二〇一三年 二
圭を含む四人を昇降口前に降ろして、ジープは校舎の陰へ走っていった。歩き出す青、里実、藍に続いて、圭も階段を上った。
公民館から小学校へ。公共施設活用しまくりだ。
中央のガラス扉をくぐると、受付窓口が右手にあった。職員・来賓用の玄関らしい。先を行く皆に倣い、土足で廊下に上がる。横にのびる児童用昇降口のガラス扉は、すべて下足箱で塞がれていた。
明かり取りから外の光が注ぐ天井を、圭は眺めた。
帰り道ももうわからない。自力では戻れないだろう。
自分が連れていかれる道を確認するのを、途中でほぼ放棄してしまった。
一体、どこに来てしまったのか。
一つめの角を左に折れると、薄明るい廊下の奥から誰かが寄ってきた。
「藍さん、みんな」
妙齢の、と言っていいものかどうか。圭と同い年か、少し下くらいの女性である。
軽そうなショートヘア、スニーカーにジャージ、ポロシャツという、動きやすさをとことん追求したような格好をしている。
「春原さん」
藍が呼び、女性と微笑を交わした。あれ、と圭は奇妙に感じた。
女性と藍が、当たり前のように話し始める。
「おかえりなさい。水上さんは、車のほう?」
「はい、そうです」
「そちらが」
「はい。紹介します、あの、例の計画についてお詳しい、海津圭さんでいらっしゃいます」
丁寧なのかおかしいのか判断のつかない言い回しで、藍は圭を両手で示す。圭は憮然として立っていた。
藍は笑顔を振り向かせ、今度は女性を手で示した。
「圭さん、こちらが春原さんです」
ああ、と圭は奇妙に感じた理由に思い当たった。
この少女は圭を名前で呼ぶのだ。
しかも春原の名前を言わない。この女性の名前を明かすのは禁忌なのだろうか?
「春原です、よろしくお願いします」
頭を下げる春原に向かって、圭は単なる会釈を返した。音を発てずに両手を合わせて、春原は藍を見下ろした。
「みなさんは、もうお話は済ませているの?」
「いいえ。自己紹介はしましたが、本題には入れていないんです」
藍がおっとりはっきり応える。春原が赤いベルトの腕時計を見る。
「じゃぁ、軽く何か食べながら会議というのはどう?」
圭もちらりと自分の時計で時刻を確かめた。午後二時の十分ほど前だった。
「よろしいことですね」
思わず前のめりで頭を落としそうになる。
何だその発言は。よくわからないがどこか奇天烈な喋り方をする藍の、頂点寄りの後ろ頭を、圭はじっとりと見つめる。
「パンがいいな。サーモンのマリネと緑茶と」
遠くから声がかかった。春原の後ろの廊下を、広渡が歩いてこちらへ来ていた。
春原が振り向いて頭を下げた。
「水上さん。ご苦労さまです」
「そちらもね。準備、手伝うよ」
「はい、じゃ、お願いします。食堂でいいかしら、藍さん?」
「中庭にお願いしましょうかね」
「いいわね、今日はお天気だから」
春原は瞬間的に笑う。一つ一つの動作が慌ただしい女性だった。
「では、よろしくお願いします」
「狙撃の心配がないのがいいね」
擦れ違いざま何げなく言って、広渡が春原とともに遠ざかった。圭はついその背中を見た。
悪気はないように聞こえたが、気になる科白であった。
「さて、中庭に参りましょう。圭さんも、案内しますね」
藍の笑顔を、じっと見下ろす。
すぐ頷いていいものかどうか、圭にはどうにも決断しかねた。
藍と青に挟まれて、中庭へ連行された。里実が部屋に戻ると言ってどこかへ行ってしまったので、圭は変な二人と三人で過ごすはめになった。敵意に満ちた、中身も外見も九歳の少女のほうが、堂々とそばにいられるものなのに。
昼の光が適度に遮られた四角い中庭は、芝生と花壇、理科の実験用らしい小さな畑で構成されていた。
出入り口のすぐ近くにテーブルと椅子があり、円テーブルの中央にはビーチパラソルが差さっている。どこかの廃れた店舗からでも拝借してきたのだろうか。
「椅子を出してくる」
「ああ、お願い」
青が踵を返していなくなり、圭は藍に中庭へ引っぱり出された。椅子を引かれて勧められ、おとなしく腰を下ろす。藍は圭の隣に腰かけた。
無言で。
圭は話題を探した。
何よりもまず、自分の立場がつかめず落ち着かない。
藍をちらりと見ると、圭ではないどこかへ視線を漂わせていた。
「さっきの彼女の」
とりあえず、圭は喋ってみた。
