9.噂の訂正(1)
「はあ……」
先程の授業のことを考えて、思わず溜息をついてしまう。初っ端の授業から遅刻した私に待っていたのはお説教という名の見せしめだった。
多分物凄く悪目立ちしたし、その教科の先生に悪い意味で名前を覚えられた。最悪だ。せめて吉良先生の担当教科ならよかったのに。
友人ができたことで少し浮かれ過ぎていた。彼らは大丈夫だっただろうか。
「何々、どうしたの?」
「……」
「おーい、見えてるー?」
目の前で手を振られて我に返る。いつの間にか目の前に、中腰になり私の机に頬杖をつく花園さんがいた。「はあ」と再度溜息をつく。
「……何か用?」
「ううん。特に何もー」
「じゃあ何でここにいるの」
「何かないと来ちゃ駄目なの? 友達なのにー」
そう言って頬を膨らませる彼女はリスのようで愛らしかった。もしゲーム的な都合で迷惑な存在でなければ、光太郎から関わるなと言われていなければ、単純な私はすぐに絆されていただろう。
それに彼女は何だかんだで私のことを助けてくれている。完全に悪い存在には思えなくて、だけど光太郎が無意味に警戒しているとも思えず、私は混乱していた。
黙り込む。しかし、私の様子などどうでもいいとばかりに、彼女は話し続ける。
「ねえねえ。さっきの授業、どうして遅刻したのー?」
「……」
「もしかして、昨日の彼と一緒だった?」
「……」
なるほど、聞きたいのは光太郎のことか。昨日、彼女は光太郎の姿を見て赤面していた。まだ惚れたかどうかはわからないが、少なくとも好感を抱いているのは確かだろう。彼女に光太郎のことを教えるべきかどうか悩む。
「彼とはどういう関係なの? 仲よさそうだったけど」
「……」
「……もしかして彼氏とか?」
「それは違うわ」
言ってからはっとする。まだどう対応していいのかわからないから、自分から反応しないように気をつけていたのに。目の前の彼女は「やっと喋ったー」と喜んでいるようだった。
「即答したね。やっぱりきょうだ……」
キーンコーンカーンコーン。
何ごとか尋ねようとする彼女を遮るように鐘の音が鳴った。
「ちえっ。折角綾音ちゃんの交友関係を知ろうと思ったのに」
「……そんなもの知ってどうするの」
「そんな怖い顔しないで。ただ共通の友達がいたら、もっと仲よくなれるでしょう?」
「私は綾音ちゃんと仲よくなりたいだけなの」と言う彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
「またね、綾音ちゃん」
そう言って去っていく花園さんに聞こえないように呟く。
「怖い顔って、私表情筋動かしてないんだけど」
その声は、教師が扉を開けた音に掻き消された。
帰りのホームルームにて先生が赤谷君と花園さんを呼んだことで何となく予想していたが、今日は学級委員の仕事があるから、と光太郎に一緒に帰宅することを断られた。本当に申し訳なさそうにするので、近くにいた来栖さんを捕まえて「彼女と一緒に帰るから、何も心配いらないわ」と言うと、彼はようやっと安心したように「来栖、こいつのこと頼んだぞ」と言った。
「……!」
「頼もしいな、ありがとう」
何ごとか話して胸を叩く来栖さんを見て、目を細める光太郎。何となく会話に入り辛いな、と思っていると。
「こら、そこの二人! 特に男子の方! 早く職員室に行くわよ!」
その二人の空間を引き裂くかのように現れたのは、入学式の日、光太郎に絡んでいた小学生位の身長の女の子だった。
「あら、あなた……」
「何?! 私は今忙しいの!」
相手は私に見覚えがなかったらしい。あの時と格好が違うから当然と言えば当然だが。
「あなた、あれからちゃんと彼にクラス分け表の時のお礼は言ったの?」
「え……何でそれを」
彼女は戸惑ったような声を上げた。そんな彼女に私の正体を明かす。
「私よ。入学式のとき、あなたに『アドバイス』をした」
「えっ!」
すると彼女は目を見開いた。そして、居心地が悪そうに。
「……っ! 行かないなら置いていくから!」
「あー、ちょっと待てってっ」
さっさと早足で歩き去った。光太郎も半ば追いかけるような形で職員室に向かって行った。
「……」
「前から思ってたけど、騒がしい子ね……」
彼らを来栖さんと見送っていると、ちょんちょんと指で突かれた。何だろうとそちらを見ると。
『天城さんとお知り合いですか』
そう達筆で書かれたスケッチブックを見せる来栖さんがいた。一瞬戸惑ったが、すぐに気を取り直して彼女の質問に答える。
「天城さんってさっきの小柄な子よね?」
