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さっきまでの会話を聞いていたならば、その質問をする余地はないはずだ。
しかし、王子は極上の笑みを浮かべ、舞台俳優のような芝居がかった身振りでその腕を広げた。自分の優位を確信しているのだろう。
扉の前には王子、後ろにはアルブレヒト。王立の図書館という相手のフィールド。気配を隠していた騎士がいつの間にか音もなく姿を現し、視界の端で示威を始めた。立派な鎧に堂々たる体躯。おそらくは王子の側近たる近衛の騎士だろう。
もう、そういうことをしている時点で、敵認定してもいいくらいに挑戦的な行動だ。
「さっきの会話を聞いていたならわかるだろう。興味はまったくない」
「そうはおっしゃらずに、少し考え直してはいただけませんか?」
「さっきも言ったが、俺は政治に興味はないし、そんなつまらないことに研究の時間を削ぐ気もない。この国に縁もゆかりも思い入れもないしな」
貴婦人であればきっと悲鳴をあげて倒れたであろう美しい笑顔と甘く優しい声で勧誘を続ける王子を、ハンスはうさんくさげに睨み上げた。
「それとも……もう、他の誰かに協力すると約束した後だから、我々の力にはなれないと、そういうことなのでしょうか」
やはり、このタイミングでハンスに接触してきたのは、ドロテア王女にハンスが"接触"したという情報を得たからだろう。
彼女たちに捕まったときは人目に触れていないが、帰る時は堂々と屋敷から出てきたのだ。目撃証言などという言葉を使うのが間違っているほど、人目に触れているだろう。
「何を言っているかわからん。何度も言っているが、俺は他人に仕える気はまったくない。金にも困っとらんし、地位や名誉に興味はない。いくら他人より寿命を長く保てるとは言え、不老不死ではないんだ。研究の時間はいくらあっても足りん」
「そこまで時間をお借りしたいというわけではないのです。ただ……高名なグリードリスの賢者様に我々の味方になっていただければ心強いというだけなのです」
少し前に、ドロテア姫が似たような台詞を言った。
しかし、その意味合いはまったく違う。
ドロテア姫は、ハンスに『見て見ぬふり』をしてほしいと言ったのだ。誰にも組しないというハンスの意地と誇りをくみ取り、ハンスに何かを強制するつもりはないと示したのだ。何よりも、王女はハンスと自分を対等の存在として扱った。上下関係までは求めなかったのだ。
そこまでならば、ハンスだって浮世の定めとして受け入れる。
この王子は違う。
何をトチ狂ったのか、ハンスに自分の部下になれと言っているのだ。
「それでも断る、と言ったら?」
「私はこの国の王子です。そして、現在、眠り姫の塔について任されているのは私です。私の意思は国の意思と同様であると思っていただけないでしょうか?」
この国にいたければ、自分の言うことを聞け、ということだろう。
恥ずかしげもなく、よくもまあ、はっきりと言い切ったものだ。
これは決定的な失着だ。
武力を盾に、言うことを聞かせようとする権力者。
それは、ハンスにとって、決して受け入れることのできない相手だった。
ハンスは首だけくるりと振り向き、アルブレヒトを見た。緊迫した状況にも関わらず、苦笑を浮かべている。あの食えない男は、最初からこうなることをわかっていて、なんとかおさめようとしたのだろう。……どうやら失敗したらしいが。
ハンスが軽く睨みつけると、アルブレヒトはわずかに頷いた。
――ひとつ、貸しだぞ。
にやりと笑うと、アルブレヒトがさすがにイヤそうな色を瞳に浮かべる。しかし、それしかないと本人もわかっているのだろう、そのまま行動を起こそうとはしない。
「|con(起動せよ)」
ハンスを中心に、風が図書館の一室に吹き荒れる。
本棚が揺れ動き、ばさばさと派手な音を立てて本が不自然に落ちる。
もちろん、ただの風ではない、ハンスが起動した術式が物理的な風を伴って展開されているのだ。
「なっ……?! この図書館は魔術封じの術がかかっているはずだぞ?!」
「いや、魔術封じはまだ生きている!」
「ならば、どうして賢者様は術が使えるんだ?!」
「だいたい、何の魔術なんだ?」
「読めない?! どういうことだ?!」
魔術師らしい男たちが色めき立って叫ぶ。
魔術師たちは経験が浅かったのか、それともよほど驚愕したのか。とにかく、自分たちに不利な言葉を口に出した時点でハンスの勝ちだ。
恐怖は伝染する。魔術を知らない騎士たちが、専門家であるはずの魔術師の言葉に動揺しないわけがないのだ。
厳しい訓練を受け、修羅場をくぐってきたはずの兵士たちであるから、決して逃げることはしない。しかし、変わらぬ表情の中で、瞳に怯えの色が広がっていくことは止められない。
ハンスは大声をあげて笑った。
人間は、何よりも、自分が理解できないものを、恐れるのだ。
「この程度の魔術封じが俺に効くとでも思ったのか? これは大笑いだ!」
この手の、一定以上の魔力を封じる形式の魔術封じは、ハンスには効かない。
それは、ハンス個人の特性のせいもあるし、彼が使用しているものが、『魔力』をなるべく放出しない仕組みになっているからでもある。
それは、身を守るための用心でもあるし、もっと現実的なことを言うと、省エネ設計によるものだ。
魔力をガバガバ使えばいいというものではない。大魔法なんてものは無駄遣い極まりない。同じ効果が発生するならば、使用魔力なんてものは少ない方がいいのだ。
ハンスは呪文を唱えた。瞬間、図書館に光る糸が現れる。
「なんだこれは!」
「……!」
それは、数日前の酒場での再演であり、そして、スケールアップされた演出だった。
図書館にいる20人ほどの騎士たちすべて、その武器を持つ手首とその首に、魔法の糸が緩く絡みついている。そしてその光る糸は、ハンスのローブに繋がっている。
騎士たちは自分の手首を見て、次にお互いの首を見た。自分の首を見ることはできないが、同じ状態になっているのだろう、とあたりをつけたのだろう。
首に巻き付く魔法の糸。それがどんな意図を持っているのかなど、誰でもわかる。
糸が巻き付いていないのは、王子とアルブレヒトだけだ。
さすがに王子には、まだ、手を出してはいない。この国を出ていくのか、まだはっきりと決めていないからだ。
「ベルンハルト王子。宮廷魔術師にお誘いいただき、望外の光栄ではございますが、私には重責過ぎることから、ご容赦いただきたくお願い申しあげます」
王子はさすがと言うべきか、まだ笑みを崩してはいない。しかし、口を開き、また閉じた。何を言うべきか、心がまだ定まっていないのだろう。
「俺は、俺の興味の向くままに動く。興味がなければ決して動かない。だが……俺の邪魔をするのであれば、かのグリードリスと同じ轍を踏むことになるぞ」
騎士たちを取り巻く糸が、不自然にきらめき、その存在を誇示した。
「まあつまり、俺は、平和主義者なんだ。できれば、流血沙汰は避けたいんだが……あんた次第かな、王子様」
ハンスは、丁寧な態度をかなぐり捨て、歯をむき出しにして好戦的に笑った。
「さて、どうする?」