10.噂の訂正(2)
来栖さんは、話を続ける。
『彼女はそのことを訂正して謝るどころか、むしろこれを理由にして、彼に命令するようになりました』
『彼が彼女と一緒に学級委員になったのもその命令の一つです』
なるほど、と心の中で思う。彼が学級委員なんてものになった理由がこんな所にあったなんて。意外、ではない。彼は人がよ過ぎるきらいがある。
『でも、教科書を配っていたのは彼一人で。何でって聞いたら自分がやりたいからだって』
教科書を配るのは学級委員の最初の仕事だ。誰かに手伝って貰うこともできた筈だが。
『手伝うって言ってもこれは自分の仕事だからって手伝わせてくれませんでした』
『だから多分、彼女に命令されていたんだと思います。誰にも手伝わせるな、一人でやれって』
それはわからない。例え命令されていなくても彼なら誰かに手伝って貰うことをよしとしないだろう。
それに、もう一つわかることがある。
「光太郎のことだから、きっと噂を否定することも命令に抵抗することもなかったんでしょうね」
彼女はこくりと頷いた。そして新たなページに文字を書く。
『その通りです。それで彼女は更に増長して、堂々と言いふらし始めていました。あることも、ないことも』
『ただ、そんな彼女にまともに取り合う人間は少なくなってきていました』
『それなのに』
そこで彼女はボールペンを持つ手を止めた。そして意を決したように書き始める。
『二年の橘香澄先輩のことはご存知ですか』
「ええ。というか幼馴染ね」
『ということは彼とも幼馴染ということですよね』
「その通りよ」
『今日、その彼女がお昼休みに教室にやって来たんだそうです』
「え……?」
スミ姉が、光太郎のクラスに来た……? 彼女は確かに光太郎の世話を焼きたがるが、それは目の前にいるときだけであって、度を越した干渉はしてこなかった筈だ。わざわざ教室まで出向くなんて、今まではなかった。
『彼女、彼を呼びに来たと言っていたそうです』
『だけどその時にはあなたが連れて行った後だったので、いませんと答えられていたらしいです』
『そこで、男子の一人が彼女に言ったそうなんです。そいつはロリコンですよ、何がいいんですかって』
『多分その男子は嫉妬してたんだと思います。橘先輩は言わずとも、天城さんも普通に可愛いですからね』
『天城さんに絡まれてるのを羨ましがる声も一部では上がっていた所でしたから』
『それで、その質問に彼女はこう答えたんだそうです。「いつまでも私に懐かないから薄々そんな気がしていたけれど、諦める気はない」って』
「……ちょっと待って。安易にそんなこと言ったら、本当にロリコンだと勘違いされるわ。それって本当?」
俄かには信じられず、来栖さんに尋ねてみるも彼女は首をふるふると横に振っただけだった。
『ごめんなさい。私も人伝に聞いた噂なので、もしかしたら間違っているかもしれません』
「そうよね、彼女に限ってそんなことする訳ないし」
スミ姉が光太郎のことを貶める筈がないのは、今まで一緒にいた私が保証する。寧ろそのようなことを光太郎が言われていると知ったら、真っ先に怒り出しそうなのが彼女だった。
『ですが天城さんがその噂により調子に乗り始めたのも事実です。遂には他のクラスの人にも言いふらそうとする始末で』
彼女は突然立ち止まった。何か言いたそうにこちらを見てくる。
「……」
「来栖さん……」
見つめられても、私には彼女の言いたいことがわからない。やがて、落ち込んだように肩を落とす彼女を見て、心が痛んだ。
『本当に声が聞こえるのは彼だけなんですね。あなたも双子の妹だから聞こえるかと思ったんだけど』
「え、双子の妹? 誰が誰の?」
そういえばさっきも誰かが言っていたような気がする。尋ねると来栖さんは何ごとかさらさらと文字を書き、私に見せた。
『兄妹じゃないんですか? 彼とあなた』
