農民を全員追い出した男爵様、今さら戻ってこいと言われても遅いです
「どういうことだ!なぜ、食料が足りん!」
グランツ男爵バルドは、拳を机に叩きつけた。
朝食の卓には、卵料理と腸詰めと、焼きたての白パンが並んでいる。バルドは帳簿を叩いた手で、そのままパンを一つつかんだ。腹が立つと、腹が減るのだ。
食堂の隅で、老執事のオズワルドが静かに頭を下げた。
「旦那様が、農民たちに領地から出ていくよう命じられましたので……」
「出ていけと言われたくらいで、本当に出ていく奴があるか!」
バルドは本気で怒っていた。
先代の父が死に、男爵位を継いで三か月になる。最初に手をつけたのが、農民どもの躾だった。新しい領主が馬車で通っても、畑から顔を上げて、ちょっと頭を下げるだけ。父の代に甘やかされて、領主への敬意というものを忘れている。
だから、集めて言ってやったのだ。私に頭を下げられん者は、出ていけ、と。
本当に出ていくとは思わなかった。
ああ言えば、泣いて許しを乞うと思ったのだ。
「平民というのは、なぜこう融通が利かんのだ。言われたことを、言われたとおりにしか受け取れん」
「旦那様は、『二度と戻るな。戻ったら鞭打ちだ』とも仰いました」
「それは言葉の綾だ。平民には、綾も通じんのか」
「綾の部分を、鞭で示されましたので」
バルドは、パンをちぎる手を止めた。
確かに、あの日は鞭を振った。地面をだ。誰にも当てていない。威厳を示すための演出だった。
「……演出の分からん奴らだ」
オズワルドは、何も言わなかった。
「ならば、代わりを雇え。王都で募れば、働き口のない者などいくらでもいるだろう」
「募集の張り紙は、先月から王都に出しております」
「それで?」
「応募は、ございません」
「給金はいくらと書いた」
「旦那様のご指示どおり、『領主に仕える栄誉』とだけ」
バルドは首をひねった。
父の代には、農民は皆、黙って働いていた。給金を払っているところなど、見たことがない。畑で採れたものの一部を、毎年きちんと納めてくる。つまり彼らは、領主に仕える栄誉のために働いていたのだ。
「おかしいな。父上の頃は、それで集まっていたはずだが」
「先代様の頃の農民は、ご自分の畑を耕して、その収穫の一部を納めておりました。土地をお貸ししていたのです」
「同じことだろう」
「いいえ」
「張り紙の字が小さかったのだ。次は、もっと大きく書け」
オズワルドは、少し長く黙ってから、「かしこまりました」と言った。
帳簿によれば、倉の小麦はあと四十日分。春の種まきの最中に人がいなくなったせいで、畑は雑草に覆われはじめている。
「金庫のほうも、底が見えております」
オズワルドが言った。
「今年は、地代を納める者がおりません。昨年の分は、旦那様がお継ぎになってから、白パンと、腸詰めと、ばら園の手入れに」
「領主が黒パンをかじっていたら、民が不安になるだろう」
バルドは帳簿の数字をしばらく眺めて、それからもう一つパンを取った。
「よし。オズワルド、本日の予定を」
「かしこまりました」
オズワルドは、懐から一枚の紙を取り出した。先代の頃から続く、毎朝の決まりである。
「本日のご予定を申し上げます。朝食。続いて、領地のご視察」
「うむ」
「庭園のご散策でございます」
「領主たる者、まずは己の足で土地を知らねばならん」
庭園は、屋敷の南側にある。バルドは毎朝、そこをゆっくり歩く。花の咲き具合を見れば、土地の機嫌が分かる。父の書斎にあった古い詩集に、そう書いてあった。
「昼食。続いて、熟考の時間」
「うむ。昼は、頭を使う時間だ」
「寝台にてお休みいただきます」
「横になったほうが、考えがまとまる」
事実だった。バルドは寝台に横になると、領地の未来について考えはじめる。考えはじめて、気がつくと夕方になっている。それだけ深く考えているのだ。
「午後のお茶。夕食の献立のご決定。夕食。以上でございます」
バルドは、満足げに頷いた。
「うむ。今日も多忙だな」
領主の務めとは、かくも重い。
◇
小麦もない。金もない。ならば、ある所に出させればいい。
援助を求める書状は、バルドが自ら口述した。
「アルトベルク公爵家宛てだ。我が領地への援助を、許可してやる。そう書け」
「……許可、でございますか」
「援助される側が頭を下げてどうする。足元を見られるだろうが」
オズワルドは羽ペンを走らせた。何を書いたのかは、バルドは確かめなかった。
十日後、公爵家から返書が届いた。
『委細承知した。交渉には、娘のリディアを遣わす』
