二〇一三年 ⑤
藍は布地を掌でこすった。
頬に快い触感は綿らしい。でも、生地の織り目に若干の違和感がある。
普段の慣れた、引っ張ればきりっと音の鳴るような緊密な布ではない。
少し毛羽のある柔らかな表面。洗濯機に三回も投げこめば質が落ちてしまうだろう。
それに、匂いが違う。
そう思ってから、瞼を開けた。
撫でていたシーツと、もう片方の手に当たる枕。背中から肩にかけてに薄手の布団が掛かっている。
反射的に身を起こす。背中で布団が滑り落ちた。
寝台の上に座っている。
物音がした。
藍は振り返った。
そちらで、青年がドアに背を預けていた。
その瞳は藍を見据えている。
藍は黙って青年を見返した。
全身に纏う黒い衣服。長めの前髪の隙間、藍を見る眼もおそらく黒い。彫りの深い整った顔立ちに、険しげな陰が落ちている。
誘拐犯だった。
名前を聞き、名乗らず、藍を気絶させてここに運んだ者。
藍は自身を見下ろした。クリーム色の衣が膝までを覆っている。割烹着みたいだが、ネグリジェとかいうものかもしれない。
襟元を掴む。肌着も外されているようだ。
「風呂に入れ」
藍は顔を上げた。
低いが、明瞭な声は、青年から発されたものらしかった。
「……お風呂」
「そのドアの奥だ」
青年は長い右腕を伸ばし、人差し指を前方に突き出す。
腕の延長線上に一枚のドアがある。
白いドアを、藍は眺めた。
「なぜ?」
青年が一瞬、藍を見る。藍はあえてそちらを見ない。
「身を清めろ」
簡潔な返事を聞く。
藍はおもむろに足を下ろした。
床に立つ。濃茶の木目の上を歩き、指されたドアを開ける。
脱衣所の向こうに、オレンジ色の照明と曇りガラスが見えた。
青年は藍の背後に立っている。
誘拐時には銃を向け、藍の足を狙った人物。
藍は校庭を思い浮かべる。
砂利と芝生、校舎の外壁。その内部で暮らす人々。
声。
自分を呼ぶ、青の声。
藍は目を伏せた。
あの砂利の上を、全力で駆けてきた弟。
――生きる価値はあの子のそばにある。
藍は脱衣所に入った。
白いドアで、青年から隔絶した。