二〇一三年 五
広渡が三人分のコーヒーをテーブルに載せた。圭はソファに腰を下ろし、ホルスターから銃を取り出した。とりあえず、弾丸を補充しておこうと思う。
隣のソファに青が腰かけ、カップの一つを手元に引き寄せた。この子どもはブラックで飲むのだろうか。そんなところまで大人の真似事をしなくてもよかろうに、誰も砂糖やミルクを用意する様子がない。
広渡が二つ目のクッキーの袋を開いて広げた。圭は弾丸の巾着袋を掠めた指をクッキーへと伸ばす。甘味を貪っている間、廊下から足音が聞こえてきていたが、青が落ち着いているので、圭も気にしていないふうを装った。
座りもせず、首を揉み揉み、広渡が言った。
「そろそろ動くか」
廊下の足音が止まった。
「何してるんだ」
声のしたほうを振り返り、圭と広渡は戸口を見た。スーツとネクタイを身につけた男性が、保健室のレールの向こうに立っていた。
「おう、お帰り」
広渡の挨拶に応じてか応じずか、男性は眉間に皺を寄せる。室内に注いだ視線を圭に留めた。
「どちらの人」
まあ、当然の反応だ。
「あぁ、えっと例の、人類抹殺統計局、じゃないや、何だっけ」
「IKグループ会長付き特別調査部、元部長、海津圭です」
広渡の胡乱な紹介をさえぎって自ら名乗り、圭はひとまず睨み返した。なめられてたまるか。
男性は圭を見たまま保健室に入ってき、圭の対面に座った。
「東陸です。姉さんはどこだ?」
名乗ったのだろうか。二言めは圭に対する問いではないようだった。
正面のその人を観察する。例の官僚に違いない。地味だが仕立てのいい背広だ。
ただでさえ頼りない立場をつつかれないように、圭は強硬姿勢で臨むことにする。
こちとら敵対する組織から寝返った身分である。どんな実力者か知らないが、侮られてなるものか。
「いないよ」
広渡の声が背凭れの裏から降ると、東陸は顔の向きを変えた。訝しげなその顔を、広渡が無表情で見返した。
「どこに行ったんです」
若いが気苦労の多そうな顔だ。そういえばこの人は広渡より年下だったっけ、と圭は思い出す。
同い年だろうか。とにかく敬語を使う必要はなさそうだ。
「誘拐されたんだ」
広渡の声も顔も、ごく真剣だった。
東陸は眉をひそめながら目を見開くというなかなかに困難な表情を浮かべ、圭はその顔つきに見とれた。
黙って表情を消していれば甘めでかっこいい顔だというのに、もったいないんだか意外でいいのだか。
「いつ」
眉間に皺を寄せるだけの元の顔に戻って、東陸は短く聞く。広渡から目を逸らさない。
「今朝、ゴミ出しに行ったときに」
「ここで、校庭で?」
「そう。テカテカのオープンカーで、若い男にね」
東陸が息を呑むのが、何となく圭にはわかった。
圭は一口、コーヒーを飲んだ。対面の彼は膝に両肘を乗せながら座り直し、一旦視線を下げ、すぐ戻す。
「どんな人間だった」
広渡には敬語を使うのかと思いきや、そうでもないようである。
二人の会話が途切れ、東陸がこちらを見たので、圭は広渡を横目で見た。事の次第は報告済みなのだから、広渡が説明できるはずだ。ところが広渡も圭を注視していた。
言えということらしい。圭は仕方なく、報告を繰り返す。
「二十二、三の、やたら車で銃弾避けるのが巧い、いい男よ。ぱっと見でそうだったから、顔立ちははっきりしてるわね。身長は、百七十八、九くらい。細身だったからもう少し低いかな」
「補足は?」
広渡が青に水を向ける。
「ナンバーはつの一〇〇六、車体は暗い茶色だ。タイヤの跡がまだ校庭に残っている。髪は黒で前髪が長い」
「そうだった?」
「月也と広渡の中間くらいだ」
圭の茶々を、青は冷静に受け止めた。圭は広渡ともう一人を見た。