藍が振り返る。
「春原さんですか?」
「ええ。名前は呼ばないの?」
「そうですねぇ、呼ばれたくないご事情なんです。あぁ、圭さんも、圭さんは、失礼に当たってはいないでしょうか?」
「……ええ」
藍の言葉を理解するのに時間がかかった。
「失礼に思われましたらおっしゃってください」
「あの人、春原さんは、ここの教員?」
「すばらしいですね」
藍は目を見開いた。
「ご推察のとおりです。三年ほど前までは、児童の方が残っていらしたようなことを言っておられました」
……三年。
一学年が何学級か知らないが、校舎の規模は比較的大きい。病がはびこり、教員、児童、家族を減らして、三年前に一体何人残ったものか。親を失った児童が暮らしていたのだろうか。
でも、今はもういないという口振りだ。
「急に遠くまで連れてきてしまって、申し訳ないです。お疲れではございませんか?」
いいえ、と圭は小声で答えた。青が校舎の方から、自分の背丈の三分の二は高さのある椅子を抱えてきていた。
少なからず苛々はするが、ここで怒っても仕様がない。
「お互い様よ。私がいなければ、狙撃されることはなかったでしょうから」
「そうですか。そうおっしゃっていただけると、嬉しい限りですが」
青が到着し、元からある椅子を寄せて、間に新たな椅子を設置した。白いプラスチックの椅子は、どれもすぐには落ちなそうな汚れで薄暗くなっていた。
青が着席する。藍の向かい、圭の向こう隣に。
「伺っても、構わないものでしょうか?」
圭は数秒、藍の言葉の意味を考えた。
純粋に意味がわからなかったのだ。
「ええ」
「圭さんは、今のお仕事は長くていらっしゃるんですか?」
圭は藍の眼を見た。上目遣いで圭を見る深い茶色の眼は、二割の純粋な好奇心と、得体の知れない八割で構成されていた。
自然な素振りで、圭は目を逸らす。
「そうね、一度失業してからだから、三、四年くらいね」
「ああ。わたしが生徒でなくなってからと、同じくらいですね」
――と、いうことは、セーラー服は中学のもので、今は高校一年生に当たるのか。
圭は怪しむように藍を見直した。
「ご両親は、例の流行病で?」
藍は微笑した。ほんのわずかに。
「両親は、知りません。保護者としての、祖父母なら、ちょうど同じ頃に続けて亡くなりました」
一旦、外した視線を、藍はゆるやかに圭に戻した。
「あの《魔物》ではありません。自然死だったと思います。二人とも高齢でしたもので。脳梗塞か何かかと。少なくとも、《見えない魔物》の症状ではありませんでした」
全世界の人口を減らした、あの死ぬだけの症状を、人は《見えない魔物》と呼んだ。この呼称は、元々はメディアが普及させたものだった、と圭は思う。まだメディアが活発に機能していた時代だ。
藍がそう呼ぶということは、呼び名は生きているらしい。
三、四年前なら、〇九年か一〇年。
圭の持論に該当する。
青がふと顔を上げた。藍が振り仰いで校舎を見る。圭もその目線を辿った。
校舎の三階の窓から、里実が身を乗り出して手を振っていた。
藍が手を振り返すと、子どもは窓を閉め、すぐに見えなくなる。
何のコンタクトだ、と圭は不審に思った。数分と経たないうちに、その里実は中庭に現れた。
「先生と広渡はまだですか?」
藍が肯んずる。
「わたし、様子見てきますね」
席に加わるかと思ったら、里実は再び消えてしまった。そんなに自分といたくないのだろうか、と、圭はつい考えた。
あまりこれ以上この二人と無言で過ごしていたくない。
青くんは――昔からこんなに大きかったの、とかいう、アホな質問をするのは不本意である。
不本意だが、このままだと口を滑らせそうだ。
「圭さん」
呼びかけられてぎょっとした。
「何?」
「狙撃されていた方に、お心当たりはおありですか?」
狙撃されていたのは圭だが、この場合の《される》は違うらしい。狙撃者にまで敬語を遣うのかこの子は。圭は呆れる。
「会社の人間だということだけよ」
「そうですか」
会話が続かない。しまった、と圭は思った。
「あの会社は、言っとくけど今ああいうアブナイ事が得意な人間ばっかりよ。日本中のアブナイ人間が大集合してると思ってくれてもいいわ」
「なるほど。でも、その危ない方々ばかりの中から、堅実な仕事をしてくださる方を選び抜くとすると、何人かには絞れそうですかね」
