【羽無し】と森
猫獣人の女中の尻尾が、恐怖でぶわりと膨らんだ。
「っお、お許し下さい! 奥様!」
「……やあ、ねぇ。勿論、冗談よ。私が、本気で貴女達に、そんな酷いことをするとでも?」
唇から手を離し、叔母はくつくつと喉を鳴らしておかしそうに笑ったが、怯える女中に向けられた目は、どこまでも冷淡だった。
「………冗談に、させておいて頂戴ね? ……二度目は無いわ」
「っはい!」
「仕事をせずに、愚かな無駄話をしていた貴女もよ?」
「も、勿論です! 奥様」
鋭く釘を刺され、平身低頭する女中達を横目で見ながら、叔母はわざとらしく大きなため息をついてみせた。
「……しかし、困ったわねぇ。市場に、紅粉が出回ってないなんて。こうなったら、材料を直接手に入れて、粉にするしかないじゃないの」
その言葉に、女中二人の顔から血の気が引いた。
「お、奥様………材料、とは……」
「勿論、茜水晶に決まっているでしょう? 私は、それ以外の紅粉は使わないと決めているの。……肌に、合わないから」
「茜水晶なんて……紅粉以上に、今は市場に出回っていません! 紅粉だけでなく、茜水晶由来の品物はことごとく売られてないのですから!」
茜水晶は、すり潰して粉にすると、美しい紅の顔料になる。
しかも高い魔力を含有している為、非常に使い勝手が良く、様々な品物に加工されて、高い値段で取引されている。
「……おかしなことを言う娘、ねえ?」
そして、そんな茜水晶が最も高騰し、品薄になるのが、この季節だ。
「茜水晶なら……【そこ】の森の奥に行けば、いくらでも取れるじゃないの」
女中達の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
「っ森に! 今の時期に、森に行くことだけは、どうかお許しを!!」
「ただでさえ、あの森は魔力濃度が高く、危険な魔物がたくさんいるというのに、その上今は魔物の繁殖期です! 繁殖に必要な栄養や魔力を求め、奴らは私達に襲いかかってくるでしょう!」
「女の肉を好む、渾沌さえ、目撃されたという噂もあります! 四凶と称されるくらいの凶暴な魔物を前にして、私達のような非力な女が、何が出来るというのですか! どうか、どうか、奥様、お慈悲を!」
彼女達の恐怖は、尤もだった。
村の中は最上級の結界で守られている為安全だが、この村を取りまく森は、四神国の中でも一、二を争う程危険な土地だ。
植物も川も土も、ありとあらゆるものが標準を遙かに超える高い魔力を含有しており、それ故に魔力に惹かれた凶暴な魔物が森中に跋扈している。
高い戦闘能力も、特殊能力も持たない彼女達が、森に入って五体満足で戻って来られるとは、とても思えない。
叔母もきっと同じ考えのはずだ。………となれば、当然。
「………そんなに怯えなくても、大丈夫よ。安心して頂戴。私は、か弱い貴女達を、森にやったりしないわ。そんなことをしても、紅粉が手に入るどころか、新しい女中を二人雇う手間が増えるだけだと、分かっているもの」
そこでようやく、今まで一度も向けられていなかった叔母の視線が、私へと向けられた。
「だからーーお前が行きなさい。【羽無し】。……お前も、半分とは言え鳥人族の血をひいているのだから、それくらい平気でしょう?」
その目は、激しい憎悪で満ちていた。
『ーーいい? 【 】。母様が傍にいない時は、必ず歌を歌うようにしなさい。そうすれば、お前は安全でいられるのだから』
『どうして? どうして歌を歌うと安全なの?』
足にまとわりつきながら口にした、幼い私の問いかけに、母様は苦笑いを浮かべて答えた。
『それはね………翼は無くても、確かにお前は、鳥人族だからよ』
鳥人族は、歌を歌うことで、自身に結界を貼り、自らに害を成す存在を遠ざけることができる。
母様のように、お嬢様育ちの純粋で非力な女性が、幼い私を連れて旅芸人を続けることができたのも、全てはこの能力があってこそだ。もしこの能力がなければ、旅を始めてすぐに、親子共々違法な奴隷商人に捕まり、遠い外国へ売られていたことだろう。
数多の亜人の中でも、唯一鳥人族だけが持つ、特別な能力。
「ーーさあ、日が高いうちに、さっさと出発をし。【羽無し】。夕方には、大事な大事なお客様がいらっしゃるのだから、それまでには、茜水晶を手に入れて戻って来るようになさい。もし、茜水晶を見つけられなかったら………」
叔母は、嗤う。
美しい顔を歪め、その目に激しい憎悪の炎を宿しながら、感情とは裏腹に慈しみの満ちた笑みを向ける。
「その時は………もう、帰って来なくて良いわ。私は紅粉を諦めるから、お前は自らの命を諦めなさい。それならばお互い……痛み分け、でしょう?」
この村では、誰もが羽の無い私を蔑み、嫌っている。
だけど、殺したい程に憎んでいるのは、恐らくは、叔母だけだ。
翼の有無は、多分あまり関係ない。
叔母は、私が私であると言うだけで、ただ憎悪する。
「………かしこまりました。奥様」
初めてこの村に連れられた時から変わらない叔母の態度に、私は普段あまり使わない表情筋を総動員して、笑い返してみせた。
「………まあ。私としては、森に行けるのは願ったり叶ったりなのだけど」
すっかり村から遠ざかったのを確認すると、大きくのびをして、降り注ぐ暖かな日差しを堪能した。魔物にとっての恋の季節は、私達亜人にとっても過ごしやすくて良い季節だ。
森に足を運ぶのは、今回が初めてではない。
今回のように、叔母や従姉妹の我が儘に付き合わされた時もあれば、暇を見つけて自分で足を運んだこともある。
私を虐げたかったであろう叔母には申し訳ないが、今回の依頼は私にとっては大したことはないのである。寧ろ、ご褒美と言っても良い。
「久しぶりに、思う存分歌も歌えるし」
さて、そろそろ歌わないと、さすがにまずい。
非力な鳥人の気配を察して、魔物が集まって来ている。今頃は、共通の獲物を狙って、牽制しあっている辺りだろう。
茂みが微かに揺れたのを横目に見ながら、大きく深呼吸して、幼い頃に母様から教わった歌を歌い始めた。