「いいえ、違うわよ。従兄妹同士ではあるけれど」
「……!」
そう言うと彼女は心底驚いたように口を大きく開けていた。
『驚きました。だって彼とあなたってどちらも常に表情が変わらないし、雰囲気も似ているし、それに何より』
『どうして苗字が同じなんですか』
実は、光太郎の苗字は私と同じ『坂本』である。何故かと言えばそれに関しては光太郎の家庭事情について語らなくてはならなくなるので、ここでは割愛する。とにかく、だからこそ私と彼は同じクラスになったことがない。
その旨を話すと、彼女はようやく合点がいったという顔をした。そして再び歩き出す。
『彼と双子じゃないなら、血が繋がっているだけなら、わからなくて当然ですね』
「そんなに光太郎と私って似ている?」
『はい、それはもう。兄妹でなければ長年連れ添った』
そこまで書いて、私の方を向いて、ぺらりと紙を捲った。
『とにかく、私は初めて出会った私の心の声を聞ける人に最初は畏怖と嫌悪を抱いていました』
『私は』
彼女は少し考える素振りをした。そして『私は』という部分に二重線を引く。
『だけど散々な目にあっても、表情を変えず一切怒らない彼を見て、思ったんです』
『この人は強い人だって。私なんかよりずっとずっと』
『そんな彼だからこそ本当の私を知られても、きっと大丈夫だって思えたんです』
『事実彼は、私が心の中で何を思っていても気にせずお昼に誘ってくれました』
そう書いて、彼女は私に笑いかけた。そして、急に口を引き結び真剣な雰囲気になると。
『でも、例え彼が強い人であっても、やられていいことと悪いことがあります』
『だから私は、あなたに頼りました』
「……何を?」
嫌な予感がする。私は冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。
『うちのクラスメイトがいる前で、本当のことを話せばまだ間に合うって』
『噂が事実になってしまう前に。言ってもまだ入学式を含めて三日しか経ってませんから』
『例えそのせいで、天城さんが酷い目に遭っても』
「……」
『自業自得ですよね』と、何故か何も書かれていないのに、彼女が何を思っているのかわかった気がした。
そして、休日を挟み。また登校する日になった。
今日も光太郎と一緒に学校に行く。その途中で、彼は足を止めて聞いてきたのだ。
「なあ、お前さ。来栖と何か企んでないよな?」
その射抜くような目に何故かどきっとした。どうしてだろう、私は何も悪いことはしていない。ただ、少し話しただけだ、それも事実を。
だけどやっぱり天城さんの為にも一応相談するべきなんじゃないのか、と思った。しかし自業自得という言葉が頭の中をちらついている。それに……彼女は彼のあらぬ噂を立てて、こき使った。
「……ええ。どうしてそんなこと聞くの?」
結局、私は彼に言わないことを選択した。
「……」
じいっとこちらの些細な変化も見逃さないとばかりに見つめる光太郎に内心冷や汗をかきながら、彼の言葉を待つ。やがて彼は、はあっと息をつくと。
「……そうか。それならいいんだ」
光太郎はそう言ってまた歩き始める。そこでようやっと、張り詰めていた糸が切れた気がした。脱力した私は、さっさと学校に向かう彼を追いかけた。
それからしばらくの間、私たち三人は一緒に屋上でお昼をとっていた。来栖さんとは交換した本の感想を言い合ったり、その度に噛みそうになる光太郎を一緒に笑ったりした。
そうそう、彼女はお昼ご飯のときはスケッチブックを持って来ず、光太郎に通訳させていた。どうしてか聞いたら、『一々文字なんて書いてたら昼飯食べ辛いだろ』と彼に勧められたからとのことだった。もっと聞くと、彼がスケッチブックを持って来させないようにしているらしい。
人の事情には基本的に無関心な光太郎。それなのに何故そこまで彼女に干渉するのか、と珍しく思った私は彼にそう尋ねたが、『何となく放って置けないから』と素っ気なく答えられただけだった。