「女を寄越すだと?」
バルドは、返書を卓に放りかけて、手を止めた。
もう一度、読み返した。
公爵本人ではない。家令でもない。娘を、寄越す。
「オズワルド。公爵家の娘というのは、いくつだ」
「二十歳におなりと伺っております。まだ、ご婚約はなさっていないとか」
「美しいのか」
「王都では、大変な評判だそうで。王国一の才女とも」
バルドは、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
なるほど、と思った。
領地の交渉に、年頃の、婚約者のいない娘を、わざわざ一人で寄越す。そんなもの、理由は一つしかない。
縁談の打診だ。
援助を名目に、娘を若い当主に引き合わせる。貴族の家なら、どこでもやっていることだ。公爵も、なかなか話の分かる男らしい。
才女という評判は、どうせ親の欲目だろう。女は、少し優しくしてやれば靡く。自分のような、若く、爵位を持った当主に優しくされれば、なおさらだ。
公爵家の娘を妻にすれば、援助どころではない。あの家の財力が、そっくり後ろ盾になる。
「オズワルド」
「はい」
「客間に、一番いい花を飾っておけ。それから、私の上着に火熨斗を」
◇
リディア・フォン・アルトベルクがやってきたのは、それから三日後の昼前だった。
バルドは、正装で玄関に立った。上着の胸には、父が若い頃に戦で賜った勲章を下げている。父の遺品だが、今の当主は自分なのだから、つけて悪いことはない。
公爵家の紋の入った馬車が止まった。侍女らしい若い女が先に降りた。それから、その侍女の手を借りて、もう一人。
銀の髪が、昼の光をまとって流れた。肌は白く、青い瞳は湖のように澄んでいる。淡い水色のドレスは飾りが少なく、それがかえって、本人の美しさを引き立てていた。
バルドは、息を止めた。
「グランツ男爵閣下でいらっしゃいますね」
声まで、美しかった。
「アルトベルク公爵家のリディアです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。こちらは侍女のミーナ」
膝を折る礼の、角度の美しさ。王都の夜会でも、これほどの礼はなかなか見られまい。
美しい。
……が、所詮は女だ。
バルドは、胸を張った。
「よく来た。遠かっただろう。父上からは、何と言われて来た?」
「領地のことは、わたくしに任せると」
リディアは、穏やかに微笑んだ。
「父は、閣下とわたくしで、直接お話しするのがいちばんだと申しておりました」
バルドは、口元が緩むのを抑えきれなかった。
直接、二人で。やはり、そういうことだ。
◇
応接間の窓からは、男爵家の直営の畑が見えた。蒔きかけたまま放り出された畝のあいだを、雑草が埋めはじめている。
オズワルドが茶を出すと、リディアは一口飲んで、ふと顔を上げた。
「おいしい。このお茶は、どなたが?」
「わたくしでございます」
「茶葉の蒸らし方が、とても丁寧ですわね。うちの厨房にも、こんなふうに淹れられる人がいてくれたらいいのに」
「恐れ入ります」
オズワルドが、珍しく少しだけ口元を緩めた。
バルドは、それを不満げに見た。客が褒めるべきは、茶ではなく当主だ。
「さて、リディア嬢。援助の件だが、こちらで協定書を用意しておいた。難しいことは考えなくていい。署名だけしてくれればいい」
公爵家は男爵家に、当座の小麦を貸し付ける。返済の時期は、男爵が必要と判断したときとする。
昨夜、バルドが口述し、オズワルドが書き取ったものだ。
リディアは紙を受け取ると、最初から最後まで目を通した。
「ひとつだけ、伺ってもいいですか。返済は『男爵が必要と判断したとき』とありますけれど、閣下はいつ頃、必要とご判断なさりそうですか」
バルドは、正直に考えた。正直さは、領主の美徳である。
「返したくなったときだ」
「なりそうですか?」
「ならんな」
「まあ」
リディアは、協定書をミーナに渡した。ミーナはそれを受け取り、黙って書類挟みにしまった。
「署名は、閣下のお話を伺ってからにしますわ」
読んだうえで、すぐには突き返さない。
バルドは、それを好意と受け取った。縁談の相手に、最初から恥をかかせるような真似はしない。よく躾けられた娘だ。
◇
「まず、出ていかれた農民の方々のことを教えてください。どのくらいの人数でしたか」
「数えたことはないな」
バルドは、茶菓子をつまんだ。
「平民を数えるのは、平民の仕事だ」
「三百人あまりでございます」
オズワルドが、壁際から言った。
「三百人あまり」