広渡の髪は後ろで結ぶほど長いが、この男性はやや長めの短髪だ。中間というならおかっぱくらいになるが、さすがにそれだけ特徴的なら覚えているので、青は単に前髪の長さだけを言っているのかもしれない。広渡の前髪は頬の辺りまで、この人のほうは後ろ髪と大差ない。思い出そうとしてみたが、誘拐犯の髪型などまったく覚えていなかった。
それにしても、サカヤとは、また字面の想像しにくい名前である。目の前の人物のことで合っているのだろうか。
「服も黒」
「昨日のスナイパーに似てると思わない?」
「身長と体格は近似している」
ほらね、と無言で訴え、圭は広渡を見た。広渡も今度は圭の意を汲んだようだった。圭の思いつきじみた回想より、青の証言のほうが信じやすいだろう。
「昨日、狙撃されたのか」
東陸が話題を変えた。
これも当然の確認である。説明役に回るつもりはないので、圭は口を閉じていた。
どういうわけか誰も応じない。場を睨みまわす東陸の視線を、圭も雰囲気につられて受け流した。
「水上さん」
「そうだよ。こちらのお姉さんを招いた直後、会議室にバーン」
堪り兼ねたように名を呼ばれ、広渡が面倒くさげに答える。
「それは誰だったんです」
「その抹殺団体の人じゃないかな。お姉さんが持ってたボールペンに仕込まれてた発信機を、探知できる人間だよ」
「心当たりは」
声が圭に飛んできた。圭は東陸を正視し、あえて平然と答えた。
「ないわ」
東陸が眉間の皺を深くした。
皺はそのまま、目を伏せて顎を引き、腕を組む。
「脱線した。姉さんの誘拐に戻ろう。犯人の目的は何だ?」
「身代金の要求はないね。今のところ」
広渡が応える。青がカップを持ち上げて、圭はクッキーをもう一つ摘むことにする。
まだまだ臨戦態勢だ。腹が減っては戦……以下略。
「生存の確率は」
「高く見積もっていいらしい」
「どういうことだ」
「名前を呼んでたんだって、藍ちゃんの。そんでこの人を見ても無反応だったっていうから、目的は藍ちゃん個人らしいね」
「本当に誘拐なのか?」
またこちらに声が飛んできた。《この人》こと圭は東陸を見た。
目の前の好男子は、いかにも疑わしそうな顔つきをしていた。
「そうよ」
疑われる謂れなどない。圭は明確に発音した。
圭と同時に東陸を見ながら、青は何も言わなかった。
「少なくとも銃を向けて威嚇してたわ。藍さんは犯人を知らない様子だった。青くんが走ってきたら発砲して、あの子を気絶させて連れ去ったのよ。誘拐でしょう」
「撃たれたのか」
「外傷はないはずだ」
青が告げると、東陸は口を閉ざした。青を見、落とした視線の先には、雑多な物が載せられたテーブルしかない。
「連れ去られた場所も、わからない」
再び開いた口から、深刻そうな声が漏れた。
「これから探すよ」
悠長に表明し、広渡がカップを取り上げて一口啜った。
東陸が溜め息をもらす。
「この忙しいときに」
「皆、必死なんだよ、人類滅亡を前にさ」
「武器の補充を頼みたい」
青が身を乗り出した。頷いた東陸は、視線を圭に移してきた。
「ああ、そうなるな、こっちは――貴方は銃の経験は?」
「持ってるし扱えるわよ。これ、私の」
「弾は十分ある?」
「ないわ」
「一つ借りますよ」
巾着袋から一個を取り出し、東陸は背広の内ポケットに弾丸をしまった。
特に尋問される様子もない。圭は肩透かしを食らった気分になる。
「青はどうだ」
「予備が欲しい。それと、広渡に一式」
「だからー、俺に持たせるなって」
広渡の主張を無視して、東陸と青は会話を続ける。
「明日だな」
「俺も行く」
「ああ、わかった。留守番頼みますよ、水上さん」
おぉー、と、広渡が意味不明の相槌を打つ。圭はクッキーを口に詰めこむ。
「春原と里実は?」
「多分部屋にいる」
「姉さんのことは、知ってるんだな」
「そうだ」
「顔出しときなよ。今日はいるんだろ?」
「ああ。行ってくる」
「ご苦労さーん」
他愛のない会話だ。東陸が席を立ち、廊下に消えた。
……まさかこれで終わりなのだろうか?
