契約婚が終了するので、報酬をください旦那様(にっこり)
三年前。公爵令息ライアードは窮地に立たされていた。彼の母親は幼い頃に病で亡くなり、父親も彼が成人する直前の十七歳で、病に蝕まれこの世を去った。
巨大家門である公爵家を継ぐには若すぎる未成年。
誰がライアードの後見人になるかで、家門会議は荒れに荒れた。
これを機に公爵家を乗っ取りたい親族。
娘をライアードと結婚させ、女主人として公爵家の掌握を目論む、遠い親戚。
大人の醜い争いにうんざりしていたころ。ライアードを訪ねてきたのは家門の末端に位置する男爵家の令嬢、エフィナだった。
末端の者にまで公爵家を乗っ取れると思われていることが、非常に腹立たしい。
すぐにでも男爵令嬢を追い出そうとしたが、彼女は切実に困っている様子でこう提案してきた。
「三年だけの契約結婚をしませんか」
期限付きであることに興味が湧いたライアードは、エフィナの話を聞いてみることにした。
男爵家は現在、三年続いた作物の不作のせいで、借金まみれ。このままではお金を借りている平民の富豪と、エフィナは結婚しなければいけない。
「そいつ、肉汁が滴っているような、でっぷり太った中年のおじさんで、触られたところが全部べたべたになるんですよ! あいつを出荷できれば領地の借金も返せそうなのに!」
田舎から出てきたというエフィナは、ライアードが今まで接してきたプライドの塊みたいな令嬢たちとはまるで違う。
口は悪いが、感情に素直なところが気に入った。これまで家門内の心理戦に疲弊していたライアードは、心の安らぎを求めていた。
「私こう見えてアカデミーを次席で卒業してますし、ライアード様より三歳お姉さんですし、後見人と妻を両方引き受けられます。これから三年も公爵として実績を積めば、家門の貴族たちも下手に手出しできなくなるはずです。私はそれを見届けたら、速やかに報酬をいただいて離婚いたしますので」
エフィナの目的は、領地の借金を返すための報酬。
聞けばその額は、ライアードにとっては微々たるもの。三年間も公爵夫人の役目を果たし、離婚歴までついてしまう彼女には、安すぎる報酬だ。
ライアードは、領地の借金はすぐさま返済し、三年後には仕事に見合った追加報酬も支払うと、彼女と約束した。
「ところで、エフィナ嬢が次席卒業した年の首席はたぶん、僕です」
「え……。歳が違うじゃないですか」
「僕は三年飛び級したので」
「ふえ…………優秀なお姉様設定を崩すの早すぎ!」
それから三年間。彼女は公爵夫人としての勤めを立派に果たした。
長期間にわたり女主人が不在だったために、乱れていた使用人の秩序を整え、執事長の不正を暴き。内向的な皇女の味方にもなり、皇帝からの信頼まで手に入れた。
全てが順調すぎて、この平和がずっと続くかもしれないと皆が安心していたある日。
エフィナは意気揚々と、ライアードの執務室を訪れた。
「そろそろ契約婚が終了するので、報酬をください旦那様」
にっこりと微笑む彼女を見つめたまま、ライアードは固まった。
(なぜだ……)
彼女にも、それなりに公爵家への情が湧いており、簡単に離婚を切り出すとは思いもしていなかった。
少なくともライアードは彼女を大切にしてきたし、不自由のない暮らしも提供してきた。
遠まわしながらも、愛情表現はしてきたつもりだ。
使用人たちも彼女へ絶対的な信頼を寄せている。今や、彼女なしでは公爵家は回らないというのに。
(簡単に捨てるのか……)
ライアードは、彼女を愛してしまっている。
いつも陰からも、表からも、彼女は支えてくれた。本当の妻ではないのに、溢れるばかりの愛情を持って接してくれた。
それは彼女にとっては契約上の仕事だったのかもしれないが、そのような態度を三年間も受け続けられたら、勘違いしてしまうではないか。
しかし、大きくなりすぎたこの気持ちを、ここでぶちまけるわけにもいかない。
「そうでしたね。具体的な報酬を決めるために、エフィナがこれから望む生活を教えてくれますか」
「領地へ戻ったら、隠れ家的なカフェを経営したいと考えているんです。領地はオシャレなお店が少ないので、きっと繁盛すると思うんですよ」
「カフェですか。とても良い考えですが、まさかエフィナがみずから店に立つわけではないですよね?」
「いけませんか?」
「考えてもみてください。貴族のお嬢様が店で接客をしていたら、平民は恐れて近づけないはずです。領地の客層を考えると、実務は人を雇ったほうが無難でしょうね。その分の資金はこちらで用意しましょう」
ライアードが予算をメモしていると、エフィナは少し残念そうな表情を浮かべる。
行動的な彼女には申し訳ない意見を出してしまったが、ライアードも簡単にはエフィナを領地には返したくない。
「客を直接もてなしたいのであれば、この帝都でカフェを経営してみては? エフィナが経営するカフェなら、貴族が安心して利用できますし」
「ここでですか? それができれば一番ですけど、帝都は家賃が高すぎますよ」
「それならご心配なく。メイン通りの公爵家所有物件があるでしょう。あちらをエフィナに譲渡します」
「えっ! あんな一等地を私に譲ってくれるんですか! 離婚の慰謝料としても多すぎませんか?」