尋ねるとこくりと頷かれる。私はこっそり目を見開く。『天城』と言えば彼のことだ。まさか妹なのか? 同じ学校に通っているとは思っていなかったが……。
驚いていることを隠しながら、来栖さんに応じる。
「入学式のとき、ちょっとね」
言うと彼女は新しいページを開き、物凄いスピードで文字を書いた。
『そうなんですか。もしかしてクラス分け表の所であの二人に何があったか知ってたりしますか』
「ええ。知っているわ」
『教えて頂けませんか。今それでちょっと色々あって』
「いいけど。……それより、どうしてそんな畏まった言い方なの?」
そう言うと、少し躊躇った後。
『先生とお話するとき、間違えて素が出ないようにする為』
そこまで書いてから、首を一振り。ぺらりと新しいページを開く。
『この言い方のほうが性に合ってるんです』
「あら、そう……」
何だか誤魔化されたような気がしたが、彼女がそう言うのならそうなのだろうと渋々納得する。
『それより。その話、今ここでできますか』
「え、でも……」
私は言ってもいい。言ってもいいが……「これは天城さんにとっては余り言って欲しくないことなんじゃ」と躊躇した。その様子を見て、来栖さんは焦れたように。
『彼と天城さん、どっちが大事なんですか』
「その二択なら光太郎だけど……わかったわ」
少し引っかかったが、来栖さんの頼みごとだ。なるべくなら叶えてあげたい。そう思って承諾した。
『なるべく大きな声で言ってください』
「はあ……? ええ、それもわかった」
『それではお願いします』
「それじゃあ、と言ってもそんなに長い話じゃないんだけれど」
私は深く息を吸い込んだ。そして、いつもより少し大きい声であの日のことを語ったのだった。
「……と言いながら、彼女は叫んで走っていったわ」
『それだけですか』
「ええ、これだけだけど……?」
不思議に思ったが、来栖さんが笑顔だったので気にしないことにした。
『ありがとうございます。これで』
そこまで書いて私が見ているのに気づいたのか、書面が見えないようにスケッチブックを持ち直す来栖さん。そして彼女はさらさらと文字を書いて……首を振って、何とスケッチブックの紙を破った。そしてぐちゃぐちゃにしてゴミ箱の方に投げる。
しかしちゃんと狙っていなかったのが悪かったのだろう、紙はゴミ箱に入らず近くに落ちた。
「……」
『ありがとうございます。あの紙はきっと誰かが捨ててくれます。だから、早く帰りましょう』
「え、ええ…」
ぐいぐいと腕を引っ張ってくる彼女を拒みきれず、私は捨てられた紙のことは忘れることにして、歩き始めた。
「……ねえ、今の……当?」
「やっ……の話はざれ……のね」
「だけ……てた子、……双子の妹……」
背後から聞こえてくるぶつ切りの声に何故か悪寒を感じながら。
『さっきどうしてあんなことをして貰ったのかについて、お話しします』
来栖さんは器用にも歩きながら文字を書いていた。しかもその文字は一切ぶれることがない。きっと余程書き慣れているのだろう。
『実は、天城さんがあることを吹聴し始めたのが切っ掛けで起こった噂を払拭したかったのです』
「噂って?」
『彼が自分のような人を好きなロリコンだという噂です』
「……は?」
光太郎が、ロリコン……? 彼の側に居続けている私から言わせて貰えば、彼は本当に自身の恋愛に興味がない。当然彼が同級生などに恋したことがあるとは聞いたこともないし、幼い子供に対してもそれは同様だ。
彼女にその旨を伝えると、彼女も頷いた。
『はい。私も彼がロリコンだとは思っていません』
「そうよね……」
『少し長くなりますが聞いて頂けますか』
「ええ、どうぞ」
彼女が言うにはこうだった。天城さんがクラス分け表の所で叫んでいた言葉は周囲にも聞こえていたのだそうだ。それを面白おかしく伝聞した新入生がいたのだろう、一つの噂ができてしまう。それは『ロリコンの男子生徒が小学生女子を変態的な目で眺めていた』というものだった。それを利用しようとしたのか、天城さんは次の日にはその男子生徒……要は光太郎に『変態的な想像をされた』、『気持ち悪い目でじろじろ見られた』と言いふらすようになったと言う。
『その場にいなかった生徒がほとんどだったんですけど、天城さんが噂の男子生徒が彼のことだと言って』
そこでぺらりと紙をめくり。
『それで彼のことだとわかって、そこからどんどん拡散していって、いつからか』
『彼がロリコンで、彼女に変態的な妄想をして近づき、彼女をじろじろ鑑賞した』
『これが事実のようになってしまったんです』
何処か遠くで車がクラクションを鳴らす音が聞こえて来た。




