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皇后との勝負のことをフロランに言った方がいいのか。少なくともここを出ることになったことは伝えなければと思い、欝々とした気持ちで帰りを待っていたが、その日も、式の前日になってもフロランは戻って来なかった。
戴冠式当日の朝になり、せわし気に部屋に戻って来たフロランは、侍女や侍従を数名引き連れ、式典用の礼服に着替えた。着替え中にも行事の進行や来賓の説明が続いている。忙しそうだが一言だけでもと思い、そっと自室のドアを開けた。
”…式典の後、クリスティーヌ嬢が第五控室でお待ちですので、そのまま第二広間にお連れし…”
エリザベスに気がついた侍従と目が合い、侍従の声が止まった。
クリスティーヌ嬢、おそらく今日エスコートする相手の名だろう。フロランが単身でパーティに出席するとは思えない。既に皇后に気に入られた諸侯は行動に出ている。皇后の意向に沿うように世界は動いている…
アビントン邸でも見た皇子様の格好だ。いつもこの姿のフロランはエリザベスの手の届かないところにいる。
侍従が話を止めたままでいるので、フロランはどうしたのかと顔を上げた。その視線の先にはエリザベスの部屋に続くドアがあった。フロランが振り返った時にはドアは閉まっていた。
”し、…失礼しました。お連れするのは第二広間です。その後、…”
侍従は説明を再開し、フロランは何とか今日の日を乗り切ろうと、言われた段取りを頭に入れた。
フロランがいなくなった後、部屋はいつも以上に静かだった。
エリザベス以外、この居住区にいる者は皆戴冠式に何らかの形で参加している。
エリザベスの剣の腕を知る護衛は居住区の警備を簡略化し、配置されていたのは廊下の手前に一名だけだった。
街で買った背負える鞄。最近は図書室や散歩に行く時にも使っていて、城の者は見慣れている。あえて見慣れるように仕向けていた。
かさばる私物は大きなトランクの中に置いていった。あのレモン色のスカートも入れたまま。次に会う時まで捨てずに預かってもらえるだろうか。
皇城滞在許可がなくなりました
この機会にちょっと旅に出てきます
約束の日に荷物を取りに来ます
メモには、そう書いておいた。
約束の日まで、もう一年もない。
第一皇子の不慮の死後、ずっと延期されていた式典。ようやく新しい皇帝が決まり、城内で参加する貴族はもちろん、城内の広場が解放されて新たな帝国の歴史の一幕を見ようと多くの市民が集まっていた。
雲一つない快晴の空を、新皇帝は
”帝国の進む道が晴れやかであることを示す吉兆"
と表現し、市民の前で王笏を掲げ、祈りを捧げた。その言葉は翌日の新聞に大きく掲載され、新イングレイ帝国の新たな幕開けの象徴となった。
フロランは式典の数日前から式典の準備をしながら来賓との会談にも参加していた。皇帝が変わった機会に帝国と友好条約、あるいは不可侵条約締結を打診する国があり、今回の戴冠式での来国を機に条約締結に向けた話し合いも進んだ。
式典は宰相の背後、臣下の位置で参列した。皇子フロレンシオが生き返ることはない。それが皇帝の意思として周知された。
パーティではラングレイ侯爵に娘のエスコートを頼まれ、新皇帝の希望もあり引き受けたが、おだてる周囲の話からフロランが婚約していることを知っていて、架空の仲をアピールしようとしている。エリザベスを悪役に仕立てて自分の株を上げる、それが不愉快だった。腕に回した手は強くからみつき、顔や胸をすり寄せてきて歩きにくい。会場についても手を緩めようとはせず、来客へのあいさつ回りにもついて来ようとするのにうんざりして
”その手を離してもらいたいんだが”
とはっきり言葉に出したが、拗ねて見せるだけで一向に引こうとしない。愛想笑いを消すと怯えた様子でようやく手を離した。
出来が悪いと評判の三女をあてがってきたところにも侯爵自身のフロランに対する評価が知れたが、おかげで追いやるのもさほど苦労はしなかった。
その日の行事が終わると、執務室で各国に持ち帰ってもらうための条約の草稿をまとめ、ようやく自室に戻ったのは式典が終わった二日後だった。
