第6話
感じたのは、奈落だった。
崖から落ち行く感覚。地面もなく、真っ暗闇をひたすら落ちていく、その絶望感。
人間の魔力であれば、限りがあるはずだ。特にハンスは人の魔力を読むことに長けている。相手が普通の魔術師であれば、その真名を一度で読むことすら可能であるほどに。
しかし、この魔力の塊・・・いや、場自体を覆うほどの魔力を読むことも、捕らえることもできない。
どこまでも、果てしのない、そして吐き気がするほどおぞましい闇が、ぬたり、ぬたりと押し寄せる。
聞いたこともないが、この森ではもしかして、人間の力を超えた現象が起こるのか・・・?
彼は疑問を抱いた。
魔力とは、その者の精神世界を通ってこの世界に具現する。
本人そのものなのだ。
人間が、いや、魔物でも同じだが、意思ある者が、こんな圧倒的でおぞましい闇を抱えられるなど、考えられない。
いや、考えたくないのかもしれなかった。
足元に、黒い波が押し寄せる様な非現実感の中、ふと我に返る。
このままでは世界との境界が曖昧になる。
まずい。自分が食われる。
膨大で、おぞましい魔力に侵食される・・・!!
しかし、脚がまるで石になったかの様に動かない。
逃げることも、抵抗することもできない。
ーー冗談じゃない。
死んでたまるか!!
まだ、見ていない論文がある。知らないことがある。何より、こんな謎を目の前にして、人生を終わるなど、冗談ではない。
しかし、体は動かない。
彼が、死の予感に身体中を慄かせた、その時。
確かに何者かの意識を感じた。
もし、この魔力が天災であれば、ありえない、『意思』の揺らぎを。
目の前まで押し寄せていた魔力が、まるで戸惑う様に止まる。
瞬間、目の前が開けた。暗い森の中。魔力の奔流が解け、結界の中身がぼんやりと露わになる。
一筋の光が当たりを淡く照らし。
その中に。一人の女性が見えた。
金の紙と青い瞳。黒いヴェールに黒い服。まるで喪に服しているかのようないでたちのその女は。
その、何の感情も移さないような青い瞳で。
彼を見た。
彼の記憶は、そこで途切れた。
幼い頃は、体が弱かった。
大人になれずに、死ぬのだと、誰もが思っていた。
商売人だった両親に愛されなかったとは思わない。
しかし、彼らは生きていくために家業を盛り立てる必要があり、早々に後継者から脱落した彼ではなく、その健康な弟を後継者として鍛える必要があった。
毎日、一人で、ベッドの上でただ、本を読み、空想をはせる。
自由に行くことのできない部屋の外には何があるのだろう。
きっと一生見る事のないこの世界には何があるのだろう。
ただ、そんなことだけを、一日中考え続けた――
死にたくなかったけど、諦めていた。
ただ、せめて知りたいと思った。
空が青い理由。
風が涼しい理由。
例え、自分だけが、大人になる前に死ななければならないとしても。
ただ、命ある限り、知りたかった・・・。
一人でいると忘れているのに。
何故か、他人がいると、昔を思い出す。
大勢の中で、ただ一人でいる孤独を、思い出すのだろう。
「―――」
耳元で声が聞こえる。うるさい、頭に響く声だ。
「――先生!先生!こいつ、目が覚めたみたいだよ!」
意識が浮上すると共に、胃の腑から吐き気がこみ上げた。それをこらえようと体を曲げると、信じられないほどの激痛が、彼の頭を襲った。
バタバタとけたたましい足音がして、魔女が飛び込んでくる。
「大丈夫?何もない?!」
妙なことを聞く、と思ったのも一瞬である。
声を出そうとした瞬間、体中を正体不明の激痛が襲い、ハンスは再び気を失った。