という訳で、友情を育むことには成功していた私だったが、恋愛方面はからっきしである。正確に言うなら赤谷君のルートに入ろうと、柄にもないことをして空回りしていたのだ。彼との接点がなさ過ぎて、話しかけようにも挨拶とか今日の天候の話位しか思いつかなかったのが敗因である。
それに、言い訳をさせて貰うなら彼の方も私が話しかけると基本的に挙動不審になるので、会話を続けてくれないのも原因だったと言えるだろう。全くそんなことだからこれまで好きになった相手全員に振られるんだ、と思わず心の中で突っ込みを入れてしまった。
しかもその上で、高確率で花園さんもいつの間にか会話に参加していて、気づいたら彼女と彼しか話さない空間ができあがってしまうのも問題だった。
どうしようもない状況。しかし、だからこそ挨拶だけは忘れないようにした。そんなある日の朝。
「おはよう、坂本。ちょっといいか」
あの赤谷君に話しかけられた。驚き過ぎて反応が遅れる。
「……おはよう。どうしたの?」
ちら、と花園さんの方に目をやる彼。彼女は彼が私に接触したとわかった途端こちらに近づこうとしていた。そのことを確認すると、彼は言った。
「ここでは話せない。付いて来てくれるか?」
「わかったわ」
異論はない。折角赤谷君から話しかけてくれたのだ、このチャンスを逃す手はない。そう思って頷いた。
赤谷君の後を付いて歩きながら、私は考える。彼から呼び出されるイベントは何があっただろうか。
途中、A組の側を通り過ぎるとき妙に教室の中が騒がしかったが、赤谷君が気にせずどんどん進んでしまうので、何が起こっているのかはわからなかった。しかし、何故だか胸騒ぎがした。
「一つ聞いてもいいか?」
中庭に着いた途端、赤谷君はそう切り出した。
「ええ、何かしら?」
「お前と花園は……その、友達、なんだよな?」
そう確かめるように尋ねる彼に言った。
「そうだけど。でもいいの?」
「何が?」
「彼女のこと、あだ名で呼ばなくても」
確かあのイベントが起きた後は、基本的に彼は花園さんのことを『ハナ』と呼ぶようになる筈だった。因みに私も彼女の前ではそう呼ぶことを強制されている。あだ名で呼ばないと煩いので。
すると、彼は嫌そうに。
「あいつの前じゃないんだからいいだろ。……今日はそのこともあって頼みたいことがあるんだ」
何となくその言い方に棘が含まれている気がした。私はそれには気づかない振りをして頷く。
「お前からも花園に言ってやってくれないか。俺にそんなに付き纏わないでくれって」
私は驚いて、思わず呟く。
「……え」
その言葉を非難だと受け取ったらしい。彼は更に言い募る。
「いや、勿論話しかけるなとは言わない。同じ学級委員だし、話さない訳にはいかないだろう。だけど今の頻度はちょっと。俺の友達にも迷惑かけてるし、噂にもなってるし」
「噂?」
「知らないのか?!」
食い気味で来られ、またびっくりした。こくこくと頷くと、彼は安心したように。
「……そうか。それならいい、何でもない」
「そう?」
大して興味もなかったので、そのまま受け流した。
「で、さ。引き受けてくれるか?」
「いいけど……あなたは彼女にそのこと、ちゃんと言ったの?」
気になるのはそこだ。こういうことはまず本人が相手に伝えるべきだろう。そう思って尋ねると彼はこくりと頷いた。
「ああ、何度も言った。だけど何か勘違いしてるみたいで聞き入れてくれないんだ。それに俺の友達にも言ってみたんだけど、照れ隠しと思われてまともに受け取って貰えない。もう、お前にしか頼めない。情けないけどな」
そこで彼は上を見上げた。私もつられて上を見る。今日の空模様は曇りだった。
「もう俺は、女子とのいざこざはうんざりなんだ」
その言葉は、何故かとても私の印象に残っていた。




