【羽無し】と【 】
「名前……ですか」
鳥人の村に来て以来、自身の名前を聞かれる機会なんて一度もなかったから、少し戸惑った。
この村には誰も、私の名前なんかを知りたいと思う人なんて、いなかったから。
「……皆からは【羽無し】と、呼ばれています」
「それは、本名ではなく、悪意のある蔑称であろう」
「本名は……母を亡くした時に、捨てました」
私の名前は、顔もろくに覚えていない父親がつけたもの。いつだったか、そう、母様が教えてくれた。
母様が、呼んでくれたからこそ、意味をもった呼称。母様がいなくなった今は、もうなんの意味もなくなった。
「私は、ただの【羽無し】。それで、良いのです。それだけで、皆、誰を指して呼んでいるのか分かるのですから」
名前なんて、ただの記号と同じ。
私と言う個体が識別できれば、何も問題は無い。
「だが……それは、あまりにも……」
「蔑称を呼ぶようで気が引けると言うなら、何か適当に名前をつけて下さい。貴方がつけてくださった名前なら、どんなものでも喜んで受け入れます」
【 】は、母の死と共に死んだ。今、ここにいるのは、ただの【羽無し】。それ以上でも以下でもない。
それでも、彼がその善性故に、私に新しい名を与えてくれるなら。私は、生まれ変わったつもりで、その名を享受しよう。
【羽無し】の名をこの村に置いていき、新しい名で、新たな人生をはじめよう。
「………分かった。考えておく」
「貴方のお名前を伺っても?」
私の問いかけに、彼は苦笑いを零した。
「よくよく考えてみれば……私も、そなたと同じようなものだな。過去の名は、新たな役割を担った時に捨てた。今はただ、称号としての名が残るのみだ」
そういえば蜥蜴人族は成人した時に、族長により新たな名を与えられると聞いたことがある。
以前聞いた旅人の名前は、あまりに独特の発音をしていて、その意味を理解することができなかったが、あれは一種の称号だったのか。
改めて、他種族の文化は、興味深いと思う。
「なら、その称号としての名を教えて下さい」
「それは……次にまた再会した時まで、取っておこう」
そう言って彼は、悪戯っぽく笑った。
「王都までの道のりは長い。話す時間はいくらでもあるのだから」
「……分かりました」
どうせ、明日この村を出立するまで、彼の名を呼ぶ機会もない。ならば、別に名前を聞くのは今でなくても良い。
私は茜水晶を入れていた麻袋を背負い直し、空を見上げた。
太陽の位置が、傾いている。そろそろ、行かなくては。
「それでは……明日の昼、またここで会いましょう」
「……どこへ行くつもりだ?」
「日が暮れる前に、必ず村に帰るように叔母に言われてます。そろそろ、帰らないと」
「ならば、送っていこう。いくら歌の守護があるとは言え、そなた一人では危険だ」
「お気持ちはありがたいのですが……他種族である貴方と二人で村にむかえば、良からぬ噂を立てられかねません。何せ私は、他種族の男と駆け落ちした母の娘ですから」
母の名誉がこれ以上汚されない為にも、私が彼と共にいることを目撃されるのは避けたい。
鳥人族には、歌の守護がある。流石に私程森の奥深くまで潜るものは滅多にいないが、村の近くであれば子どもでも平気で森に足を踏み入れる。
これ以上、彼と共に村に近づくのは危ない。
「渾沌がいなくなったこの森に、私の脅威はありません。この木から、村に戻る道もよく知っています。何度も通った道ですから。万が一迷っても、歌が必ず正しい道に導いてくれる。だから、心配して頂かなくても大丈夫です」
それでは明日。
そう言い残して、踵を返そうとした私の肩を、彼が掴んだ。
「………まだ、何か?」
「いや………その………」
反射的な行動だったのか、掴んだ彼自身が戸惑っているようだった。
口籠もる彼の言葉を、ただ黙ってじっと待つ。ややあって、彼はばつが悪そうな表情で、口を開いた。
「………目が」
「目?」
「別れる前にもう一度……そなたの目を、見ておきたかったのだ」
高い高い空のような。深い深い海のような。
壮大で神秘的な蒼の瞳が、私の朱色の瞳を覗き込むように、こちらへ向けられる。
心まで覗き込まれたような落ち着かなさがあったが、私は目をそらすことなく、その蒼を見つめ返した。
「ーー『期待すること全てを、諦めきっているかのような目』をしていますか。私は今も」
「……否」
先程の彼の言葉をなぞると、彼はゆっくり首を横に振った。
「空虚だった瞳の中に……今は、篝火のような炎が灯ったように見える」
今日は、珍しく表情筋を使う日だ。
そんなことを思いながら、口元に笑みを象ってみせた。
「ならば、その火を灯したのは、きっと貴方です」
本日二回目なだけあって、叔母に作ってみせた笑みよりは、ましなものができたように思う。
「ーー感謝します。今日、貴方にここで会えた、奇跡に。貴方は私に、忘れていた希望を思い出させてくれました」
それだけ言い残すと、今度こそ彼から背を向けて、村へと駆けだした。
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炎のような赤い髪を翻し、走り去るその姿を、暫し呆然と眺めていた。
「………不思議な、少女だ」




