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ブリジット・レポート  作者: 河辺 螢
第六章 エルヒューム編
63/81

6-1

 フロランとの期限まであと三か月とちょっと。

 山を越えたその先、風が変わり、世界の果てが光って見えた。


 西の果てエルヒューム。ここはかつて大公国と呼ばれ、今はその縁者が代行統治している。帝国の影響があまり見られないと聞いていたが、その通り全く別の国に見える。山が境界になっているせいだろうか。

 山を下り、平地を更に進み、小高い丘の上に立つ大公家の館を見上げながら更に西へ。


 馬車の終点ピネタの街から歩くこと二時間。風に乗って潮の香りがし、足元はさらさらした砂に代わった。

 海がある。

 目の前に広がる青。海だ。湖よりもずっと広く、果てが見えない。近寄って来ては遠ざかる海の水。ザザザと波音が繰り返す、これが本物の波だ。


 ずっと海を見てみたかった。

 この海の向こうには違う国がある。水平線の先は見えないが、一番近い国は船で二日もあれば行けると聞いた。行ってみたい気もするが、まずはエルヒューム国内を探索することにした。



 初日は海に近い宿を取った。

”ようおいでたねぇ。どこから来たん?”

 なぜだろう。初めて来たところなのに馴染みあるような…。

”ルージニアから”

”ルージニア? どこやろ”

”帝国の東の、フォスタリアの向こう側よ”

”いやぁ、えらい遠方からおいでたねぇ。エルヒュームの言葉、どこで習ろたん?”

 言葉だ! エルヒュームの言葉、イングレイ語を教えてくれていた頃のフロランの話し方と似ているのだ。つまり、自分が今話しているのはイングレイ語エルヒューム方言、ということか。

 学生時代からずっとイングレイの標準的な言葉だと思い込み、教室でも皇族相手でも方言をべらべら喋っていたのだ。

 おのれフロラン、純朴な外国語学習者に何と言うことを…。


 皇子だったフロランは王都から出ることはなかったはずだ。身近にこの方言を話せる人がいて、聞き覚えたのだろう。エルヴィーノが何とかさんと同じ言葉を話すとか言っていたような気がするが、もはや記憶の果てだ。



 荷物を置いて近くを散歩し、浜に出て海に足をつけてみた。波が寄せ、引きながら足元の砂を削っていく。

 小さなかにが砂浜を走り、砂の中からプクプクと泡が立っている。顔を寄せるとそこに波が来て、かかった海水はしょっぱかった。

 これが海か。

 岩場の謎の目のようなポツポツに驚き、ざわざわと走る虫に悲鳴をあげ、打ち上げられているきれいな色のついた貝殻を拾った。

 海に沈んでいく太陽は、隠れる最後まで世界を照らしている。山や城壁に沈む光景とは違う。空が赤くなると海も赤くなる。そして星が浮かんできて、世界は闇に包まれていく。


 この目の前の世界を語り合いたい。感動と同時に思い出す寂しさをどうしたらいいのか。

 その日もノートに書くしかない。読んでほしい人に伝わるかもわからないのに。


 夕食には魚が出た。海の魚を食べたのは初めてだった。ルージニアで手に入るのは川魚だ。魚とも違う謎の柔らかいものは歯ごたえがあり、噛めば噛むほど味がした。この辺りでしか食べない()()という生き物らしい。貝の入ったスープは絶品だった。

 部屋に戻り、今日のことを書いている間も波の音がした。




 次の日、賑やかな音に目が覚めると、宿からそう遠くないところで魚を売りさばいていた。

 昨日食べたたこは実物はものすごくグロテスクだった。足がいっぱいあって、その足にぷつぷつがたくさんついている。この一つ一つがくっつくようにできていて、入っている容器から脱走しようとしていた。最初に食べた人はよくこれを食べる気になったものだ。茹でて売られているものもあり、昨日出されたものと同じ赤い色になっている。


 朝食も魚だった。塩で焼いたシンプルな味付け。エビの入ったサラダもおいしい。エビが泥臭くない。熱を通すと赤くなるのはたこもエビも同じだ。そういうものなのだろう。



 港からエルヒュームの北部に行ける船が出ていると聞いて、船に乗って移動することにした。波はさほど高くないが、体験したことのない揺れにちょっと酔い、遠くの島なみを眺めながら意図せず魚に餌を撒いてしまった。

 その日のうちに北の街につき、三日ほどあちこち回って帰りは陸路で南下した。駅馬車の終着点はピネタだった。



 前回と同じ海に近い宿で二日ほど過ごし、今度は南の方に行ってみたが、山の下はすぐ海で途中も平地が少ない。がけっぷちの道を通る恐ろしさ。谷間の道にも崖はあり何度か通ったことはあるが、下に波しぶきは見えない。ざばーーんとせり上がってくる波が今にも襲い掛かってきそうで、海風に馬車が揺れて怖さが増した。


 南でも食べ歩き、川船に乗って大公の別荘らしき古城を見上げた。漁村のおじいさんと酒場で意気投合して仲良くなり、釣りに誘われて小ぶりな魚を三匹ほど釣り上げた。魚の捌き方も教えてもらった。しっかり手入れされた包丁でおじいさんは魔法のように簡単に解体していき、骨から身だけがきれいに外された。この骨もいい出汁になった。肉も魚も生き物は皆同じだ。おじいさんの奥様は、おじいさんが自慢げに話す昔話に

”ほどほどに聞いといたんでええよ”

と笑っていた。

 結局帰りも同じ崖沿いの道を通ることになったが、帰りは波が穏やかで行きほどスリルを感じなかった。



 またしてもピネタに戻ってきたが、そのまま皇都に戻るにはちょっと早すぎる。帝都は物価は高く、宿や食費を考えるとあまり帝都で長居したくない。海が気に入ったこともあり、このまましばらくピネタで過ごすことに決め、あの海に近い宿を拠点にすることにした。


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