20 取り残された世界 ーミハイルー
甘かった。
とミハイルは腹の中で悔やむ。
しかし、悔やんでみたところで現状が何か変わるわけではない。「街」はまだ見えない。
まとわりつく泥から足を引き抜くようにして、1歩、1歩、前に進む。
* * *
まだ子供だった頃、ミハイルは地球温暖化の話を聞いても、自分の住んでいる北の大地にはむしろ恩恵だ、今より暮らしやすくなるだけだろう——くらいにしか考えていなかった。
それがどれほど甘い考えであったかを、今、泥をかき分けるようにして進みながら、改めて痛感させられている。
子供の頃、ミハイルは「この国は偉大な国だ。偉大な文化と歴史を持つ、世界一優れた民族の国家だ」と教えられた。国は隣国と戦争をしていた。
だが、そんなものはミハイルが物心つくような年齢に成長した頃には、無残に空中分解してしまい、幾つもの「共和国」に分かれてしまった。
もちろん、それも名ばかりの国家で、実態は武装マフィアの支配する紛争地帯でしかない。
それらの武装マフィアが、くっついたり離れたり戦争したりをしょっちゅう繰り返し、マフィア中央部の有力者にコネを持たないミハイルたちのような一般人は、ただ翻弄され、蹂躙され続けるしかない状況だった。
そんな中でミハイルの父も母も兄弟も命を落とし、ミハイルだけがこの年まで生き延びたのは奇跡と言ってもいいくらいだ。
ミハイルは小さな武装グループ(ギャングと言ってもいい)の一員になることで、その日の食糧を得ていた。
食糧生産のできる「農地」や「工場」は大きな武装マフィアが所有しており、それを他の武装マフィアから守る形で食糧を生産している。
食う、ということだけなら、そういうところの農奴として働く道もあったが、若くて敏捷性もあったミハイルは小さい武装グループに身を寄せ、戦って食う道を選んだ。
そういう小さな武装グループは、時に民間人を襲ったり、大きな武装マフィアの助っ人として戦争に参加して食糧の分け前をもらったりして生きている。
特定の武装マフィアと継続的な関係を持つものもあれば、ミハイルがいたところみたいに状況によって勝ちそうな側につくというやり方をするところもあった。
* * *
ガソリンの尽きたトヨタのオンボロ中古車を乗り捨て、歩き出してから2時間くらいになるだろうか。
道路なんか、とっくに形を失ってズタズタに寸断されている。それが溶け出した永久凍土の泥の中に半分埋もれて、所々にその痕跡を見せているだけだ。
それでも車にしろ歩くにしろ、そういう場所を選んで歩くのが最も安全と言えた。下手な場所に足を踏み入れれば、底なし沼のようになった泥の中に沈んでしまいかねないのだ。
道路をこんなふうにした元凶の1つである戦車の残骸が前方に見えた。錆び付いて、泥の中に半分埋もれている。
雪が舞い始めた。空が暗い。風も出てきている。
吹雪がくる予兆だ。
「あの戦車の中に避難しよう。」
ミハイルは疲れ果てた顔をしている妻と息子にそう声をかけた。
「いつ街に着くの?」とは息子は言わない。
息子、イリヤ。まだ7歳でしかないが、世界の厳しさを見てしまっている彼はすでに子供っぽい眼はしていない。
妻のユリアは、戦場の帰り道の荒廃した村で拾った。
そう、拾った、という言い方が最も適切だろう。
15歳のミハイルが廃屋の地下室に隠れているユリアを見つけた時、彼女はまだ12歳だった。
普段なら敵でもない子供など放っておくところだが、怯えるでもなく憎むでもなく、それでいて突き刺すような鋭さを持ってミハイルを見つめる青い瞳に、ミハイルはほぼ一瞬で魅入られてしまった。
ミハイルが手持ちの食べ物を無言で差し出すと、少女はそれを引ったくるようにして食べた。腹を空かせていたのだろう。
食べている間も、青く光るような瞳はミハイルの目を刺すように見つめたままだった。
「ついて来いよ。オレが食わせてやる。」
プロポーズの言葉は、たぶんそれだけだったと思う。
それから14年。ミハイルはユリアへの約束を果たし続けてきた。少なくとも3日前までは——。
3日前、ミハイルの所属するギャング団『ドロモス』の根城が別のギャング団に急襲された。
夜間に襲ってきたのは『チェルノボグ』というギャング団だった。数日前、大きな武装マフィアの抗争をその助戦力の1部隊として戦ったドロモスは、このチェルノボグと当たることになり、そのヘッドと幹部2人を殺すという大戦果を上げたのだった。
この戦果で、武装マフィアからかなりの食糧を支給された。これで1ト月は食ってゆける。
あれだけ叩けば、奴らはすぐには立ち上がれないだろう。ついでに奴らの根城を襲って食糧を奪ってくるか——という話まで出たほどだった。
それがまさか、数日後に夜襲をかけてくるとは誰も考えていなかった。
後で知ったことだが、大人数だったのは別のギャング団を誘い入れたからだと分かった。
「ヘッドの仇を殺りたい。奴らがマフィアから支給された食料は、全部おまえたちにやる。」
そんなふうにして、新しくリーダーになった男は協力するギャング団を集め、襲いかかってきたのである。
その後、誘いに乗ったギャング団に彼ら自身が喰われてしまうかもしれない(おそらくそうなる)というところまでは、復讐に燃えた彼らの頭は想像できなかったに違いない。
恨みによって襲ってきた以上、どちらかが全滅するまでこの戦いは終わらないだろう。
人数的に形成不利と見たミハイルは、戦闘の最中こっそり抜け出し、地下通路を通って居住区へと疾った。妻と息子を連れ出すと、チームのランドクルーザーで夜陰に紛れて逃げ出したのだ。
今ならまだ包囲には穴があるだろう。
ミハイルが読んだとおり、敵はまだ正面に集中していて包囲環が大きい分、背後の包囲は手薄だった。
それでも突破は見つけられ、しばらくすると車が1台追ってきた。
あのシルエットはおそらくニッサンだ。トヨタのランドクルーザーの方がパワーはある。貴重なガソリンも食うが、今はそれがありがたい。
動く戦車はもうどこにもない。ちゃんとした装甲車などは大きなマフィア組織しか持っていない。
小さなギャング団には、ジャパンの中古車くらいしか手に入れられないのだ。それに鉄板などを使って簡易な装甲を施し、戦闘車両として使っている。
ドロモスのそれを、ミハイルは奪って家族だけで逃げた。
裏切りだ。
だが、後腐れは心配ないだろう。あいつらは全滅する。襲ってきた奴らが1人として生かしておくはずがないからだ。
オレは家族を守る!
ユリアにそう約束した。