第10話
間違いなく、相手は戦い慣れていない。
そもそも、闖入者であるハンスの口を封じたいのならば、自分の存在を示すべきではなかった。なのに戦いを宣言するなど、愚の骨頂である。
あまつさえ光を放つことで居場所を知らせ、今も音を立てて逃げる。信じられないほどの不手際だ。
逃げる相手を思い描く。
「風を固めつぶてとして放つ」
わざと場所指定をせず、音がした辺りにバラバラと魔法を着弾させる。
そのうちの一つが、うまいぐあいに足場をぶち抜いたのだろう。枝が折れて何かが落ちる音と甲高い悲鳴が響いた。
なんとか地面に着地した人影が、態勢を崩し、必死に転げるように走り出す。
「逃げられると思うなよ・・・止まれ、jil-tarya」
膨大な魔力を解析するうちに、じっくりと割り出した真名を叫ぶ。
目の前の影は、ビクンと硬直すると、そのまま、地面に頭から倒れこんだ。
ハンスは、ゆっくりと人影に追いつくと、倒れこんで震えている体を蹴り転がして顔を上に向け、その喉首を押さえた。
「狩りは終わりだな。説明をする気はあるか」
その顔は、先ほど「姉さま」と呼ばれた女にそっくりな、金の髪と青い瞳の美しい女に見える。泥に塗れた顔で、相手はハンスを睨みつける。
「ならば、勝手に暴かせてもらうぞ」
ハンスはにやりと笑った。
「魔法解除(M-1)」
呪文と共に、解析と解呪がの魔術が織られる。
その抵抗は凄まじく、バチバチと魔力の火花が当たりに撒き散らされた。
かなり強い魔力がかけられているのだろう。解かれまいと牙を剥く魔力を捻じ伏せ、その透き間から魔術構文を解いていく。
魔法を紡いだ者の真名は既にわかっている。絡んだ毛糸を解くよりも容易い作業である。
バチッ、という音をさせて、一つ目の魔法が弾け飛んだ。護りの魔法である。
喉首を抑えられた相手が、血走った目でハンスを睨みつけながら呻く。
「静かにしろ、jil-tarya.
『我は荒ぶる』とは、勇ましいが物騒な真名だな。
だが、今は黙れ」
真名により動きを制限する。
続いて、またしても魔法が弾け飛ぶ。こちらは先ほどの護りの魔法とは違い、比較的入り組んだ魔法だった。
みるみるうちに、組み敷いた『女』の姿が変わる。背が伸び、顔が膨らみ、肩幅が広くなり、腕の筋肉が固く盛り上がり。
そして、喉を押さえるハンスの掌に、硬く丸い突起が顕れた。喉仏だ。
「そうか、やはり男か」
先ほどまでは「姉さま」に良く似た美しい女性だったものが、今では女装した男以外の何ものにも見えない。
それでも、「姉さま」に面影があるところを見ると、姉弟であることは間違いないようだ。
「その若さでこれだけの魔法を使うとは、なかなか才能があるな。生まれつきの才能もあり、センスもいい」
一応本気で褒めたつもりだが、男はもがきながらこちらを渾身の気力で睨みつけるだけである。
「だが、お前の魔術構文は、あの結界を張った人間ではない。
答えろ。あれは、いったい誰が起こしているんだ」
男の顔が真っ赤になる。口をつぐみ、目をそらした。
「言え、|jil-tarya(ジル-タリャ)」
尋問は迅速に行うべきである。真名に呼びかけられては、拒むことは難しい。男は、唸り声をあげて抵抗しようとしたが、ついに観念をして口を開いた。
「西の魔女だと・・・あの女性は言っていた」
「あの女性?誰だ?」
「・・・・・・くっ・・・・・・眠り姫、だ」
「眠り姫?!
どういうことだ、眠り姫は塔の中にいて、まだ目覚めないのではないか?」
ハンスがそう問うた、その時だった。
ぶわり、と辺りに質感を持った闇が広がる。
風が、消えた。
粟立つような慄きが、彼の背筋を走る。
「あ、あああああああああああ、あああああああああああああああああ」
ぼんやりとした頭が、叫び声がを捉える。自分の声だった。
「うあ、あ、あ、ああ、ああああああ」
今度は、彼が地面にのたうちまわる番だった。
まるで、だんだん体が石になっていくかのように、うまく動かない。地面でもがき、森の泥に爪をたてて掻き毟った。口の中も泥の味がする。
倒れこみ、体が動かない。
何よりも。
魂が、魔力が、喰われていく。
「あ、あ、ああああああ、あああああああああああ」
視界の端で、蒼白な顔で男が起き上がり、こちらへと歩いてくるのが見える。
そこで、意識は途絶えた。
次に気がついたときには、彼は椅子に縛り付けられていた。
古典的な手段だが、魔術師の一番の武器である口を塞がなければ、自由を奪ったとは言えない。
どうやら、屋内にいるらしい。真っ暗で見えないが、木窓の隙間あら、陽の光が薄く射し込んでいる。
「もう、半日は経っているということだな」
一人暮らしの癖で、声に出して呟く。足元のは、毛の長いふかふかとした感触がした。良い絨毯なのかもしれない。
ため息をつき、小さく呪文を唱えようとした。
その時。
「気がつかれましたか?」
聞き覚えのある女性の声とともに、扉が開かれた。
「エレーナ、いたのか」
驚きはなかった。彼の後輩を名乗るアルブレヒトの愛妻。宮廷魔導師エレーナは、ドロテア姫に仕えている。
「そうか。ここは、茨の魔女の屋敷で、茨の魔女ってのは、あの女装魔女のことなんだな」
「女装魔女?!」
明らかに不服げな声がエレーナの後ろからあがった。
森の中で聞いた鈴の振るような女声・・・茨の魔女を名乗る男だろう。
それとともに、笑い声が密やかに響いた。
「確かに、エレーナとアルブレヒトが言う通り、面白い方ね」
会ったことはないが、見たことはあった。
王城のバルコニーで。馬車のパレードで。市井に出回る肖像画で。
ドロテア=タラッサ=アリーセ=アムピトリテ=エンリッヒ
仰々しい名前を持つ肩までの黒髪の女は、この国の第一王女にして、海の国アンピトリテの女公だった。