「エフィナなら、公爵家の経済状況も把握していますし、遠慮なく受け取れるでしょう?」
確かに一等地ではあるが、公爵家の資産総額に対してはそれほどではない。
エフィナはそれを理解した様子で、こくりとうなずく。嬉しさを隠しきれていない姿が可愛い。
彼女へ譲渡する前に、一流衣装店と宝石店をテナントに入れておこう。
女性が好む店を隣り合わせておけば、エフィナのカフェは貴族女性のたまり場になるはずだ。
「領地へ戻るつもりでしたが、そうなると帝都に住まいも必要ですね。譲渡していただく物件の辺りは家賃が高そうだし……」
「なにも急いで家を探す必要はないですよ。エフィナの今の部屋をそのまま無期限でお貸しします」
「えっ……。良いのですか?」
「僕は再婚の予定もありませんし。エフィナが再婚したいなら、話は別ですが……」
「私も再婚する予定はありませんよ」
「それなら僕たち、わざわざ離婚をする必要もない気がしてきましたね」
急に思いついたかのように笑みを浮かべるライアードを見て、エフィナはこの会話の意図について気がついた。
彼は思いつきで発言するような人ではないからだ。
「もしかして……、私との結婚生活を続けたいとおっしゃるのですか?」
「今まで良い関係を築いていたので、それが続けばよいと思うのはいけないことですか?」
「ですが……」
エフィナは顔が熱くなる。
彼はエフィナにとって、前世からの『推し』。それを思い出したのは彼の父親の葬儀の際だった。
ライアードは小説のヒーローで、父親の死によって若くして公爵となった彼は、親戚中から利用されて苦労することになる。
同じく皇宮で苦労していた皇女と出会うことで、お互いの境遇を理解し合い関係が深まるストーリーだ。
「本当に良いのですか……? この機を逃せば私は一生、この公爵家に居座ると思いますよ」
「むしろそれが望みです。どうかこれからは、本当の妻として僕の隣にいてください」
どうしてだろう。よいビジネスパートナーだとは思っていたが、彼が恋心を抱くようなエピソードなど、この三年間でなかったはずだ。
これは、疑似的な家族への情が湧いただけなのでは。
「これから皇女殿下はますます綺麗になりますよ。後悔しても知りませんからね?」
「なぜ皇女の話が出てくるのですか」
「お二人は同じ歳ですし、身分も釣り合います。それに比べて私は年上ですし、地方貴族の娘ですもの……。あとで、『真実の愛に目覚めた』と離婚されたらショックです……」
それを聞いたライアードはくすりと笑みを浮かべる。
「幼い僕の心を奪っておいて、よく言いますね」
「え……?」
「その様子では、アカデミーで出会っていたことにも、気がついていないのでしょう」
「はい……?」
「僕は、三年飛び級したと話したでしょう。十歳で三年上の生徒たちと一緒に勉強するのは結構大変だったのですよ」
「そうでしょうね……」
「そんな時、僕を熱心に世話してくれる同級生がいました。野外授業で、課題の紙を飛ばしてしまった僕を見かねて、一緒に探してくれたのが始まりでした。それから黒板が見えないだろうと、席を交換してくれたり。課題で使う重い道具を、代わりに運んでくれたこともありました。その子のおかげで僕は、挫折することなく一年間を過ごせたのです」
「えっ、うそ。それって……あの時の、ちっちゃい男の子!」
十歳と十三歳とでは体格に大きな差があり、いつも苦労しているその子を放っておけずに、何度も手を貸した記憶がある。
(それがまさか、推しだったなんて!)
前世の記憶が戻ったのはアカデミー卒業後。
その前に推しと出会っていたのは奇跡だ。けれど、どうせならもっとしっかりとお世話したかったし、成長を目に焼き付けたかった。
「でも、あの子は一年間でいなくなっちゃったんです。本当に旦那様だったのですか?」
「飛び級のクラスで授業を受けるのは大変だと判断されて、定期試験を受けるだけでよいことになりました。なので、僕で間違いありません」
「再会した時は僕も驚きました。まさかこんなに綺麗に成長していたとは」と言いながらライアードは席を立つと、エフィナの前に立つ。
「十歳の僕の心を奪った罪深い夫人。責任を取って、これからも僕の妻でいてください」
「それは重大な罪ですよね……。推しの人生を狂わせたのだから責任は取ります……」
彼女が時々口にする独特の言い回しだが、許可は得られたようだ。
やっと想い人を手に入れた。ライアードは彼女の頬に触れ、結婚式以来の口づけをした。
ちなみに後日。エフィナは罪悪感を抱えながら、皇女に報告へ向かった。
けれど彼女はきょとんとした顔で、エフィナとライアードの離婚が回避されたことを祝福した。
それどころか、エフィナになついている彼女は、エフィナが領地へ戻らずに済んだことを心から喜んでいる様子で。
考えてみれば、普通は既婚者に恋心を抱いたりしない。エフィナは二度もライアードの人生を狂わせていたのだ。
この責任はしっかりと取りたい。そして、皇女への責任も果たすつもりだ。
ライアードより良い男はこの世には存在しないので、ライアードの次に良い男を見つけて全力で応援するつもりだ。
その過程で、ライアードが激しく嫉妬するなどとは、考えもしていなかったが。
お読みくださりありがとうございました!