酒場にて
エルッヘンの首都アルトゥールは小さいながらも発展した城砦都市である。赤い屋根の似たようなレンガの建物が並び、舗装された石畳の上を馬車が通る。夜になると大通りには魔法の光で街灯が点り、歩くのにも不自由しない。
魔法の光と一言で言うが、ぽつぽつと点る灯りは、どこの都市にもあるものではない。エルッヘンが魔術が盛んな国柄であり、実は富める国であるということがこれでわかる。
技術力は軍事力でもある。エルッヘンは小国だが、今まさに成長しつつある若い国だ。
ハンスは、藍色に暮れなずむ空の下をぶらぶらと歩いていた。顔はさらしているが、黒い魔術師のローブ姿は目立つ。道行く人の視線を感じるが、それはどこか恐れを含んだものだ。
ハンスが黒い魔術師のローブを着ているのは、少々柄の悪い場所へ行ったとしても争いを避けるためだ。俺は、お前たちでは理解できないような"武器"を持った存在なのだ――というわかりやすい示威行動でもある。
ハンスが立ち止まったのは、表通りから一本裏に入ったところにある酒場だった、冒険者たちのたまり場であり、情報を知りたいならばそこに限ると、ハンスのところに薬品を買い付けに来る商人から聞いたのだった。
閉まっている扉越しにもわかるほどの喧噪と明るい光。流行っている酒場だということは確かなようだった。
「ヴォルフの酒場……。ここだな」
相変わらず多い独り言を呟くと、ハンスは扉に触れた。
「いらっしゃい」
扉を開けると、いかにも冒険者あがりという感じのマスターに声をかけられた。笑みを絶やさぬまま、その視線がハンスのまとう魔術師のローブを値踏みした。見た感じ、頭がきれそうであり、悪い感じはしない。
「聞きたいことがある」
唐突に声をかけたハンスに、マスターはあからさまに眉を寄せた。
「ここは酒場だ。何か飲み物を頼め」
「ああ、そうだな。では、麦酒を一杯くれ」
マスターは頷いて、自分の後ろにいる青年に目で合図をした。
「あんた、ここははじめてか?」
「ああ」
「誰に紹介されてきたんだ?」
飛び込み客ではないとわかったのだろう。ハンスは、例の商人の名前を告げた。
「ヘリクス・ボーネンシュタインという男だ」
その瞬間、酒場が静まりかえった。
「ヘリクス……だと?」
マスターの声が低くなった。
酒場にいる10人ほどの男たちの視線が剣呑な光を帯びたように感じるのは、おそらく気のせいではない。
どうやら、商人ヘリクスは恨みを買っているらしい、と気づいたが、既に後の祭りだ。ハンスは何食わぬ顔で話を続ける。
「ここのマスターは情報通だと聞いた。俺は吟遊詩人を探している。この国の英雄譚に詳しいやつはいるか?」
庶民は字が読めないものも多く、娯楽も少ない。吟遊詩人が歌い歩く物語は需要が多く、冒険者が副業代わりの日銭稼ぎの業としていることも多い。
吟遊詩人を探すならば、冒険者が集う場所に行くべきだというハンスの考えは当たっていたらしい。マスターは頷いた。
「ああ。いるぜ。まだ来てないみたいだが、今日は来るはずだ。なかなか腕のいいやつだから、ご期待には沿えると思うぜ」
「そうか。では、待たせてもら……」
ハンスが言い終わらないうちに、勢いよく酒場の扉が開けられた。
「マスター、すまん、遅れちまっ……ああああああああああああああああああああっ!」
入ってきた男は、素っ頓狂な声をあげて、後ずさった。
「おまえっ! あのときの魔術師!」
ぐるりと見回すが、酒場にはハンス以外に魔術師はいない。どうやら、ハンスのことを知っているようだった。
男を見る。盛り上がった筋肉に、濃い顔立ち、毛深い全身。ブラウンの髪は癖毛がひどくくしゃくしゃと渦巻いており、汚らしい印象で目つきも悪い。いかにもごろつきといった男だ。
「誰だ、お前?」
ハンスが問うと、男はハンスを睨みつけながら、しかしぐっと押し黙った。代わりに周囲から弾けるように笑いが起こる。
「思い出したぞ?! 眠り姫の塔の下で、お前が手玉に取られた魔術師だな!」
「酔っ払って町外れの孤児院の子供たちに絡んだ話だろ!」
