそれ以上責めることはなく、急ぎ船を岸へと漕いだ。沖へと誘う流れが強く、時間はかかったが、日のあるうちに岸にたどり着くことができた。

 ボートでずっと横になったままだったエリザベスは、岸を見て壁を乗り越えるように船を降り、砂浜の上でごろりと横になった。


”よう無事やったのう。こんな時間にあんな沖まで泳いで行って、戻れんなってしまうとこやが”

 船を貸してくれた船宿の主人が心配そうに話しかけてきた。

”ごめんなさい。…なんか、あの船んとこまで行けそうな気になって…”

”船ぇ? …あんな遠くまで、服着たまんまで泳げるかい。難儀なこと考えるのう。行けたところで、乗せてくれんやろ。あれはお貴族様が乗る客船ぞ。いなげなもんが近寄ったら殺されてしまうが”

 貴族の客船…?

 それを聞いて、エリザベスの密航計画は実現しようもない無謀な思い付きだったと知った。

 遠くに行けたらどこでもよかったのに。…あの世は対象外だが。

”…密航は無理か…”

 エリザベスのつぶやきに、船宿の主人はぶはっと笑い声をあげた。

”無理に決まっとろうが。ばかやのう。大きい船やけん、近うに見えてもずいぶん沖の方よ。この海岸の先は流れが変わる所じゃ。このにいちゃんが見つけてくれんかったら、流されて魚の餌になってしまうとこやったわい”


 このにいちゃん。

 帝都にいるはずの、ここにいる訳のない人が助けてくれた。

 改めてじーーーっとフロランを見ると、まだ怒った顔で向こうもじっと見ていたが、突然プッと噴き出した。

”なんで、密航とか…。もう、訳がわからない…”

 そしてずぶ濡れのエリザベスを気にかけることなく、エリザベスを引き寄せると腕の中に抱え込んだ。

”無事でよかった…。「会いたかった」”

「…濡れちゃうよ?」

 エリザベスは遠慮気味に聞いたが、海に船を出した時点で水をかぶっていて、今更濡れることなど気にする様子はなかった。

”なんや、二人は知り合いか”

”こんなところで会えると思わなかった。こうして助けられたのも運命に違いない”

 フロランは船宿の主人に船代をはずみ、主人は機嫌を良くした。

”海は怖いけん、海に連れてかれんようにせないかんぞ?”


 フロランは主人に礼をし、浜辺に脱ぎ捨てていた自分の上着をエリザベスにかけ、自分の荷物を肩にかけると、エリザベスの手をしっかりと握った。離さないと言われているかのようで、ますますどうしたらいいかわからなかった。


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