ゆっくりとした喋り口だが、思考の速度は遅くない。圭は感心する。
「そうね。でも知らないわね、残念だけど」
「圭さんは、仕事場では、お一人でお勤めだったんですか?」
「そうよ。指示は上司から直接。必要なデータは全て衛星通信」
「はあ。場所は選ばないと」
「まあね。ここ三ヶ月は泊まりこみだったわね。食料は注文して配達を頼んでたから、外出もなかったし」
「その配達なさっていた方は」
「若い男だったけど、あのスナイパーじゃないわね。あんなに細い体格じゃなかったわ」
第一、それほど有用な人材を配達屋になんかしないはずよ、と、圭はテーブルに頬杖をついて言い捨てた。
今更ながら自分の境遇を思い出す。
そうだ、久しぶりの外だ。
緑の芝生に、小学校。こういう散歩も悪くないじゃないか、と思うと、少し気分がよくなってきた。
実際、散歩でもなんでもなく、事態はもっと逼迫しているけれど。
配達人と上司以外の人間と口をきくのも久しぶりなのだ。
しかも、こんな大人数で、今度は食事だ。中庭だが屋外で天気もいい。意外に心浮き立つ、恵まれた環境にいるではないか。
圭は上機嫌で中庭を見回した。壁際にしぼんだ朝顔の鉢が置かれていた。
藍が微笑んでいる。
「狙撃手の方が、圭さんをお助けしにいらしたのだという可能性は、ないでしょうか?」
圭は目を見開いた。
「ないんじゃない?」
「そうですか。そのわりには控えめでしたが」
「優秀な狙撃手が、要領がいいとは限らないわよ」
そうですね、と相槌を打ち、藍は圭から視線を外す。その横顔を、興味深く圭は観察する。
話題さえあれば話しやすい子だ。外見ほどの子どもっぽさは微塵も感じられないし、喋り方も和やかで、奇天烈な言葉遣いも慣れると気にならない。表情だって落ち着いている。
問題は、身長と、童顔と、色気のなさだろうか。
やっぱり変な子、と思った。つと視線の先を変え、微動だにもせず椅子に座っている青を見て、こっちも変なの、と脳裏で呟いた。
ほどなく、食事を盆に載せて、広渡、里実、春原が現れた。学校給食用の食器に盛られた料理のほかに、電気ポットと数種類のティーバッグ、手作りらしい焼き菓子まであった。
会議をする予定だったはずだが、それが本当に会議だったのなら、議題は圭の今夜の寝床と今後の部屋割りに終始してしまった。
食事中も食後も、圭は積極的に何か尋ねたりしなかった。それでもいくらかわかったことがある。
圭を囲んだ五人がこの学校に住みついていること。青と藍、里実と春原がそれぞれ同じ部屋で寝起きしているらしいこと。藍と青の姉弟を除いて、皆がばらばらに集まった団体だということ。
藍がこの団体の代表だというのも、名ばかりではないようだった。食後は皆が思い思いに喋っているような状態だったが、最終的には誰かが藍に判断をゆだねた。藍は必ず全員の意見を聞き、その上で、誰をも否定しない形で結論を出すのだった。
藍のその能力をもってして、会議が本題に入らないはずがない。誰一人、圭の機密事項を知りたがらなかったところを見ると、わざと話題を避けるのがその場の総意だったのだろう。原因は、たぶん春原の存在にある。最初の公民館にいなかったことからして、春原は非戦闘要員だ。しかも人類抹殺計画阻止の作戦にすら、直接には関与していない可能性が高い。
会議の結果、圭の仮の宿は保健室に決定した。保健室は藍と青の寝室で、ベッドのほかにもソファがあるそうだった。
新参者、かつ人類抹殺計画の加担人である圭を、計画阻止を目的とする組織の代表者たる藍と、同じ部屋に泊めるわけである。とすれば、やはり同室の青か藍、あるいは両方に、戦闘能力が備わっていると考えてしかるべきだった。
宿泊に必要な最低限のものを、春原が用意してきた。簡単な校内の説明と、夕食、入浴が済むと、健全すぎて具合が悪くなるくらいの時間に皆が就寝した。保健室のベッドの上で、カーテンごしに藍の隣にいてさえ、圭は拳銃を取り上げられもしなかった。
圭が何もしない保証はないはずなのである。
藍の穏和な微笑を思い返し、圭はかえって疑心暗鬼になった。不安とか緊張とかいう、長らくすっかり忘れていたものがよみがえってくる。なんでこんなところに来ちゃったんだっけ?
