「これは恐怖ではなく、武者震いなのだからなっ! こ、怖くて動けないわけでは、ないんだからねっ!!」
家の外とて、シロウの溌剌としたテンションが衰える兆しはない。というかさっきよりむしろ高くなってる。俄然と。
後ろ手に腕を組んで異世界の自然がよっぽど珍しいのか視線をあっちこっちと忙しくなく動かし続けている。
今もよくわからない鼻歌を歌いながら先行して森の中を散策しているのだ。そして、私がその後ろをついて行く形である。
「シィーローウ、ちょっと静かにしてー。あんまり騒がしいと肉が逃げちゃうんだよー」
比喩でも何でもない。
事実森に入ってからというもの、大型の獣どころか、冬眠せずいつも家の近辺で見かけるような小型の獣さえ一匹も見当たらないのだ。
あれもこれもシロウが理解不能な鼻歌を歌っているからだというのが私の推測であった。
ある大陸では獣を退ける手段として鈴を持ち歩くのだというけど、どうやらシロウの鼻歌は原生生物総てを退ける力があるようだ。今の私たちには迷惑以外の何者でもない。
でもまあ、確かにすべてがシロウの鼻歌せいとまでは言うまい。どうやら今年は特に山の恵が不作のようで、山自体がとても静かだった。
「……ん?」
数時間ほど森の中を歩き回ったころだろうか。
先頭のシロウが間の抜けた声をあげた。
「どうしたの? なんか見つけた?」
「いや、これはなんだろうと思ってな」
シロウが指を指す先には、一本の木が立っている。
葉がなく丸裸で、貧相ななりの木だ。けっこう年をくった老木らしく、なかなかに大きい。しかし、私たちが注目したのはそこではない。
根元付近の幹が、鋭利な刃物で斬りつけられたように大きく抉られている。
ふむふむ。
「獣のマーキング……かな。それとも縄張り争いの跡? ――いや、でもこれ、おかしいよ。これが爪痕だとしたら、すんごい大物だもん」
爪痕らしき痕跡から私の長年のサバイバル経験則をもとに予測すると、たぶんこれをつけた獣は優に八メートルは超えているはずだ。
おそらく山熊。
気性が荒く獰猛で、この森の食物連鎖の頂点に立つ雑食性の巨獣である。
「は、八メートルって……なんだそれコワイ……」
シロウが顔を真っ青に染めている。
少なくとも、この爪痕が山熊のものならそれぐらいにはなるだろう。
……でも、何だかこれは、様子が変だ。
何度もいうように、今はやっと冬があけたばかりで、大型の獣である山熊も例に漏れずすぐ最近まで冬眠していたはずである。
これが木の実の豊かな夏季や秋季ならまだ素直に納得するが、この時期の山熊はどの個体も痩せ細って小ぶりなはず。
なのに、八メートル級の大物。
とても僥倖に巡り合ったとは思えない、嫌疑を持って余りある異常な大きさだ。
「うーん。このまま散策するのは危険かもしれないね。とりあえず様子見のために家まで戻って――」
待機しよう。
そう言おうとした瞬間だった。
シロウの後ろの茂みから――真っ黒い毛に覆われた何かが飛び出した。
「……っ! シロウ! 後ろ!」
「ぬっ? ……おおうっ!」
後ろを振り向いたシロウは、後ろから迫るソレを見て肩を飛び上がらせる。
襲撃者の正体は山熊だった。
奴は冬眠から目覚めたばかりのようで腹が減っているのか、口から涎を垂らしてシロウを捕食せんと瞳を光らせて迫っていた。
しかし、にも関わらず、シロウはなぜか逃げようとしない。
「シロウ! なにしてるの!? 逃げて――は!」
その時、私はあることに気がついた。
シロウは逃げないんじゃない――迎え撃とうとしているのだと。
彼は魔王である。
いくらタダメシ食らいで、掃除もろくにできない人であろうとも、彼は魔王なのである。
いつもはああだが、今この瞬間、彼は私に、彼が魔王たるその所以を見せつけようとしているのではないのか、と。
事実、シロウは山熊と向かい合い、完全に対立する姿勢を固めると、いつもはふにぁっと垂れてだらしない目元がキリリと切れ長く伸び、猛禽類がごとき鋭い瞳で山熊を睥睨した。
凄まじい気迫だと思う。流石は魔王、不覚にも気後れした私がいる。
山熊は尚も力強く地面を蹴ってシロウへと迫っていた。
その山熊へ、シロウが一体どんな方法を使って退けるのかと、私はドキドキしながら静観を貫いていると、彼は口角を吊り上げ、笑った。
「ふ……ふふっ……。まったくまったく、熊風情が魔王であるこの我に牙を向くとはな……この世界の生き物はなんと愚かな。ははっ」
そして、突然彼は徐に私へと振り向いて、
「いいだろう、ならばその愚行の罪深さを、その体に思い知らせてやろう――このミウがなっ!」
私を指差した。
自分ではなく、私を、だ。
…………おい?
