【羽無し】と出会い
「………っ」
飛びだして来た、真っ黒な犬の姿に、息を飲んだ。
子牛程の大きさのその犬は、でっぷりとした体型をして、毛が長い。
嫌な予感に、口の中が乾き、心臓が激しく脈打った。
………ちがう。これは、きっと、ただの犬だ。
ちょっと太り過ぎて、毛が長いだけの、野良犬に決まっている。
しかし、そんな楽観的な考えは、その犬の顔がこちらへと向いた瞬間に打ち消された。
その犬の目は、がらんどうのように真っ黒だった、
こんなにも日は暖かく、明るく、木々の合間から差し込んで来ているのにも関わらず、その目は一切の光も宿してはいない。
どこまでも虚ろで、深淵のように暗い暗い瞳。
ぞくりと、肌が粟立った。
「……【目はあれど、見えず。耳はあれど、聴けず】……」
恐らく、間違いない……「渾沌」だ。
咄嗟に頭の中で、これからの行動をシミュレーションする。
走って逃げるか?ーー否。渾沌の足は、ただの犬よりずっと速い。逃げても必ず追いつかれる。
歌を歌って、結界を重ねがける?ーー否。いくら耳が聴こえなくても、渾沌は魔力の流れを気配で察知する。そうすることで渾沌を刺激する方が怖い。
幸いにして、歌は、先程母との想い出の石を探す為に歌ったばかりだ。結界の効果はほとんど薄れていないはず。
ならば、私の結界が渾沌にも通用することを信じて、このままじっとしているのが最善だろう。これで効果が無いなら、きっと何をしても無駄だ。
瞬時にそう結論づけた私は、そのまま暫く渾沌と見つめあっていた。
けして自分を善なる者だとは思わないが、渾沌が従うほど悪ではない。
彼が喰らうのを好む、年若い女に該当し、加えて今の私は高い魔力を持つ鉱物を保有している。歌以外に何の力も武器も持たず、戦う術はない。
残念ながら、私は渾沌にとっては、そこそこ魅力的な獲物だ。何もせずに去って行く可能性は低い。……喰われる覚悟は決めておこう。
渾沌と対峙している時間は、ほんの一瞬だったが、私にはとても長い時間のように思えた。
しかし渾沌は、私に襲いかかる素振りをみせることさえなく、そのまま視線を戻して、目にも止まらぬ速さで走り去って行った。
「……助かっ……た?」
結界が、効いたのか?
……否。あの渾沌の様子は、結界の有無を意識していたというよりも、「今は獲物になんて関わる時間は無い」とでも言うかのようだった。
明らかに、先程の渾沌は切羽詰まっていた。まるで何かから逃げていたかのように………。
「………渾沌が、逃げる程の、強い魔物がいるのか?」
次の瞬間、再び茂みが揺れた。
ーー目が覚めるような、鮮やかな蒼。
それが一目見た瞬間の、その人の印象だった。
美しい青い髪を靡かせながら、渾沌と変わらぬ速さで茂みから飛び出して来たその人は、私とは全く別の生き物のように見えた。
しなやかで美しい、蒼い、獣。
……ああ、渾沌は彼から逃げていたのだと、直感する。それ程までに、彼は分かりやすい「強者」の雰囲気を纏っていた。
すぐに私の存在に気がついた彼は、驚いたように大きく目を見開いて、瞬時に手に持っていた刀を向けた。
「渾沌ーーお前は、女に化けることもできたのか」
……何か、とんでもない勘違いをされているようだ。
「……見知らぬ剣士様。私は渾沌ではございません。渾沌なら、先程私の傍を走り去って行きました」
「分かりやすい嘘をつくな。お前のような武器も持たぬ女が、このような危険な森に一人でいること自体そもそもおかしいのに、その上何故渾沌と対峙して無事でいられるというのだ。あれは、弱き者をいたぶるのを好む。例え、私から逃げている最中といえども、あれの性質を考えれば、お前の喉笛を噛み切ってから逃走するのが普通だ。それをしなかったと言うのは、お前が渾沌自身か、もしくは渾沌が好む生粋の悪人かのどちらかであろう」
最も過ぎる言い分に、顔が引き攣った。
確かに、私の存在はどう考えても怪しいことこの上ない。
「お疑いは最もですが、私が助かったのは、微力ながらも結界が張ってあったからでしょう」
「……結界?」
剣士は、その端整な顔を歪めて、訝しげに私の様子を確認した。
「………確かに、何かしらの守護の気配を感じるが………」
守護の気配の関知が薄いのは、それだけ彼が私に害を成す可能性が低い相手だということだ。その事実に、少しだけ肩の力が抜けた。
歌がもたらす結界の選別基準は不明だが、それが確かに悪意がある人間を選別することは、母との旅で学んでいる。
「私はこの森を抜けた先にある、鳥人の村の娘です。剣士様も、鳥人の歌の効果はご存知でしょう? 鳥人の歌は、結界となり、歌い手に害のある者を遠ざけ、善き者を近づけます。だからこそ、私はこうして武器を持たずに、単身で森にいられるのです」
剣士の顔に、葛藤が見て取れた。
しかし、彼は私に向けた剣を下ろすことなかった。
「………成る程。考えた物だな。渾沌。なかなかそれらしく聞こえる言い分だ。どうやったかは知らぬが、守護の気配まで纏うとは。つくづくお前の狡猾さには恐れ入る。一瞬、信じかけたぞ。……だがお前は根本的な部分でミスを犯している」
そう言って剣士は、勝ち誇ったように笑った。
「お前が鳥人の娘だと言うのなら………背中の羽は一体どこに落として来たと言うのだ。まさか、鳥人でありながら、生まれた時から生えていなかった等と言うまい?」