だが、そういえば、計画についてまだ一言も喋っていない。
つまり当分殺される心配はないわけだ。
急に安心すると、猛烈な疲労感が襲ってきた。圭はたちまち意識を手離し、朝まで一度も目覚めなかった。
朝、藍に物柔らかに起こされたところを見ると、圭は無事一晩を明かしたようである。全員で朝食をとり、低血圧による不機嫌が少々改善されると、次は食後の片付けに参加する段になった。
食堂という名の調理室の後片付けだの、食器洗いだの。誰かと群れてこまごました作業を手伝うなど圭は御免だった。藍がゴミ出しをするというので、それに便乗することにした。別の誰かよりは藍のほうがよっぽどましである。
昨日と変わらず、藍はセーラー服を身にまとっている。圭は狙撃の一件で外に出ることを禁じられたので、廊下から藍の様子を見学した。校舎北側の焼却炉がゴミ置き場だった。
そのとき焼却炉の向こう、校庭に沿った道路を、一台の車が走ってきた。洗車したてかというくらい艶々した黒っぽいオープンカーだ。わりと怪しいな、と圭がぼんやり思った矢先、車は減速し、焼却炉の手前で停まった。
圭は目を凝らした。
藍が車上に注目する。知り合いだろうか?
運転席はちょうど焼却炉の陰にある。
圭は出入り口の引き戸を開け、念のためしゃがんで様子をうかがった。
聞き耳を立てる。声が飛んできた。
「華桜藍か」
男の声だ。名を聞くということは、知り合いではない。
「はい。どちらさまでしょうか」
藍の返事はおっとりしたものだ。
圭は出ていくべきか迷った。腰のホルスターに手をかける。
「俺と来てもらう」
不穏な気配が、生じた。
圭はとっさに目をすがめた。藍は動かない。男の姿は見えないが、圭が焼却炉まで出ていけば確実に覚られるだろう。
顔を隠す術はない。会社の人間だとしたらまずい。ああいう危ない手合いは、情報の価値を知っている。
立ち尽くしているところを見ると、藍はおそらく銃を向けられている。
圭は拳銃を握った。一か八か、駆け出してみるか。
素早い物音が聞こえた。圭はそちらに視線を走らせた。青だ。青が校庭を、焼却炉に向かって駆けていた。手には拳銃を握り、異常な速さで車に近づいている。
圭は戸口から飛び出した。男の死角を走り抜けて焼却炉へ向かう。
炉を覆う小屋の陰に着いた瞬間、信じがたいものを見た。
ガン、という強い音が響いて、二個の弾丸が芝生を削った。
藍を――撃とうとした男の、発射された銃弾を、撃ち落としたのだ、青が。
弾道を予め目測して。
圭が息を詰めたとき、エンジン音が轟いた。黒い車が物陰から躍り出る。一瞬、男は圭を認めた。
整った渋面は若く、身体は細く引き締まっていた。
車が藍の間近に擦り寄る。
「藍さん!」
圭は呼んだ。銃声が発される。車は止まらず、巧みな動きで銃弾を回避する。
藍が飛びすさるとさらに向きを変え、ほとんど焼却炉に突っこみながら、男は藍の腹部に拳を投げこんだ。
圭は銃を構えて撃つ。タイヤを狙うが、即座に後退した車は、藍を引き上げて方向を転じる。
蛇行して芝生を蹂躙し、弾丸をことごとく躱す。青が運転手を狙って、ルームミラーに亀裂を走らせる。
完璧な腕前だ。それにも関わらず、車は瞬く間に遠ざかっていく。
「姉貴!」
青が叫んだ。藍の姿は欠片も見えない。
静寂が耳を塞いだ。