「えっと、シロウが戦うんじゃないの?」
「うむ! 実を言うとだな、足がな、動かないのだよ!勘違いするではない、これは恐怖ではなく、武者震いなのだからなっ! こ、怖くて動けないわけでは、ないんだからねっ!!」
「…………」
結論。
シロウはシロウだった。うん。
「……『火焔蝶の粉塵』」
即座にシロウの危機度が極限まで跳ね上がる。
今私の目の前には、山熊が魔王を捕食しようと襲いかかるという、何とも摩訶不思議な光景が広がっていた。
こんな奇怪な経験は、世界中どこを巡っても私だけだろう。
まあそんな冗談はさておき、ともかくシロウを救急する手段として私が用いた魔術は、何とか山熊の牙が彼の身へと到達するのを防いだようだ。
「――――――――っ!」
まるで宙を舞う鱗粉のように赤い光を明滅させる火の粉が山熊の体表に付着すると。
途端、山熊の漆黒の毛色が真紅に染め上がる。
火炎。
無論、ただ紅くなったというわけではなく、私の放った魔術――『火焔蝶の粉塵』による炎で山熊が火達磨になったのだ。
ピッタリとまとわりつく炎のドレスに焼かれ、山熊はやがて断末魔をあげて地に伏した。
「ふう……大丈夫? シロウ」
「え? あ、う、うむ……凄まじいな。あれがミウの魔法か。あんなデカイ熊が、一瞬で」
シロウの感嘆の声が響いた。
なんだか、こうして人に褒められるってことが今までなかったんで、うん、照れちゃう。顔が熱い。
照れ隠しに頭をぽりぽりと掻きながらまる焦げになった獲物に近寄る。
仕留めた山熊はなかなかのものだった。
たぶん大きさは三、四メートルぐらいかな。
やはり冬眠あけで体が細く、肉が実らず美味しそうで無い。
でもまあ、この時期の獲物として十分すぎる結果だ。文句をつけるのは贅沢というもの。
これで我が家の貯蔵も暫くの間は安泰である。
「……それにしても、武者震いって。まあ別にいいんだけど、本当に魔法も何も使えないんだね」
「ぬ、今、君が考えていること、何となくわかるぞ。元魔王ぞ? 我、元魔王ぞ? 我が真の力を解放できさえすれば、このような熊は瞬殺できるのだ」
「えー?」
子どもかと。
ここ何日、ずっとシロウと生活を共にしてきたが、彼の言う「真の力」とやらの片鱗さえ見た記憶がない。
彼は紛れもなく、無力なのだ。
私が懐疑的な目を向けているとはいざ知らず、シロウは足元の山熊に視線を落とした。
「だが、この山熊、そこの木の幹を傷つけた奴とは違うんだな」
「そうだね」
山熊は山熊ではあるのだが、どう見ても木の傷跡と爪の大きさが一致しない。
たぶん別の個体か、それとも冬眠する前に元気な山熊どうしが喧嘩でもしたんだろう。
そういうこともあるだろうさ、と納得させる。
――しかし。
その次こそは、本当に予測外。
ジュルリ――と、まるで獣が舌舐めずりするような音を、私の耳が捉えた。
☆ ☆ ☆
刹那の後である。
今まで穏やかに吹いていた森の風が、一陣の旋風に様変わった。木々は荒れ、閑静だったこの場所も途端に喧騒に包まれる。
異様な雰囲気を感じ取り――ばっと、下げていた視線を正面に向ける。
ついで、視界に映ったその光景に、私は騒然とした。
ここまで接近されたことに、なぜ今まで気がつかなかったんだろうか。
そこには、私の身長の倍は優に超える、見上げれば首が痛くなるほどの獣の巨躯が、私に影を落として佇んでいたのである。
山熊――いや、違う。
確かにこれは山熊だが、でも、これは少々毛色が異なる。
通常の山熊とは比較にもならない、異常に発達を遂げた隆々とした筋肉。
もともとは綺麗な漆黒色だったろうその体毛は、今や血のような色に変色している。
おまけに、頭にはおかしな形をした角まで生えてしまっている始末。
そこまで来て、この異形の生物が一体何なのかを、私は漸く理解した。
この世界には、魔物というモノが存在する。
――魔物、この世界におけるその定義はこのようにあった。
『通常の原生成物が魔力汚染により体を侵食、および、何らかの環境的要因により凶暴化、変異、精神に異常をきたし、その性質が危険と目される種全般』
この定義に基ずき、原生成物は魔物か否かを判断される。
もしその通りに私がこの山熊を吟味するならば、この山熊は疑いようもなく山熊の魔物だった。
「な、なんだ……この熊は!?」
「魔物だね。正確には自然魔力に体を汚染された山熊の侵食種」
私はよく知らないんだけど、なんでもこの世界の海、森、渓谷などの自然豊かな場所は、一概に空気中に漂う魔力が多いとされる。
