二〇一三年 ⑥
風呂場から脱衣所に出て、藍は籠に目をやった。先刻まで着ていた衣服も、何一つ籠の中にない。
ドアを叩く音がして、黙っていると、青年が姿を現した。
藍を認め、目が合って、青年は少しばかりたじろいだ風だった。
「服」
青年の手元を見、藍は呟く。藍から顔を背けるようにして、青年は進み出、抱えていた衣類とタオルを片手で差し出した。
藍が受け取ると、結局、二度と見ずに背を向けた。
タオルを取り、他の衣類を籠に下ろして、藍は顔を拭く。
青年に聴こえるように漏らした。
「いいよ。気にしないで」
ドアの前で青年の足が止まった。
体を拭いた後、藍は無造作にタオルを籠に落とす。
「驚いた?」
返事はなかった。
腰を曲げ、衣類を選り分けて、藍は下着を見つけて掴む。さっきもショーツは外されていなかったから、着替えさせたのが彼だとしても、下までは見なかったのだろう。
「年齢は」
声のした方角を見やると、青年はこちらに向き直っていた。俄然生じた羞恥心を握りつぶして、藍は新しいショーツを穿いた。
「十五」
眉をひそめて、青年は藍を見る。
「間違いなく?」
「うん」
腕組みしてドアに寄りかかり、青年は動かなくなった。
そちらへの意識を殺し続けて、藍は衣類を摘んで広げる。ゆったりした薄手のズボンと、同じ生地の長袖のシャツ。上の肌着はない。外に出される格好ではなさそうだ。
シャツを被って、袖を通す。
「あなたは?」
ズボンを穿いた。青年は無言だった。
肩にタオルを羽織り、藍は長い髪を外側へ掻き出す。
「歳は」
「……十八だ」
聞くだけ聞いて、藍は反応を示さなかった。
青年の方を見る。身支度は完了だった。身を清めろと言われ、用意された服を纏った。これ以上のなすべきことは、指示されていない。
青年が身を起こし、片手でドアの把手を捻った。脱衣所内に体を向けたまま、促した。
「出ろ」
藍は無言で従う。青年のすぐ前を通り過ぎ、初めに寝ていた部屋に戻った。箪笥と寝台、ドア以外、目につく物のない部屋だった。
照明は蛍光灯のみ。窓もない。
ドアの鍵は内側で捻れば開閉できるようである。
脱衣所から物音が消え、背後でドアが閉まるのを、藍は聞いていた。
「ベッドに座れ」
言われたとおりにする。藍の隣に立った青年は、手元のコードをほどいて伸ばし、床のコンセントにプラグを差しこんだ。
寝台に膝を乗せ、藍の濡れた頭に手をかけて前を向かせる。
熱風が目元を撫でた。
ドライヤーである。長い髪の一部を掬って、青年はゆっくりと熱風を当てていく。時折無造作に髪を梳く手の、指先が、こめかみや頬を掠める。
青年の手元を見ようとした目線を、すぐに戻して、藍は目を伏せた。こんな不用意な接触は、やり過ごすべきだった。
根元から毛先まで、髪の全てを丁寧に乾かされ、長い時間をかけて、ようやく風の音が止んだ。藍は瞼を上げ、青年がコードを巻き取るのを見た。
ドライヤーを持って、青年が脱衣所に入った。間もなく姿を現した手に、つげの櫛が収まっていた。
青年の次なる行動を推察し、藍は即座に判断する。決して、自分の意識を主張してはならない。
青年が近寄り、藍の髪に櫛を通した。藍は姿勢を変えず、さらさらと耳にかかる髪の触感に、目を瞑った。
髪を整え終え、青年はまたもや脱衣所に引き返す。今度は出てくるとまっすぐに反対側のドアに歩いていった。
ドアを開け、閉め、青年が消えた。
鍵をかける音がして、内側のツマミが回る。
藍は静かに息を出した。
ドアは動かない。鍵をかけたということは、短時間では戻ってこない場所に向かったと見ていい。
立ち上がり、さっき目をつけた箪笥に近づいた。
寝台は簡素なもので、ヘッドボードすら付いていない。物を置けそうな場所はこの箪笥だけなのだ。両開きの扉を開き、中を見る。黒っぽい大きな衣服が数着、ハンガーに吊るされている。その下にズボンとベルト、革のケース。藍は扉を閉じた。
屈んで引き出しを検める。男性用の下着と肌着、あとは何もない。
藍の制服も下着もスニーカーも、通信機もここにはなかった。
箪笥を元に戻し、藍は鍵のついたドアを見た。通信機は左耳に取りつけていたもので、入浴前まできちんと付いていた。水に弱いと広渡に聞いていたから、藍が自分で取り外したのだ。それきり持っていかれたわけだ。
外されていなかった点を楽観すれば、入浴前まで通信機の機能は生きている。
そのときまでに、広渡がこの場所を突き止めただろうか。
だがあれを餌に、皆がおびき寄せられてはまずい。
救出を待つのは愚かである。
藍はドアの前に立った。
四角い戸板の上下左右、外の様子がうかがえそうな隙間はどこにも見当たらない。ドアに耳を当て、物音がしないのを確かめる。ツマミを回してノブを捻った。
ドアは開かなかった。軽く揺すると、つかえるような音が微かに発つ。外側に別の鍵があるのか、とにかく内側のツマミ以外の鍵で固定されているのだ。