圭は廊下を見つめた。足音が小さくなる。
無罪放免、と、いうには雑すぎる。
何だこの扱い。
圭は手を払って食事をやめた。クッキーの残量は一枚だ。
「どこ行くの?」
戸口に向かうと、背中に広渡の声がかかった。
「化粧室」
振り向かずに答え、廊下に出た。早足で歩き出す。
まったく落ち着かない環境だ。
居心地の悪さといったらない。
あれだけ。あれだけか? 初対面で。
人類抹殺計画の幹部だぞ。
トイレの直前で、さらなる声が発された。
「海津さん」
絶大な違和感を覚えて、圭は振り返った。
自分の身の丈の半分ほどしか身長のない子どもが歩み寄ってくる。青の声も表情も冷静そうだが、その足取りはやや速い。
圭は顔をしかめた。
「呼び捨てにしてくれない? 気持ち悪い」
「いいのか」
「ええ。敬語も禁止。歳を取った気分になるわ」
わかった、と頷いて、青は圭の前で立ち止まった。
「朝のことだが」
「何?」
目線を外した青を、圭は睨むように見下ろした。
「おれが撃ったことを、黙っていてくれないか」
真摯な黒い眼が圭を射た。
――藍が誘拐された時、車のミラーを撃ったことを言っているのだ。
青の意図を察して、圭は話の本題をずらすことにする。鼻につく子どもだ。
「なんで? 完璧だったじゃない。弾丸狙って撃つなんて、あんな芸当初めて見たわよあたしは」
「それではない」
「約束なんかしないわよ、馬鹿馬鹿しい。くだらないこと気にするのやめたら?」
圭はひとまず青に対応した。トイレに特に急を要する用事があるわけでもない。
「あれで正解よ。抑えこんだって仕方ないわよ」
青は圭を見上げ、黒い双眸を見せ続けていた。圭は女子トイレに視線を投げ、ここはここで居心地が悪い、と思った。
「そうか」
青のまっすぐな目に、不機嫌に横目をくれる。
「わかった。失礼した」
「はいはい」
踵を返す青を、片手を振って追い払う。トイレに直行し、ドアの内側に寄りかかった。
薄暗い空間の中、わずかな異臭が鼻孔を刺激する。
大きく溜め息をつく。
参った。
苛々の原因が判明してしまった。
圭はずるずるとドアに頭を滑らせた。
なぜ誰も圭を疑わないのだろう?
真っ先に疑われてもいい立場ではないか。何せ、つい昨日の朝まで、人類抹殺計画の進行に惜しむことなく尽力していた人間である。
その圭がやってきた翌朝、計画阻止団体の統率者が攫われた。それなのに誰一人、圭の内通の可能性に触れず、圭の参入を特別視せず、圭の持つ職務上の機密事項に言及しない。
内通はしていない。それは事実である。けれどここまで順調に受け入れられる理由もない。圭自身、そんなに信用されやすい人格なつもりはないのだ。
ここまで信用されると、というより、とりあえずわかりやすく疑われることがないと、何やら内通しなければいけないような気分にすら駆られてくる。
会社に戻ったところで寿命が縮むだけだ。それはわかっている。いるのだが。
洗面台に手をついて、圭は額を落とした。
……藍はいい。意外に快かった。非常に寛容で、圭がどんな人間であれ全面的に受け入れようという姿勢が感じられた。
だが他の面々は何だ!
信じても疑ってもいないような態度で、ふらふらと圭の事情を避けて話を進めて。疑うなら疑う、信じないなら信じないと、はっきり言えばいいではないか!
「うう」
呻いて、圭は俯いたまま髪を掻きあげた。
里実に会いたいよう、と思う。さすがに口には出さないが。
青にまで変な懐かれ方をした今、最後の砦はあの女児のみだ。
藍を失ったのは、圭にとっても、思いのほか痛手だったのである。