そこで稀に、何らかの災害に巻き込まれたり、特殊な環境下で育った原生生物が、自然界の強力な魔力に影響されて突然変異を起こすことがあるのだという。
そういった過程で生まれたものたちのことを――人は魔物と呼んだ。
意図せず突然現れてはその身が朽ち果てるまで止まらないと言われる、天災。
奴らの存在は一般的に自然災害のそれと同列に並べれる。
偶然出逢ったのなら運が悪い、後は死ぬか生きるかの二択。
そんな感じに片付けられるとてもレアなケース。
「なぜそんなに冷静なのだ。すごいデカイぞ、こいつ!」
別に私は冷静じゃない。
というかむしろすんごい怖くて内心冷や汗ダラダラな訳で。
かくゆう私だって長年この森でサバイバルしてきた野生児だが、本物の魔物と遭遇したのは未だかつて一度たりともありはしない。
人しれずびっくりし過ぎて思わず背筋が凍っちゃったほどだ。
でも、それを表に表わさないのは、もしそうするといざという時に平常心で魔術を使えないからだ。
魔術は常に、平然とした心で扱わなければ自滅を巻き起こす。
現に、今私はいち早く落ち着きを取り戻すことに成功し、すぐさま対応することができた。
「『風の踊り子』」
風を操ることで体を地面から数センチ浮上させ、まるで重力を感じさせないなまじ疾風のような高速移動を可能とする魔術だ。
さっそく足元が地面から離れたことを確認すると、私は風に乗り、飛ぶ。
侵食種の山熊はすぐに私の動きに反応し、その大木のような豪腕を振り下ろすが、それを難なく回避して私はシロウの元へと急ぐ。
「わっ、ミウ――あぶ」
高速で飛んできた私にシロウは何かいいたげな様子だったけど、残念ながら話をする余裕はないので、問答無用で彼の頭を胸に抱く。
そしてそのまま――全速力で山熊から遠ざかる。
――グォォォオオオオ!
山熊の血迷ったような絶叫が森に木霊した。
おそらくあの山熊こそが、今までこの森で感じた数多くの異常の元凶だろう。
森の動物たちが見当たらないのは、シロウが変な鼻歌を口遊むのが原因ではなく、あの魔物に捕食されたから。
あの普通では考えられないような木の爪痕は、凶暴化したこの山熊がつけたモノ。
おそらくそういうことだ。
「ちょ、ミウ、なにして……!? ていうか、顔に、お、おぱいが!? ――柔らかふぃ……」
「し、ず、か、にっ!」
集中が切れるじゃないか。
後ろを振り向けば、血の色をした山熊が雄叫びをあげてヨダレをダラダラ垂らしながら私を追いかけてきている。
うわわ、怖っ!
目が血走ってる!
たぶん山の動物を食い尽くして、ちょうど飢餓状態だったのだろう。
意地でも私を見逃す気はないようだ。
でも、それでいい。
私だって、奴を見逃すつもりはない。
奴は、私の生命線に等しい狩場を荒らしたのだ。
おかげで今年の夏は十中八九実りのない時期となるだろう。ちくしょうめ。
だから、その分をお返しを――ここでお見舞いしてやるのだ!
「準備完了! 待機呪文――『天雷の狼牙』」
我が家の未来の食糧をお粗末に食い散らかしやがって。
『風の踊り子』を解き、地面に足をつけ、私を追ってくる魔物に向けて体を反転。
逃げてる最中唱えて待機状態にしておいた高等魔術を解放する。
さあ、いざ!
「『――爆ぜろ!』 」
水平に構える私の掌から撃ちだされた電流の塊は、まるで生きる狼のように森を疾駆し、山熊の懐まで到達すると――耳をつんざく轟音を周囲に撒き散らして、爆裂した。
雷が迸ったような閃光が辺りを包む。
雷系統で高位魔術に区分けされる、直撃すれば全身不随、悪ければ即死の雷撃魔術だ。魔物とてただではすむまい。
枯木を火にあてたような激しい炸裂音が何度も何度も繰り返され、それがようやく収まったとき、そこには――感電死した山熊の死体が転がっていた。
ふう、と一息尽く。
「よっし! 何とかできたね。シロウ、もう大丈夫だよ――あれ?」
額に流れた汗を裾で拭い、そういえばずっと胸に抱きしめていたなーとか思いながらシロウに目を向けると、
「――んにゃ、気絶……してる?」
やけにおとなしいなと思ってたけど、まさか気絶してたとは。
それも、鼻血を無様に垂らしたとても幸せそうな顔で、である。
……一体彼が私の胸に顔を埋めている間になにがあったんだ。
「……ともあれまぁ、獲物を回収しようかなっと」
魔王という彼の存在にはほとほと疑問が尽きない。
そんなことを思いつつ、私は仕留めた二体の山熊を回収しに森の中へ歩を進めたのだった――。
この後、ミウは数体獣を狩っており、食糧問題は無事解決しました。