藍がツマミを戻すと、それが独りでに回った。
ドアが開く。藍は反射的に飛びのいた。
戸口に現れたのは、先程と同じ青年だった。ノブを握り、壁に手を添えて出口を塞ぎながら、青年は渋そうな表情で藍を見下ろした。
「座れ」
出ていく隙がないのを見て取って、藍は寝台へ引き返す。
腰を下ろすと、青年が室内にワゴンを引き入れてドアを閉め、ツマミを回した。彼が中にいる間なら出ていけるかもしれない。
ワゴンにかけた布を取り、青年はトレイを持ってくる。皿と椀、コップにはラップがかけられ、露を結んだ蒸気の奥に食事が見えている。
トレイを掛け布団の上に下ろし、青年は藍を見ずに言う。
「食事だ」
ワゴンの下段からパイプ椅子を取り出し、青年はそれを戸口に設置した。
藍は傍らの料理を見る。青年が往復して、もう一つのトレイを持って椅子に座った。膝にトレイを置き、食器のラップを外していく。箸で食べ始めた料理は、藍のトレイの内容と同じもののようだった。
キャベツとベーコンの炒め物と、海苔を散らした御飯、味噌汁と何かのフライ。
数秒眺め、藍はトレイを膝に抱えた。ラップを外して畳み、箸のラップも剥がして、湯気とかぐわしい香気を顔に受けた。
青年が、藍に害をなすことはあるかもしれない。でも致死量の毒を盛られることはないだろう。ここまで連れてきて、入浴させ、身支度を整えさせたのだ。食事もおそらくその一環。
即死するような毒でなければ、味覚と体調で判断できるはず。
藍は食事を始めた。青年が一度こちらを見、すぐに自身の食事に集中したが、食べ終えた後は藍の様子を見つめていた。
藍は黙々と摂取した。春原の作る料理とは味つけが異なるが、身体に不具合をきたしそうな味や匂いはない。食器を平素の常でからにし、箸を置いたところで、あれ、と思い返した。
胃がいつもより重い。随分食べてしまったようだ。普段もこのくらいの量は食べているが、今日は朝以来まともな活動をしていないのである。
動かなくても腹は空くものらしい。しまった、という気分が一瞬、脳裏を過った。
青年がそばに来、トレイを持ち上げた。ワゴンに載せる後ろ姿に、藍は声をかける。
「ごちそうさま」
青年は手を止め、藍を振り向かずに、ワゴンを押して部屋を出ていった。施錠の音に耳を澄ますと、ノブのツマミが回る音に別の音が微かに重なった。
鍵は少なくとも二重になっている。一つは外側にあり、青年が室内にいる間はかけられない。
藍はぼんやりと視線を漂わせた。今度青年が戻ってきたら、彼の手に腕時計があるかどうか確認しよう、と考えた。
窓はない。時計もない。自分の物も何一つない。
だが優遇されている。誘拐されたにしては。
部屋には椅子が一つ増えた。藍は起立し、脱衣所に向かった。きちんとドアを閉め、聞き耳をたてつつ戸棚に視線を走らせる。ドライヤーに櫛、歯ブラシ、コップ、ハミガキとタオル、電気カミソリ。藍は落胆した。刃物でもあれば心強いと思ったのだが、髭剃り機の構造には詳しくない。今のところ考えられる武器は、ハンガー、ドライヤー、シャワーのヘッド。あのパイプ椅子が自分の力で操れるだろうか。シャンプー諸々のボトルが大きさの割に軽くなっていたのも、意図されたことかもしれない。
居室側のドアが開いた。藍は息を止め、聴覚に集中した。
鍵がかかり、箪笥の扉が開けられ、いくらかの間があってこちらの把手が動いた。ドアが開く。
青年は慎重だ。藍を簡単に取り逃がすような行動はしない。
「何をしてる」
藍は青年を見た。風呂場で首を吊るような選択は、却下だ。
「何も」
青年は眉を寄せ、片手で藍の手首を取った。手を引いて途中で止め、視線が下りて、藍の身体を見ているようだった。
藍は青年の出方を待った。
「まだ痛むだろう」
言われて気がつく。彼は鳩尾を見ているのだ。
青年は身を翻し、藍の手を引いて寝台を目指した。
「寝ていろ」
布団の間際で促され、抵抗する意思は掻き消された。
藍が座り、両足を上げ、布団を引き寄せて寝そべる。それまで青年はそこに立っていた。
彼を見ないようにして、藍は枕に頭を置き、目を閉じる。
自覚的に呼吸し、脈拍を整える。
意識してはならない。彼の存在を。
忘れてはならない。彼の性質を。
眠りは恐ろしかった――眠ってしまえ。鳩尾には痣ができている。
彼は危害を加えない――何の目的があって? 彼が藍を性欲の対象にすることはない。
そうだ。
眠ってしまえ。
ふと思い出して、藍は薄目を開けた。まだそばに立つ青年の、左手が、ちょうど真横に見えた。
黒い袖の下に、銀色の線が細くはみ出ている。時計を嵌めているのだ。
「今、何時」
藍は問うた。青年はちょっと身じろぎし、左手を上げ、藍の視野から時計を奪った。
答えはない。
眠ってしまわないよう、藍は瞼をわずかに開けて待つ。
彼の呼吸が聞こえた気がした。
「寝る時間だ」
柔らかな声。
目の端に銀色の線が戻ってきて、藍は眠りについた。