リディアは頷いた。
「それだけの方を、どういう理由で」
「領主への敬意が足りなかった」
バルドは、きっぱりと言った。
「私が馬車で通っても、畑から顔を上げて、ちょっと頭を下げるだけだ。父の代に甘やかされたのだろう。領主の顔も覚えていない者が、領主の土地を耕している。おかしな話だとは思わんか」
「それで、出ていけと」
「頭を下げられん者は出ていけ、と言った。言ってやれば、泣いて謝ってくると思ったのだ。そうしたら、本当に出ていった」
「頭を下げるより、出ていくほうを選んだのですね」
「平民というのは、そういう判断もできん連中だ」
リディアは、何も言わずに頷いた。
分かる女だ、とバルドは思った。言葉を挟まず、男の話を最後まで聞ける。
「では、呼び戻すおつもりは」
「その必要はない」
バルドは、窓の外を顎で指した。
「土地も家も、ここにしかない連中だ。どこへ行ったところで、食いつめて、いずれ戻ってくる。そのときに、改めて頭を下げさせればいい」
「皆さん、今は隣の領で暮らしておいでです」
リディアは、静かに言った。
「我が家の領地の、川向こうです。空いていた土地をお貸しして、父が当座の食料もお分けしています。先月、わたくしも様子を見てきました。皆さん、もう畑を起こしはじめていましたわ」
バルドは、茶菓子を持ったまま止まった。
「……公爵家が、匿っているのか」
「困っている方をお迎えしただけです」
「ならば、追い返せばいい。公爵家が受け入れをやめれば、行き場がなくなって戻ってくる」
「どうして、我が家がそうしなければいけないのでしょう」
リディアは、不思議そうに尋ねた。
「それだけの働き手が、自分から来てくださったのに」
バルドは、口を開けた。
閉じた。
「……まあ、いい」
バルドは、話を変えた。
「農民などおらんでも、どうということはない。倉には、四十日分の小麦がある」
「秋の刈り入れまでは、まだ五か月ありますわ」
「だから、援助を許可してやったのだ」
バルドは、当然のように言った。
「刈り入れまでは、公爵家の小麦で食いつなぐ。秋になれば、麦が実る。何の問題がある」
「その麦は、どなたが蒔いたのでしょう」
バルドは、少し考えた。
考えるまでもないことだった。
「毎年、秋になると、畑は金色になる。私は子どもの頃から、馬車の窓でそれを見てきた。毎年だ。一度も欠かさずだ」
「どなたが、お育てになって?」
「秋がだ」
ミーナが、手にしていた茶器を、そっと盆に戻した。
リディアは、窓の外の畑に目をやった。
「閣下。あそこに生えているのは、麦ではありません。雑草です。種を蒔いて、草を取る人がいなければ、秋が来ても、あのままですわ」
バルドは、窓の外を見た。
緑色だった。麦も草も、緑色だ。何が違うのか、バルドには分からなかった。
分からないことを、女に言い当てられた。
腹の底が、熱くなった。
「女に、畑の何が分かる」
バルドは、声を低くした。
「いいか、リディア嬢。こういう話は、女が口を挟むことではない。女は難しいことを考えず、男に任せていればよいのだ。君は可愛らしいし、賢いのだろう。だが、それは家の中で使う賢さだ」
「家の中で」
「そうだ。領地のことは、男が決める」
リディアは、少し黙った。
それから、微笑んだ。
「では、閣下がお決めになったことを、まとめて聞かせてください」
バルドは、気を取り直した。
分かればいいのだ。
「要するに、だ」
バルドは、胸を張った。
「誰かが、畑を耕せばよいのだ!実に簡単な話だろう」
リディアは、微笑んでいた。
出迎えたときと同じ、清らかな微笑みだった。
そして、同じやわらかな声で言った。
「だったらお前が畑を耕せよ、このクソ無能」
窓の外で、鳥が鳴いた。
「……今、何と?」
バルドは聞き返した。聞き間違いに決まっている。
「閣下が、お耕しになればいいのでは、と申し上げました」
「あ、ああ。そうか。そう言ったのか」
やはり、聞き間違いだった。バルドは、ほっとして菓子に手を伸ばした。
「『クソ無能』の部分も、ちゃんと聞き取れました?」
菓子が、指から落ちた。
「く……クソ、無能だと!?」
バルドは、立ち上がった。椅子が、後ろに倒れた。
「この私を、誰だと思っている!グランツ男爵だぞ!」
「知ってるよ。農民に逃げられた男爵だろ」
リディアは、座ったまま言った。背筋はまっすぐで、膝の上の手もそろったままだった。声だけが、別人だった。
「逃げられたのではない!私が、追い出したのだ!」
「胸張って言うことか、それ」