それまでも政治を担っていた皇后が皇帝に繰り上がったため、大幅な人事の変更はなかった。
内戦後の復興が遅れ気味で、遠方の属国からは独立を要望する声が上がっている。手が行き届かず、資源の乏しい属国を切り離す案が出ているが、前任者は独立を目指す国から多額の賄賂を受け取り免職になっていた。担当者を明かすことなく調査を進めることになり、フロランはその仕事を自ら進んで引き受けた。それも二、三日休みを取ってからでいいと言われている。
フロランを試すようにずっと仕事づくめにされてきたが、ようやく戴冠式が終わり一区切りがついた。やっと休みが取れる。
部屋は静かだった。
エリザベスはもう眠っているのだろう。休みの過ごし方を相談したかったが、こんなに遅くなってしまい起こしてしまうのは申し訳ない。そう思いながらも、部屋の寒さが気になった。
部屋が寒い。人がいるなら暖められているだろうに。ここに来たばかりの時のように嫌がらせはされていないはずだが…。
「エリー?」
そっと扉を開けると、カーテンは開けたままで、月明かりに窓枠の影が部屋の中まで伸びていた。
部屋はきれいに片付いていた。いつか部屋を覘いた時は何かを書き込んだ紙が床に広がり、読みかけで積みっぱなしだった本はなくなっていた。素振りに使っていた木刀はずっとドアの近くにあったのに、遠くの壁に立てかけられていた。ベッドの下にトランクが二つ。いつもはベッドカバーに隠れているのに、少しめくれ上がっている。何かを出し入れしたようだ。
そのベッドの上には、誰もいなかった。
エリザベスがいない。
トランクを開けると、自分が買い与えたドレスやスカートがきれいに折りたたまれていた。ほっとした次の瞬間に気が付いた。
いつも着ている服がない。剣も、ダガーもない。隠し場所を教えてくれた金も。
居間に戻り、机の上に残された書き置きに気が付いた。
皇城滞在許可がなくなりました
この機会にちょっと旅に出てきます
約束の日に荷物を取りに来ます
エリザベスの皇城滞在許可がなくなっていた。フロランの客であり、同居している婚約者でありながら、その情報がフロランに届いていない。届いていたのに気付かなかったのかもしれない。日々もたらされる多くの情報に、フロランにとって適切な優先度を見極めてくれる頼りになる執事はまだ見つかっていない。あるいは意図的にこの情報を隠されていた可能性さえある。
この書置きが置かれたのはいつだ?
エリザベスはいつからいない?
廊下で警備をする男に聞いた。
”エリザベスは、外出しているのか?"
男はさほど驚いた様子も見せず、
”近いうちに城を離れると聞いてはいましたが、もうお出かけになったのでしょうか。イングレイであちこち行ってみたいところがあるそうで、私の故郷の話も聞かれましたが…”
自分以外の男の方がエリザベスのことを知っている。それが無性に悔しかった。
”…いつ…、その話を?”
”戴冠式の前日だったと思います。戴冠式の日にはクレイグが挨拶したと言ってましたので、出発されたのはあの日以降でしょうか…”
一番居住区の警備が手薄になっていた時だ。エリザベスならその日を選ぶだろう。
”そう、か…”
仕事が忙しかった。家を探しに行く約束も忘れていた。一緒に食事をしたのはいつだっただろう。最後に話をしたのは…
他の誰でもない、フロラン自身がエリザベスをないがしろにしていた。ここなら安全だと言ってこの部屋に閉じ込めておきながら、話しかけられても生半可な返事をし、気を効かして静かにしてくれるエリザベスに甘えていた。
たとえ皇帝がエリザベスを追い出さなくても、いずれエリザベスは出て行っただろう。その選択をさせてしまったのは自分だと、フロランは気がついた。
二年の約束は、残りはもう一年もない。
その日には戻ってくる。そう書いてはあったが、本当に戻ってくるだろうか。
戻って来てくれるだけの価値が、自分にあるだろうか。
フロランはソファの上に寝ころび、両目を腕で隠し、そのまま気絶するように眠りについた。