記憶を探る。そういえば、少し前、あの森の魔女と知り合うきっかけになった事件で、ジルに絡んでいたごろつきがいたような気がする。顔がまったく思い出せないが、そいつなのかもしれない。
揶揄を含んだ男たちのからかいに、ムキになって男は噛みついた。
「違う! あれは”顔役”に頼まれて、ショバ代を払っていない連中からショバ代を回収しに言ったんだ!」
おや?とハンスはその言葉に首を傾げる。塔の周りの土地は王家所有だ。地元の”顔役”とやらがその運営を仕切っているという話も聞かない。おそらくはヤクザものの金稼ぎだったのだろう。
「馬鹿なことを言うな。”顔役”? あそこの土地は国王家の所有のものだぞ。その顔役とやらは、権利もないのにいちゃもんをつけていただけのヤクザものじゃないのか?」
そして、それをそのままストレートに口に出して言ってしまうハンスである。
基本的に野良魔術師というのは、知識階級でありながら、その実はアウトローなのである。もっとも、他人の揚げ足を取るのが大好きなのは、もともとのひねくれたハンス自身の性格なので、どうしようもない。
その瞬間、ハンスの周りの冒険者たちが殺気を帯びる。マスターの視線すら剣呑になった。
凄みを帯びた声色で、呟くように、しかし店中に聞こえるように言う。
「ああ、そういえばこいつは、ヘリクスの紹介らしいぞ」
「ヘリクスの紹介で……」
「気取った女たらし野郎……」
「お高く止まった魔術師ってわけか?」
「どうせ、自分たちだけが偉いと思ってるんだろ?」
「おまけに、金持ちなんだよなあ」
「でかい屋敷に住んでいやがる。ヘリクスと組んで儲けてやがるのか? 人でなし」
いろいろと何か意味のわからない当てこすりをされたような気がするが、今は気にするべきはそこではない。
席に座っていた男たちがにやにやと笑いながらゆっくりと立ち上がる。
「気をつけろ! あいつ、魔術を使うぞ!」
「こんな狭いところで魔術を使ったら自分も巻き込まれるから使えねーよ」
「まあ、一人でこんなところに来た世間知らずの若造に――俺たちからの愛の指導ってやつだ。感謝しな」
多勢に無勢。特に狭い酒場は屋内だ。派手な魔法は使えないと思ったのだろう。男たちがにやにやと笑いながらその足を踏み出した途端――
「お? お?」
「なんだこりゃあ! 勝手に俺の腕が……」
風もないのにハンスにローブの裾がふわりとまくれ上がり、生き物のように踊った。
呪文を唱える必要すらない。持ち主が気絶していても自動的に設定された防御様式の一つが起動したのだ。
「r-w(色をつける)」
ハンスのローブの裾から、凄まじい速度で幾重にも光る糸が奔り、男たちを絡め取りながら、酒場を蜘蛛の巣のように織り上げていく。
魔術師がローブを着るのは、実用性があるからだ。これだけぞろ長い服装であれば、いろんなものを隠しておける。
「おい! 何か変な糸が巻き付いて、くそっ! こら、離れやがれ!」
「切れねーぞ?! なんだこりゃ!」
「うわ、足が、うわ、うわあああっ!」
右手を振り上げ、両足が宙を切る。
もちろん、無色の糸で相手が気づかないうちに縛り上げるのが本来の効果だ。しかし、ハンスは敢えて糸を可視化した。そちらの方が、抵抗もできず自分が縛り上げられていくことにパニックになった連中の楽しい踊りが見物できるからだった。
ハンス自身はその場から一歩も動かないうちに、男たちがおかしなダンスを踊りながら吊り上げられたのは、あっという間だった。
「おい! 俺の店で何をして……っ!」
あまりの早業に抗議の声を上げる間もなかったのだろう。血相を変えたマスターが叫んだ瞬間、その右手もまた光の糸で吊り上げられる。
戒められた右手から、ナイフが乾いた音をたてて落ちた。軽くて薄く、冒険者がよく袖に隠している投げ用のナイフだった。カウンターの下で見えないと思っていたのだろう。
ははは、とひきつった顔でマスターが笑った。
「やめとけ。俺のローブは、投げナイフくらいは弾くぞ」
勝敗は決した。
ハンスの一言に、マスターは、自由な左手も上にあげ、降参の意を表したのだった。