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フロランはつい最近婚約がなくなったように言っていたが、本当はこの国に来てすぐにブリジットとの婚約は解消が決まっていたのだ。単に手続きに時間がかかっただけで…。
どうしてあの時、ブリジットに振られたなどと言ってきたのだろう。エリザベスを側妃にするなどと。
「恐らく殿下は、留学名目で国を離れ、そのまま帝国に戻らないつもりだったのだと思うわ。だけど当てにしていた我が家からは縁を絶たれ、公爵家が面倒を見切れないと判断した人を他家はそう簡単には受け入れないわ。そもそも上位貴族の適齢期の令嬢はすでに婚約者が決まっているもの」
どこかで聞きつけた噂話でもしているように語る姿は、ブリジットがフロランとの婚約解消に何の未練もないことを如実に表していた。
「更に皇帝陛下が危篤、第十皇子殿下が暗殺されて、好戦的な第三皇子が帝位を狙っていると噂が広まり、皇子を匿うことで帝国が攻め入る口実にされてることを恐れた国王陛下からフロレンシオ皇子を婿入りさせることのないよう、国内の貴族に内々にお達しがあったの。どうしても結婚したいなら殿下について帝国に行くしかない。けれど今の帝国は政情が不安定で何が起こるかわからない。わざわざ娘を危険な目に遭わせたい親なんていないもの。どこの親も娘に言い聞かせ、恋心を抱いていても諦めるよう説得したようよ。ほんと、運のない人。タイミングが悪すぎたわ」
そんな話になっていることさえ、エリザベスは知らなかった。
「婚姻とは関係なく仕事を斡旋してもらえないかと聞かれたけれど、お断りしたわ。我が領に定住されれば陛下のご意向に背くことになるし、帝国とは関わり合いにならないのが一番だもの」
これがフロランの言っていた告白、「ずっとあなたといたい」の本当の意味だったのだろうか。
嘘の中に混ざる真実に、エリザベスはフロランが何かを訴えかけていたように思えた。自分がそれを受け取る力がなかっただけで…。
「あなたの家だってそうでしょ? 見切りをつけた見合いを継続しているふりをしてると聞いたけれど」
「見合い…?」
まさかスペンサー家ではなく、我が家の、自分の事情で見合いが続いているふりをしていた? シーモア家もまたフロランを受け入れる気はないと宣言していたということ…?
「まさか、…そんな…」
呆然としているエリザベスを見て、ブリジットは大きく溜息をついた。
「それさえも知らなかったの? ほんと、あなたは世間知らずで甘やかされているのね。貴族なら自分の置かれた立場を知り、家のために動くものよ。もっと自覚なさい。そもそも何故あなたが殿下のチューターに選ばれたのか、考えたことはあるの? あなたがイングレイ語が壊滅的で、殿下が何を話しても聞き取ることもできず、スパイの嫌疑をかけられることがないからよ。貴族の令嬢でありながらイングレイ語もできないなんて恥ずかしいとは…」
ブリジットは思わず言葉を止めた。
エリザベスは大粒の涙を流していた。ぼろぼろとこぼれる涙は止まらず、泣けば何とかなると思っている甘さを責める言葉を口にしようとしたが、
「私は、フロランを、助けられたの…?」
予想もしなかったエリザベスの言葉に、ブリジットは自分の耳を疑った。
「あなた…、何を言って」
「友達なのに。…友達なのに、助けられたのに、…何もできなかった…」
「後ろ盾もない異国の皇子なんて、家族や領民と引き換えにしてまで助けるほどの価値はないわ」
「友達なのに、フロランが困っていることも、苦しんでいることもわかってなかった。…私は何も、なんにも、わかってなかった…」
エリザベスの涙は、ブリジットの理解を超えていた。
見合い中と宣言して自分を結婚対象にしないよう牽制するのはごくごく当たり前のこと。相手はどんな言いがかりをつけて来るかもわからない帝国。多くの国が小さな不満をきっかけに国に攻め入られ、帝国に従うことを余儀なくされてきたのだ。
ブリジットは異母弟ができたと同時に、会ったこともない婚約者のことは忘れるよう言われ、新たな婚約者候補の侯爵家子息エリオットと交流を深め、三年の月日をかけて懇意になっていた。
不利な相手は乗り換える。より良い関係を持てる相手と縁を持つ。それは貴族に生まれたブリジットにとってごく当たり前であり、迷うことはなかった。
時節を読み、世界の動向を知り、人間関係を把握する。夫を立て、子供を育て、家を盛り上げ、領を豊かにしていく。それが公爵家令嬢として生まれてきた自分の役目だ。それをこの目の前にいる女は貴族の令嬢でありながら少しもわかっていない。ブリジットは無性に腹が立った。
「フロランは何も悪くないのに、女たらしでダメな人って決めつけて…、横恋慕してるって…」
エリザベスは入学してすぐに、カフェでブリジットが男子学生と仲良くイチゴのパイを食べているのを見たことがあった。いつも凛として隙の無いブリジットがとろけるような笑顔を浮かべ、仲睦まじい姿をほほえましく、ちょっぴり羨ましく思った。いつか自分にも素敵なお相手と巡り会って…。
そんな記憶がエリザベスに誤解を与え、フロランへの偏見を助長していた。
「私が勘違いしてただけなのに…。ブリジット様の婚約者はあの方だと…」
エリザベスの言葉にブリジッドは表情を歪ませ、立ち上がって声を荒げた。
「お父様が認めた方よ! お父様に言われたお相手だもの。会ったこともないかりそめの婚約者より、近くにいる婚約者候補の方を優先して何が悪いの? 私が不貞を働いたようなこと言わないで!」
あのブリジットが怒鳴った。いつも冷静なブリジットが。驚きのあまりエリザベスの涙は引いていた。
エリザベスは気がついていなかった。フロランは悪くない。その言葉の裏を返せば、悪いのは誰になるのか…
「不貞…? ……ああ、…そう……」
ぼそりと繰り返された言葉に、ブリジットは歯を食いしばったまま羞恥で顔を赤くした。
婚約者がいながら、解消する前から他の男性とデートを繰り返していた。それを世間では不貞と評価する。遠回しな嫌味を向ける者もいたが、それは父の指示、父の言うとおりにしている。何も恥じることはない、そう自分に言い聞かせ、批判を無視してきた。
エリオットと会う日を楽しみにし、服や装飾品は厳選し、おしゃれに時間をかけ、家に向かう馬車の中では心がときめき、早く過ぎてしまう時間が名残り惜しかった。家のために相性の合わない人と渋々結婚する人だっているのに、こんなに素敵な人に出会えるなんて運がいい。名ばかりの婚約など早くなくなればいい。なくなることこそが正しいのだと信じていた。
帝国の皇子と縁を持ち続けてはいけない。家のためにも。自分のためにも。領民のためにも。この国のためにも。
しかし、正当化するための理屈を並べても、道義的に見れば正しいことではないのだと、どこかでわかっていた。だからこの愚鈍な子爵令嬢のフロランを思う言葉が自分を責めているように聞こえてしまったのだ。もうあの忌まわしい婚約は解消し、エリオットの正当な婚約者となったのに、今更…
「すみませ…。お時間を、いただ… 、ありが、…、ござい…。ご婚約、おめでとうござい、ます…。どう、か、ご多幸あります、…ことを…」
消えそうな声で挨拶すると、エリザベスはもう二度と来ることはないだろう応接室をよろめきながら出て行った。




