第3話
こつん、と窓ガラスが音を立てた。
朝早く。日が昇るか昇らないかの時間。ハンスの窓を、何かを包んだ小さな丸い布が規則正しく三度叩いた。
ハンスは、窓を開け、人影に向かって声を張り上げた。
「そんなことしなくても境界線に入った時点でわかってるぞ」
院長代理も、声を張り上げる。
「だって全然来ないじゃない」
「こっちにも準備ってものがあるんだ。少し待てよ」
「普通、支度に時間がかかるのは女の方じゃないの・・・?」
「黙れ魔女。遭難してもいいなら勝手に行け」
彼女の名前は、未だわからない。古き魔女の習慣で名前を他人に教えないのだろう。
それでもどうしても名乗らなければならないときには『ヴェスタ』という偽名を名乗るらしい。
誰にでも偽名と言ってから名乗るのだから、まったく人をバカにしている。
なんとなく悔しいので、ハンスは彼女をヴェスタとは呼ばない。
支度を終え、魔法のランプを掲げて庭に下りる。
まだ薄暗い時間に森に入るのだ。灯りがなければ危険極まりない。
「きゃあ!」
思ったそばから魔女が悲鳴をあげる。木の根に足をとられたらしい。
「気をつけろよ」
彼女は木に抱きつく格好でなんとか体を支えたらしく、こくこくと頷いた。
この時期、森の中ほどに光るキノコが生えるのだ。
その光る胞子は、いわゆる『光る魔道具』の中でも最高級品に使われる。
研究してもよし、売っても高い優れものである。
「そういえば、明日、とうとう隣の屋敷に人が入るようだな」
何気ない風に話を振ると、魔女は、ちらりとこちらを見て、何故か無表情で頷いた。
「大変だわ」
「何がだ?」
西の魔女かもしれない『茨の魔女』に会えることで、すっかり浮かれているハンスとは逆に、魔女は深いため息をついた。
「あなたも知っているだろうけど・・・王室に関係のある方々がお忍びで隣に来るみたいなの。
ものものしい雰囲気に子供達もすっかり萎縮してしまってるのよ。
それにもし、子供達が何か、都合の悪いことを見てしまったら・・・」
魔女は、ため息をついた。
「本当に、迷惑だわ。なるべく関わりたくない」
表情を曇らせる魔女を、ハンスは軽蔑も露わに見下ろした。
この古き魔女は、ただ年齢を重ねていただけではなく、貴重な知識と確かな知性を併せ持っている。
彼の知らない知識が手に入る上に、この数ヶ月で、魔術理論にも多少は物足りないながらついてくることのできる貴重な話し相手になっていた。
しかし、彼女は、その生き方が保守的に過ぎるのだ。
そこがつまらない。
魔術師たるもの、常に新たな『何か』を追い求めるべきであり、決して好奇心を失ってはならない。
だから、家庭とか、守るべきものとか、そういう言い訳で向上心を失うやつは嫌いなのだ。
未知のものは飛び込むべき。
嫌なものには逆らうべき。
ただ傲慢に、知識だけを求め、そのためならば死んでも構わない・・・それこそが魔術師の生きる道だと、ハンスは思っている。
「あれ、何かしら」
ハンスの思考を、魔女が遮った。
目の前にぼんやり見える光の塊の中に。
何かが横たわっていた。