沼地の魔女とその息子 天の女神と軍神の裔
大帝は軍神の裔。軍神とニンフの間に生まれた英雄王の十世の孫。時は無明の時代である。正しき信仰は喪われ、偽りの悪神を奉ずる邪教の徒が支配する忌むべき時代であった。王統も千々に乱れ、落魄した王の世子が一人、供人もなく乞食する有様であった。幼くして親を亡くした大帝を養育したのは、森閑の泉に住まいする太母神であった。
『大帝本紀』
「婆様! 婆様は御在宅か!」
「がなりたてておいででないよ。ただでさえお前は声が大きいんだ。つきあわされる身にもおなり。耳が遠くなっちまうよ」
「これは失敬。職業病ですかな」
男が老女に詫びをいれる。指図するのに慣れた人間の喉から出る声である。見るからに活力の横溢した三十がらみの偉丈夫と、十人が十人、魔女と答えるとんがり帽子に鉤鼻の枯れ木のような痩せ女であった。
「しかし婆様の地獄耳がこれしきで鈍らになるとは思えませんがなあ。それに『魔女の館は静謐を好む』と常日ごろ仰っておいでであったかと記憶しておりますが」
「おだまり。静かなのと聞こえないのが同じはずがないだろ! まったく。あのドブネズミのような小僧っ子が、よくもまあふてぶてしく育ったものさ」
「婆様の薫陶陶冶の賜物ですな」
「それで今日は何の用だい将軍様。どうせまたしょうもないことをねだりに来たんだろう」
「おお。そうでした、我が養い親、音無の沼池の大魔女よ! お聞きください!」
芝居がかった請願の言葉。そこから繰り出される突拍子もない言葉。
「婆様には魔女から女神に返り咲いていただく」
「はあ?」
こいつは何を言っているのかと、魔女は己の養い子に狂人を見る目を向けた。子は視線の中で悠然と貴婦人に対する礼をとる。
「言葉の通りだ婆様。古の豊穣神よ。かつてあなたは私に語ってくれたことがあったな。自分たち魔女の大半は、今現在の主権を掌握する上なる神との戦争に敗れた古き女神、敗残者であると」
「言ったかもしれないね」
「天にいます上なる神は上王の統べる諸王国の守護神でもある。長らくのお勤めさぞやお疲れのことであろう。一つ、地獄への慰安の行旅を贈呈したいと企図している次第」
神を悪魔へと追い落としたい。気が触れたとしか思えぬ言葉であった。
「王位を簒奪した人間は何人かいたが、主神の座はこの千年不変だったんだがねえ」
「我が親が謂われなき辱しめを受ける事を、どうして子が我慢できましょうや!」
「それで神像を毀し、神殿を破却し、神権を貶めようだなんてマトモな人間の考えるこっちゃないね」
「魔女の子がマトモなはずがありますまい」
「違いない」
「それに婆様も、すでにお分かりなのでしょう?」
「そうだねぇ……ええ、こちらの姿になるなどと何百年ぶりのことかしら」
いまやそこには老いさらばえた魔女の姿はなく、光り輝く女神の姿があった。
「何年か前から妾に信仰を捧げる者たちが現れました。それは日毎に数を増し、いつしか往時をすらしのぐほどになりました」
「上古とは人間の数が違いますからな。それに、それだけ今の世に不満を抱える者がいるということです。機は熟しているのです。遠からず諸王国は戦乱へと突入します。であれば、それを収めるのが私であってもかまわないではありませんか」
真の女神を前にしても男はいささかも動じる様子を見せなかった。
「この姿をみて怯みませんか。ただびとならば目が潰れ、腰が砕け、跪いて許しを乞うたものですが。お前はつくづく英傑ですね」
神の血も魔性の血も、一滴も混じらぬ人の子のはずなのですが。おかしなこと、と女神は笑った。
「子を愛する母を、母を愛する子が、どうして恐れましょう」
「良いでしょう。妾の愛子や。母はお前の野心を言祝ぎましょう。子の手助けをするのも母親の楽しみというものです」
それが国を盗み取るために、神界の序列をかき乱そうとする、千年に一度の大悪行であったとしても。
「梟雄よ。お前の前にあるこの身は数多の大神、英雄たちが妾の愛を乞い求めたものです。お前もそれを望みますか?」
「この世の誰よりも麗しき貴婦人と愛を交わす。それは実に魅力的な提案ですな。神婚による権威づけも狙える妙手だ。しかしまあやめておきましょう。婆様よりは既に親の愛をいただいた身、そこに女の愛をまで重ねるというのは、いかにも過分というものでありましょう」
母と子はじっと見つめ合った。どれだけ経っただろうか。どちらともなく笑い出した。最初は小さな微笑みだったが、それもじきに大笑いに変わった。深刻ぶった大真面目な顔で見つめ合っている自分たちが滑稽に思われたのだ。
それが終わりの合図であることをどちらも理解していた。
「では、名残は尽きませぬが、この辺りでおいとまを。……おさらばです婆様。愛しておりました。我が母よ。もはや今生にて再びまみえることはありますまい」
以下は余談である。
「と思ったのですがなあ。こんな形で再会するとは! あんな愁嘆場を演じた手前、さすがの私も『いっそ殺せ! 殺してくれ!』と叫びたいくらいには恥ずかしいですな」
「はん。もう死んでるだろうが。それに当たり前だろう、諸王国を初めて完全に統一した上王、いや皇帝だったか、それが神に祀り上げられないで他の誰が社稷の神になるってんだい? えっ、軍神の末裔様よ。ああ、竜の化身なんてのもあったねえ」
「最高司祭を兼ねる上王に対抗できる権威が欲しかったんですよ! あーやだやだ、こんなことになるなら、あんな大法螺吹くんじゃなかった」
「どうせ遅いか早いかの違いさ。伝記作家たちは誰が一番ドスの利いた逸話や伝説を自作に盛り込めるか競争してるよ」
軍神の子を経て、神に至った、魔女の子が、聞いてる連中だって信じてたわけがないんだがなあと情けのない調子でぼやくのを、年老いた魔女がからかった。
「まあ、なんにせよ、お帰り」
「はは、ただいま、婆様」
この作品はtwitter発 #魔女集会で会いましょう に則った掌編です。
流れてくる大量のイラスト、マンガ、SSに触発されて自分でも書いてみました。
ショタの頃(幼年期)はイラストと違って、文字で書くには冗長に思われたので、バッサリとカットしてあります。