二〇一三年 六
日の沈みきった時刻、北側校舎の廊下を圭は歩いていた。
目的はない。単なる散歩だった。入浴を済ませ、春原から借りたジャージとTシャツを身に着けて、ごまかしようもないすっぴんで校内をうろうろしていた。
夕食の席で再び顔を合わせた東陸は、変わらず当たり障りのない態度で圭に接した。歓迎もせず、親しみも表さず、冷遇するでもない、用があれば話すというスタンスである。
衣食のことで緊急に必要なものはないかと聞くので、圭は即座に化粧品と答えた。この回答は多少の顰蹙を買い、一部の反感を煽ったようだったが、圭はこればかりは譲れなかった。
洗顔後の手入れと日中の紫外線対策は、最低限押さえておきたい。ここの生活は案外、予期しないところで日差しを浴びる。長い篭りきりの生活で直射日光を忘れた肌には、少々刺激が強かった。
具体的にどういうものかと東陸が尋ねたときは、愛用の品名を挙げておいたが、極端に質が悪くなければ別のもので構わない。東陸がどういう流通経路を握っているのか知らないが、圭の愛用品は、入手しやすいとは言い難いものである。
その夕食の前までは、青がつかず離れず圭の近くにいた。圭がうっとうしく思っていると、思った以上に顔に出ていたらしく、青は圭の身の危険を淡々と説いた。藍が攫われ、圭も顔を見られている、誘拐犯がIKグループの人間だとすれば、襲撃がないとは限らないだろう、と。
広渡は準備がどうのといって保健室を引き上げていき、里実は圭を敵視しているので近づいてこない。春原は藍の不在の動揺が収まっておらず、東陸はその春原に会いにいっている。そんな状況で、青が圭のそばにいたことに、監視の意図が全くなかったわけがない。けれど意外と、圭に信用を示すためと、ひょっとしたら里実の奇襲を防ぐためもあったのかもしれなかった。青はとりわけ圭を警戒している様子はなかったし、第一、全体どういうわけか、一時は圭になついたようでもあったから。
何にしろ、この時間になって、圭はやっと得体の知れない他人の視野から脱出したのだ。
暗い中、手すりを頼りに階段を上り、三階を進んでいった。この廊下は今までより見通しが利いている。前方の教室の明かりが廊下に漏れているからだ。
プレートには視聴覚室とある。圭が歩調を緩めると、ちょうどその照明が消え、戸がレールを滑った。
現れた小柄な人影は、圭の斜め前で立ち止まった。窓の外の街灯の薄明かりを反射し、攻撃的な瞳が闇にきらめく。圭はその眼を見返しながら、内心で僥倖を喜んだ。
圭に露骨な不信を示す娘。集団内の唯一の砦。
里実は後ろ手に戸を閉めた。まるで圭から室内を隠すようにして。
「こんなとこで何してるの」
口調は実に刺々しい。
圭は無表情を維持し、里実の背後を一瞥する。鍵をかける気配はなさそうだ。中に何があるのだろう。
「あなたこそ」
「質問に答えなさいよ」
「散歩よ。そちらは?」
「あんたに関係ないわ」
圭は鼻で笑った。
「あら、そう」
まったく不愉快だ。
そんな明確な感情が、今、この境遇では心地よいのだった。
戸口から数歩離れ、里実は正面から圭を見上げる。圭は目を細めて視線を受け止めた。
「何かしようとしても無駄よ」
警告だろうか。圭は精々小憎らしく、顎を上げて子どもを見下す。
「何もしてないわ」
「――何のつもりでいるのか知らないけど」
真顔と純粋な敵意。その真剣さにあてられて、圭はつい改まって少女を見下ろした。感服したわけではないが、遭遇を喜ぶ気持ちはこのとき失せた。
「リーダーはわたしたちが取り戻す。邪魔はさせないから」
里実の眼を、しばらく圭は見つめた。啖呵を切った少女は突如、目を伏せ、圭の左を足早に通り抜けた。
「邪魔なんかしないわよ」
肩ごしに圭が言うと、歩行が止まった。
「殺される気はないもの。あの子が計画を阻止するんでしょ?」
首がめぐり、顔が片目まで見えかかる。
しかし里実は圭を見なかった。
「気楽でいいわね」
この程度では切り崩せない堅固な壁があるらしい。
圭は小細工の不成功を悟った。利己的なことを理論っぽく主張すれば騙されてくれる人もいるのだが、里実は違うらしい。
不意に振り返った顔が、憎悪めいた感情で歪んでいる。
「わたしはあんたなんか信用しないわ。たとえリーダーが認めてても!」
何に怒ったのだろう。
圭は不思議に感じた。
「それは、そのリーダーを信用しないってことじゃないの?」
「違うわよ」
即答は理性的だ。からかったつもりだったのに。
「リーダーは必要。でも、あんたなんかいなくていい」
紛れもなく憎悪だ、と圭は冷静な頭で思った。誰に対する憎悪なのかは、圭には知ったことではないが。
「調子がいいと思わないの? 人を殺す仕事をしてきて、死にそうになったから反対するなんて!」
正論だ。圭は眉をひそめる。生憎、正しいものを無条件に肯定する素直さは、かなぐり捨ててきている。
「どうとも思わないわね。生きてて何ボよ」
「最低」
低く口走って、里実は顔を苦渋に染めた。
少女が何も言い出しそうにないのを、夜闇の中で圭は認めた。
「その最低なモノを、あんたのリーダーは仲間に入れたのよ」
圭が言い放つと、おそらく顔に血を昇らせ、里実は勢いよく駆け去っていった。姿が小さくなり、角を折れて、じき足音も聞き取りにくくなる。
興味本位で、圭は視聴覚室の戸を引いた。窓からの微かな明かりで、教室の前方、奥に、黒い人型の影が見えた。人ではなく、射撃訓練用の的である。
練習していたのだろうか。
圭は戸を閉め、暗闇の廊下に佇んだ。
もったいない。里実の将来は有望、十分に指導者たる素質がありそうではないか。
それなのに武器も持たされず、ただ留守番を余儀なくされている。
里実が行動を起こさないのは、たぶん春原の面倒のせい。
それに、それを押しつけている他の面々と。
ふと、圭は疑問に思った。
そもそも、藍を首脳に戴く必要が、この集団のどこにあるのだろう?
藍は年齢のわりに温厚で沈着だ。しかし組織のトップとしては、志気と活気に欠ける気がする。どちらかといえばナンバーツーの地位がふさわしそうである。
春原が家事、広渡が生活設備、東陸がきっと買い出し担当だとすると。青は実年齢からみて省くとして、藍が中心でなくともいいはずだ。藍の才力は確かかもしれないが、元来、人類抹殺計画阻止のために集った組織ではないようなのである。たまたま集まって、それから抹殺計画を知ったというのが広渡の話のようだった。
孤独を売りにすれば、里実のほうが適任だ。
それとも、藍に春原を任せられない事情でもあるのか。単に計画を見つけたのが藍だからという理由だろうか?
外に出したらものの数時間で拐かされそうな春原は、この集団の中で生きている。広渡と東陸、それぞれの職能を活かした自然発生的な役割分担。互いに譲り、守り合わなければ生きていけない。そうすることで生きていける。
比べて自分がこの数年、いかに気ままな生活を送っていたことか。
「……お守りも厄介ね」
独り漏らして、圭は散歩を再開した。
青が一人いる保健室で、今夜は藍の寝床を借りる。
それまでにはもう少し、自分だけの時間が必要だった。