5 父親になって ー真吾ー
くっそ暑い。
社有車のフロントガラスを通して入ってくる8月の容赦ない熱射が、カーエアコンなんて効いてるのか? と言いたくなるほど真吾をジリジリと焼いてくる。
どっかで40度超えたって? それって、日陰の涼しい場所で測った気温だろ?
真吾は車のモニターの温度表示をOFFにしている。見たらもう、それだけで仕事をする気が失せそうだ。
カーナビの片隅にTVのウインドウがあって、そこに高校球児たちの姿が映っていた。真吾はそれにチラと目をやって、うんざりする。
よくやるよな。こいつらの体って、オレとおんなじモノなのか? いつまでやるんだろう、これ? 誰か死ぬまでかな?
真吾は野球に興味はないが、この季節、取引先で話題になった時のために一応トピックのチェックだけはしておく。
今日は大口の契約の最後の詰めだった。来週には社長を連れていって、契約書の調印だ。
このオンラインの時代に、結構まだこういうことには「ハンコ」にこだわる会社も多い。
時間はまだ余裕がある。先方に着く直前に、コンビニに入って体を冷やして行こう。汗だくでは印象が悪い。
真吾の会社は野菜工場のプラントを販売していた。
タワー状で敷地を取らず、ソーラーパネルで発電した電力だけで稼働するため、Co2排出ゼロです。さらに野菜が育つ時にCo2を吸収してくれますので、環境にやさしい先端技術になります。
病害虫に侵されることがないため「無農薬」の野菜となり、先のCo2排出ゼロと合わせて市場での付加価値を高めることができます。
まあ、こんなところがウリだ。
ウソである。
真吾は知っている。
たしかに、野菜の生産時にはCo2は排出しないが、プラントの部材製造時にもプラント建設工事中にも莫大な量のCo2を排出している。
しかしそれらの排出量は製造工場や建設会社にくっついてゆき、真吾の会社にはくっついてこない。せいぜいこのハイブリッドカーが使うガソリンと、社内で使う電力くらいだ。電力も大半は、自社ビルに設置したソーラーパネルで賄っている。
そのソーラーパネルやプラントの部材も、実際を言えば廃棄時には始末に負えない「ゴミ」になる。が、その分も当面は会社の「環境負荷」には計上されない。
それらには全く気づかないフリをして、真吾は今日も営業活動に精を出す。
我が社はSDGsの最先端を行く企業です。
1日を終えて家に帰る前に、保育所に寄る。
そこで真吾を待っているのは、娘の凪紗だ。真吾を見つけると、母親似の満面の笑顔で真吾の膝に飛びついてくる。
娘というものがこんなにも可愛いものなのだ、ということを真吾は父親になって初めて知った。妻の海鈴と恋愛していた頃の感情とはまるで違う。
妻の就業シフトは真吾よりも遅い時間帯であるため、保育園の送りは妻、迎えは真吾、と役割を分担してある。夕食を作るのは真吾の仕事だった。
「あのねえ、今日ねえ——。」
凪紗が夕食の支度をする真吾のエプロンにまとわりつきながら、保育園でのあれこれを話してくる。
真吾はその話に、いちいちキチンと返事を返してやる。保育園での生活は凪紗にとっても楽しいらしい。
凪紗の通う保育園は遅い時間まで保育してくれるだけでなく、幼児教育としてもレベルの高い教育を提供してくれるところだった。
幼稚園でないのは、「幼稚園」にしてしまうとむしろ国の縛りがあって高度な幼児教育ができなくなってしまうためだ。
料金は高いが、人気があるため倍率も高い。それをクリアして凪紗を入れることができたのは幸運だった、と真吾は思っている。
この子には幸せでいてほしい。
この子には幸せになってほしい。
真吾には分かっていることがある。
たぶんこの先、異常気象はどんどん酷くなるだろう。人類は環境問題の解決なんてできやしない。
それどころか、核こそ使わないものの、大国同士が終わることのできない戦争なんかやってるじゃないか。Co2削減なんて絵空事さ。
ついこの間もまた豪雨災害があり、川の氾濫で1ヶ月前の洪水被害から立ち直りかけていた地方の町が壊滅的な打撃を受けた。
そんなニュースを耳にするたびに、真吾は思うことがある。
今はまだ冗談半分みたいに受け取られている気象シェルター付き住宅も、近い将来には必需品になるだろう。
気象災害を受けにくい地域に住むためには、気象シェルターとしての機能の高い住宅を手に入れるためには——。
金が要る。
それを維持できるアッパークラスに入るには・・・、凪紗にもいい教育を与えてやらなければならない。
まともなシェルターを手に入れられないような下層民には、この先悲惨な暮らしが待っていることになるはずだからだ。
もちろん、表向きに真吾はそんなことを誰かに言ったりはしない。
しかし、妻と2人で目一杯働いているのはそのためなのだ。真吾は人生には「計画性」というものが大事だと考えるタイプだった。
くだらない浪費はしない。会社の仕事の他に、投資を勉強して資産を増やす努力をしているのもそのためだ。
凪紗には幸せでいてほしい。
タイパよくレンジでチンした冷凍食品に手作りの一品を加えて、真吾は凪紗とテーブルで向き合った。
その笑顔が、たまらなく愛おしい。
もうすぐ海鈴も帰ってくるだろう。
この子を守る!
この家族を守る!
真吾は父親になって、はっきりとした人生の目標を持つようになった。
目標さえ定まれば、真吾は合理的な計画の上に人生の道筋を描いてゆくことができる。受験戦争に勝ち抜くことができたのも、その力があったからに他ならない。