8 エゴイズム
手紙が舞い落ちてきた翌朝。外はまだ暗い。
相も変わらず、天の大地は動かない。騒がしい鉄の摩擦音が消え、冷たい明朝の空気に静寂が溢れている。
ヴェークはいつも通りの天井を拝んで後悔した。
「寝てた!?ア、アムルトは・・・!?」
果たして如何ほどに疲れていたのだろうか。
昨夜の出来事以降、アムルトの様子がおかしく気にかけていたはずだったのに。
時刻は4時半。3時間ほどの記憶無し。
隣の簡素なベッドは綺麗に整えられている。そこにアムルトの姿はない。
「ま、まさか」
昨日の封書を真に受けて旅立ったのではなかろうか。
国の外へ出たのではなかろうか。
どれも普通に考えればものの一日では不可能な行為だ。
外へ出るには正当な手続きが必要であるし、加えて内円に繋がる大門はそう簡単に開けられるものではない。
だが、冷静さを欠いたヴェークにはあらゆる不安が頭をよぎる。その上一昨日から非常事態が続いている。何があってもおかしくない。
アムルトは昔から冒険や伝説が大好きだ。
アムルトは外に憧れている。
アムルトの実力なら外に出かねない。
薄い毛布に足を取られながらも扉を開け、くたびれた制服のままロビーへ向かう。
表の扉を開き、外へ飛び出す。
乾いた空気が頬を撫で、一瞬身震いするがすぐに視線を巡らせる。
アムルトは俺と違い実現する力がある。
アムルトは俺と違い剣の才がある。
アムルトは俺と違い夢がある。
「分かってるんだ・・・!お前が外に行きたいことぐらい」
小さな頃に呼んだ流れ星のお話し。
父が読み聞かせるその本を、アムルトは誰よりもきらきらした目で眺めていた。
父が外には行かない方が良いと言うと、アムルトは誰よりもムキになっていた。
知っている。
彼は外に憧れている。
だが、駄目だ。外は危ない。俺が、お前を守らなきゃ。
大門は北。石畳の上を駆け出そうとする。・・・と
「ヴェーク?何してるんだい?」
聞き慣れた声。振り向くとそこには学生服のシャツを纏ったアムルトがいた。
訪れる安堵感。
なんだいるじゃないか。
「いや・・・えっと」
そう思った途端に言い訳がしたくなった。
お前が外に出たと思って追いかけようとしていた。なんて恥ずかしくて言えない。早とちりにも程がある。
「その・・・目が覚めたから・・・散歩を」
「こんな時間に?珍しいね」
「お、俺だってたまには早起きする」
「どこを散歩するつもりで?」
「と、隣の区画の公園まで・・・」
「裸足で?」
聞かれてはじめて足下を見る。
裸足だ。
「う・・・」
「・・・」
「と、ところでお前は何してたんだよ」
「あからさま。まあ流されてあげよう。僕は自主練習かな」
「剣のか?」
「うん。ご覧の通り」
寮の小さな庭。しかし剣を振るには十分な広さ。
剣を持ったアムルトは額に汗を浮かばせながら、ほら、と両腕を広げてみせる。
「いつもしてるのか?」
「いや、そこまで真面目じゃないよ。気持ちの整理つけたいときとかだけ」
手元の剣に目を落としアムルトは答える。
「はい、僕のことは話したから、ヴェーク、君もちゃんと話してね」
「うっ」
「あのね、兄よ。世の中は等価に物事が交換されてこそ秩序ある循環をし」
「あーわかったわかった!小難しいことやめてくれ!話すから」
「はい、どうぞ」
「うぐ・・・そ、その・・・お前が」
「僕が?」
「昨日の手紙を見て・・・外に行っちゃったんじゃないかって・・・」
笑い飛ばされる。
そう覚悟していたヴェークに届いた次の言葉はカッと熱した頭を一瞬で冷えさせる。
「そのつもりだよ」
あっさりと。何の言い訳も無しに。ただ一言。肯定。
「え・・・」
思わず阿呆な声が震え出る。
「そのつもり・・・てお前、まさか、外に出るつもりって意味か・・・?」
「寸分の齟齬もなくそういう意味だよ」
身体が冷え上がる。背筋に嫌な寒気を感じ、アムルトを見る。
先程までと変わらぬ微笑み。変わらぬ姿勢。
彼はごく自然に言ってのける。
「このムートから・・・外に?」
「むしろそれ以外にない気がするけど」
何の発展もない会話をする。
アムルトは突然固まった兄を心配そうに見据える。
「外は、危ないんだぞ」
「知ってるよ」
「外の世界がどんなところかも分からない」
「知ってる。それにもちろん、ヴェークが僕に行って欲しくないことも知ってる」
「なら、何で・・・手紙か?昨日の手紙のせいか?」
「きっかけとしてならその通り。でもあの手紙が無くたっていずれそうするつもりだったよ」
ヴェークはいつの間にか両の拳を握りしめていた。
伸びすぎた爪が痛い。
気づきふっと力を抜く。
「いや、俺だってお前が外に行きたがってるのは分かってた・・・でも」
「家族を危険に晒したくない?」
「・・・そうだ」
「なら、僕はなおのこと行かなくちゃ」
「どうして・・・!」
「ヴェーク、もし世界がこのままだったら近いうちこの国も滅ぶ。原因は飢餓だ」
「っ!」
「この世界は鉄の大地が回ることで、気候が調整される。だけど、このままだったら干魃、豪雨の調整が不可能だ。食糧事情は相当に心許ない」
「でも、それは・・・誰かが」
解決してくれる。言いかけて
「その誰かも家族がいるんじゃないかな」
「・・・」
「そしてその誰かも家族を危険に晒したくなくて、神を救う旅に出るだろう」
「けど・・・俺は・・・」
お前を守らなきゃ。
「僕は守りたいよ、ヴェーク。そんな家族のために頑張る人を、困っている人を、世界を守りたい」
「それは・・・」
言いたくない。
でも出かかった言葉が引っ込まない。
言ってしまっては駄目だ。後戻りできない。
また掌が痛い。
それなのに握った拳を解くことが出来ない。
「それはお前の自己満足ではないのか」
誰かを守る。世界を守る。そう言いつつ彼は外への憧れを解放したいだけなのではないか。
守るという大義名分を肩に、彼は自己の欲求を満たそうと考えているのではないか。
そう思えてしまった。
そう思いたかった。
それを指摘すればアムルトは傷つくだろう、怒るだろう。
だがそれでよかった。傷ついて怒って、それで折れてくれれば良いのだ。
八つ当たりのような一言に先程までの宥めるような返事はない。
恐る恐るアムルトを見る。
引き結ばれた口。下がった眉。困っているとも、泣きそうとも言えるその表情の上にはしかし、傷心も怒りも無かった。
「っ・・・」
諦め。
それが一番近いのではないだろうか。
5時の鐘が鳴る。
世間が起き出す時刻だ。
何に対する諦めか、知りたくなかった。
それゆえにヴェークは罪を重ねる。
「お前は・・・お前は、英雄に、なりたいのか?」
聞いてしまった。
今、どんな顔をしているだろうか。
表情が上手く作れない。
アムルトは再度口を開く。
「違うよヴェーク。英雄は証に過ぎない。僕は・・・いや・・・・俺は世界を救うんだ」
救う。
救いたい。ではなく明確な意志。
鉄壁から太陽が顔を出しアムルトの汗が光に反射する。
きらきらと。
光を纏った彼はあまりにも大きすぎて。
汚い己があまりにも小さすぎて。
ヴェークはその光に背を向けてしまった。
遅くなり申し訳ないです。