23 人の心 ー千明ー
千明はなかなか家に帰れなくなった。日付が変わってからタクシーで家に帰り、数時間寝てすぐに出勤する。そんな日が続くようになった。
これでは体が保たないと近くのカプセルホテルを借り、そこを根城にすることが増えた。真夜中過ぎに家に帰って数時間で家を出るのでは、妻の相手もできないし、妻にも負担がかかる。
あの日以来、日常が大きく変わった。
なんでこんなことになっているのだろう?
と千明は時おり自問してしまう。
確かに、シェルター・シティ関連で業務が増えているのは間違いない。が、それは大臣官房特任チームのメンバーとしての仕事で、それとは別に国土保全局の仕事の方も放してはもらえないのだ。
槇山審議官の口利きもあって、千明は総合政策局の方に詰める日が多くなったが、立場はあくまでも保全局の職員のままである。しかも保全局の仕事は一向に減らしてもらえない。
災害現場に出向くことは減ったが、内勤の仕事量はむしろ増えた。
「マンパワーが足りないんだ。」
と、局長は千明にも槇山にも説明していたが、残業もほどほどに帰宅する他の職員の姿を見ていると、どうもそれは本当の理由ではない。
嫉妬だ。
と千明は分かっている。
自分の頭越しに槇山審議官に見出された千明に対する、局長の——。
政権の目玉プロジェクトの実動メンバーに抜擢された千明に対する、同期の同僚の——。
それでも千明は不貞腐れたりはしない。
「汗をかくことだ。」
目をかけてくれる槇山審議官の言葉を何度も胸の内で繰り返しながら、千明はこの境遇に耐え続けた。
やがてそれは報われることになった。
石沼総理が、若手の「勉強会」でまとめた計画をほぼそのまま呑んでくれたのだ。かなりラディカルな政策が政府から打ち出された。
それに伴う法改正案も、特任チームの提案にほぼ近い形でまとめられた。ブルドーザーと言われる石沼総理の力が大きい。
国会も、与党が圧倒的多数を占めるからこのまま通るだろう。
これで、悲惨な気象災害の犠牲者はぐんと減るはずだ。
千明は満たされた達成感の中で、そう思った。
手柄が槇山審議官のものとして扱われているのは問題ではない。
彼をそこまで押し上げた影の立役者として、今後千明の立場は強いものになっていくだろうことは誰の目にも明らかだった。
実際、千明の局内での立場も変わってきている。以前のようにイジメのような保全局の仕事はなくなり、次期局長の下馬評も聞こえるようになっている。
それだけに、千明はますます忙しくもなっていた。
オレの時代がやってくる。
ところが、意外な障害が立ちはだかった。政府の目玉政策として打ち出された国土改造計画は、地方から巻き起こった激しい反発の嵐にさらされることになったのだ。
地方の歴史ある街並みや里山の暮らしを根こそぎ否定するのか!
地に根ざした人々の、素朴な感情であった。
強引だ! 歴史や文化を何だと思っているのか!
人々のささやかな暮らしと文化を守るのが、国の仕事ではないか!
合理的に考えるべきだ。激甚化する気象災害から国民の命を守るための政策ではないか。現実に起きている被害を見てみろ!
国論を二分する大論争になる中で、石沼総理は押し切ろうとした。石沼大河の悪い部分が出たと言っていい。
そのあたりから、空気が少し変わり始めた。
最初、好意的な賞賛の声が大きかったマスコミの論調が、批判的なものに変わってきたのだ。
石沼総理の傲慢。
日本文化を破壊する独裁者。
マスコミの取材攻勢は槇山だけでなく、「計画推進の真の黒幕」というフレーズで千秋の元にまで及ぶようになった。
ありもしない汚職の話まで書き立てられ、連日、千秋の自宅前にマスコミが張り付くようになり、千明は家に帰ることができなくなった。
そうした流れを受け、野党だけでなく与党議員からも公然と反対を言う者が現れ始めた。
ついに石沼総理は業を煮やし、解散に打って出た。
そして今では誰もが知るとおり、与党は惨敗。政権は維持したものの、石沼内閣は総辞職。新しくできた野村内閣は、野党の意見を大幅に入れて折衷案を提示。
国土改造計画は頓挫し、気象災害の被災地に限り「シェルター・シティ型の避難施設」を建設する——という中途半端な政策に矮小化されてしまった。
どこに、そんな小さな古い街並みをこの気象災害から守る方法や予算があるんだ?
無責任な野党、マスコミども!
やり場のない憤りと敗北感の中で、ほとんど1年ぶりに我が家に帰った千明を待っていたのは、誰もいない空っぽの自宅だった。
ダイニングテーブルの上に、A4のコピー用紙に書き殴られた妻の書き置きだけが乗っていた。
日本が本格的にシェルター・シティの建設に取りかかるのは、それからまだ20年を要することになる。
その頃になると世界はすでに、「先進国」ですら自国の防災で手一杯になり、他の国のことに関わる余裕を失い始めていた。
国家が崩壊した地域では多くの人々が、荒ぶる自然の中に何の保護も得られないまま投げ出されたのだった。




