真名と本名
今から思えば、あの魔女が、自分の庭に張り巡らされていた侵入者用の結界に気付かなかったわけがない。
とにかく、自分の意思を通すために、彼に会う必要があったのだろう。隠者が書痴であり、知識を得ることに貪欲であるなどということは、すぐにわかっただろう。
ザームエル・ニヒトヴァイスの手書き論文などという餌を出せば、食いついてくると最初からわかっていて、『謝罪』という名目で、彼を交渉に引き込んだのだ。
そうとしか思えない。
腹はたつが、しかし、そういう駆け引きは、実は嫌いではない。
自分を出し抜けるものなら、鮮やかに出し抜いて見るがよい、と自信家の隠者は常に思っている。
風そよぐ初夏。
魔女から借りた論文を読む、その息抜きに、自分の部屋から窓の外を見る。
そこには、孤児院の子供達が干した、大量の洗濯物が翻っていた。
それは、論文を見せる代わりに、魔女が呈示した交換条件だった。
孤児院は、もとは日当たりのよい立地だったのだが、洗濯場の位置が悪かったため、眠り姫の塔に遮られて、一日中陽が届かなくなってしまったのだという。
自分の屋敷内に人を入れるのは、何があっても、絶対に、嫌で嫌で嫌だったのだが、論文の価値には代えられない。
かなり渋ってみせたが、答えは既に出ているも同然だった。
最初から彼の完敗だった。
金だろうが、財宝だろうが、世の中は、人の欲しがる貴重なものを持っている人間に、有利になっているのだ。
こうして、彼の屋敷の庭の一部は、孤児院の洗濯場として解放されることとなった。
それにしてもまったく、あの塔を隠すためだけに、辺りの自然条件までも『塔がない』という『条件で存在』させてしまうその魔法は、考えられないほどに凄まじく、正直に言えばどのようにやったのか理解できないほどのものである。
その、眠り姫の塔が姿を現して、数ヶ月がたつ。
その後、塔はいまだに観光地のままである。姫が目覚めるのは一年後であると、国から正式に発表があった。
現在は、その姫を目覚めさせる『相手』を選ぶための『選考会』が華々しく行われているのだという。
公開された姫の絵姿――本物かはわからないが――の美しさもさりながら、小さいが貴重な鉱物の採れるこの国との縁を結べ、さらに物語の英雄となれるであろうその地位は、各国の王子や貴族・騎士たちにとっては、とてつもなく魅力的な役割に違いない。
様々な思惑も絡んで、この国のあちこちできな臭い匂いがしていた。
「ん?・・・あれは?」
いつのまにか、窓の下の人数が増えている。
洗濯物を干している子供達の世話役、赤い髪の少女に声をかけているのは、金髪碧眼・姿かたちだけは『夢の王子様(プリンス・チャーミング)』の、良く知った魔術師、アルブレヒトだった。
突如笑い転げる彼を見て、隠者は盛大に顔をしかめる。
急ぎながらも論文は丁寧に机の上に置き、部屋に響き渡るような音で扉を閉めると、足音も荒々しく階下へと降りていった。
「笑うな、アルブレヒト」
笑い上戸の後輩は、ひいぃひぃと言葉にならない音を腹から出しながらうずくまっていた。
「誰、これ?」
異様な笑い方に思わず引いたのか、距離をとって言葉を発するジルを、隠者はじろりと睨んだ。
「お前、目上になんて言葉を使うんだ。『コレはどなたですか?』と言え」
「せんぱぁい、『コレ』呼ばわりはそのままですか?!」
情けない声をあげたアルブレヒトは、しかし、にやりと笑った。
「いやあ、前々から聞いていたけど、あの先輩が、あの先輩が!孤児院を援助しているというのは本当だったんですねえ。
で、噂どおり、『院長代理』はいい女なんですか?」
静かに身をかがめると、隠者は誰にも聞こえないよう、アルブレヒトの耳元で囁いた。
「黙れ、fel-moil」
「はぐあっ!」
耳元で真名を囁かれ、アルブレヒトが地面に倒れて悶絶した。
満足した顔でアルブレヒトから離れ、隠者はさらにトドメの一言を発した。
「他の女に興味を持ったとエレーナに言うぞ」
「やめて、先輩やめて、やめて・・・」
真名を呼ばれたのがこたえたのか、それとも最愛で最恐の妻の名前を出されたからか。
アルブレヒトはうわごとのように呟きながらガタガタと震え続けていた。
「ちょっと、相変わらずやり方が乱暴だよ!」
「お前は相変わらず口の効き方を覚えないな」
ゆらり、と肩を掴み、同じく顔を寄せてくる隠者に、ジルはひぃ、と口の中だけで悲鳴をあげた。
先ほど、アルブレヒトにしたのと同じく、耳元に口を寄せる。
「たまには学習したらどうだ・・・jil-fel
せっかく、由緒正しい、いい真名をもらったというのに」
囁かれた瞬間、ジルは体中に激痛でも走ったかのようにびくりと硬直した。
手に持ったシーツを取り落とすと、そのまま膝をつき、自分の身体を抱えてガタガタと震えだす。
「子供にも容赦ないんすね」
少し立ち直ったらしいアルブレヒトが、青い顔のまま、しかしにやりと笑う。
「ねえ、ハンス先輩」
弾かれたようにジルは顔をあげた。隠者を見るが、特に変わった様子はない。
どうやら、『ハンス』が真名であった、というわけではなさそうだ。
しかし、隠者は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「・・・本名?」
「悪いか?」
いっそ開き直ったように、隠者は吐き捨てる。
悪くはない。悪くはない。よくある名前である。
むしろ、よくあり過ぎる名前である。
村に10人男がいれば、3人はハンスだろう。
日本で言えば「太郎」だの「一郎」だのに近い、没個性的な名前。
それが、「ハンス」であった。
「ああ、あんた、つまりカッコ悪いから自分の名前呼ばせたくな」
「お前ら黙れ!!!」
『歴史に残る大魔術師』に『ハンス』は恥ずかしい。などという自意識過剰な理由から名前を隠していたのだとすぐにわかったジルの、嘲るような笑みに、隠者――ハンスは、顔を真っ赤にして怒鳴った。