「と、とにかく!男爵に向かって、畑を耕せなどと――男爵に、鍬を持てと言うのか!」
「持てよ。この領地で鍬を持てる手は、もうお前とオズワルドさんの分しか残ってねえんだ。残りは全部、お前が追い出したんだろうが」
「領主が畑に出るなど、聞いたこともない!」
「先代様は、毎朝ご自分で畑に出ておられました」
オズワルドが、壁際から言った。
「父上は、変わり者だったのだ!」
「はい。領民には、たいそう慕われた変わり者でございました」
「お父様は変わり者で慕われて、息子はまともなつもりで逃げられた。どっちが変わってんだよ」
バルドは、オズワルドを睨んだ。オズワルドは、睨まれることに慣れた顔をしていた。
「わ、私のせいではない!悪いのは、出ていった農民どもだ!あいつらが勝手に――」
「出ていけって言ったのは誰だ」
「あれは、言葉の綾だ!」
「鞭振り回す綾があるか」
「地面を打っただけだ!誰にも当てていない!あれは、領主の威厳を示す演出だ!」
「へえ、演出か。じゃあ大成功だな。お前の威厳に恐れをなして、農民が一人残らず出ていったぞ」
バルドの顔に、血がのぼった。
ならば、と思った。こちらにも、打つ手はある。公爵家ほどの家なら、評判を何より気にするはずだ。
「……王都に、訴えてやる。アルトベルク公爵家は、困っている隣の領地を見捨てた、とな。社交界で、どう噂されるか見ものだ」
「おう、訴えろ。農民を追い出した理由の欄に、でっかく書けよ。『会釈が浅かったので』って」
「…………」
「よかったな。グランツ男爵の名前が、初めて王都で売れるぞ」
王都中が読む。王都中が笑う。
それくらいのことは、バルドにも分かった。
言い返す言葉を探して、バルドは、いちばん手に馴染んだものをつかんだ。
「お、女のくせに……!」
「じゃあ、男のお前が答えろ。窓の外のあれは、麦か、雑草か」
バルドは、窓の外を見た。
緑色だった。
「……緑だ」
「色は聞いてねえよ」
「む、麦の見分けなど、領主の仕事ではない!」
「じゃあ、領主の仕事って何だよ。言ってみろ」
その問いになら、答えられる。
バルドは、倒れた椅子を起こして、座り直した。ようやく、まともな話になった。
「よかろう。まず、毎朝、領地を視察している」
「庭園でございます」
オズワルドが言った。
「ばら園の周りを、ゆっくりと」
「花の咲き具合を見れば、土地の機嫌が分かるのだ!」
「で、土地の機嫌は」
「……ばらは、よく咲いている」
「ばらで腹がふくれるなら、倉の心配はいらねえな」
バルドは、咳払いをした。
「昼は、熟考の時間だ。領地の未来について、深く考える」
「寝台にてでございます」
「横になったほうが、考えがまとまるのだ!」
「何がまとまった」
「目が覚めると……まとまった気がしている」
「それは寝てるんだよ」
「ゆ、夕方には、翌日の重要事項を決めている!」
「献立でございます」
「食は、領主の務めだ!領内の産物を、朝も昼も晩も、欠かさず味わっている!」
リディアは、指を折って数えた。散歩。食事。昼寝。食事。献立。
「つまり、食って、寝て、ウンコしてるだけじゃねえか!」
「なっ……」
リディアは、すっと背筋を伸ばした。
夜会の広間で、客を紹介するときの声になった。
「皆さま、ご紹介いたしますわ。グランツ男爵領の誇る、ウンコ製造機でございます」
「誰が、ウンコ製造機だ!」
バルドは、卓を叩いた。菓子の皿が跳ねた。
「ああ、悪い。製造機は褒めすぎた」
声は、もう元に戻っていた。
「同じもん出すなら、牛のほうがましだ。あっちは畑の肥やしになる」
ミーナが、口元を押さえて窓のほうを向いた。肩が、細かく震えていた。
「お嬢様」
ミーナは、窓のほうを向いたまま言った。
「言葉が」
「あら、ごめんなさい」
リディアは、ミーナに向かって、本当に申し訳なさそうに言った。
「牛に失礼だったわね」
◇
バルドは、卓に手をついたまま、動けなかった。
何を言っても、返ってくる。それも、自分が言ったことの形をして、返ってくる。
「……何が、望みだ」
声が、自分でも思ったより小さかった。
「農民は、戻ってくる」
リディアは言った。
「……何?」
「ここへ来る途中で、川向こうのガストンさんたちと話をつけてきた。生まれた土地だ、戻りたいってさ。ただし、条件がある」
ミーナが、書類挟みから一枚の紙を出して、卓に置いた。公爵家の紋が入っていた。
「領主が自分で迎えに来て、一人ずつ頭を下げること」
「ふざけるな!領主が平民に、一人ずつだと!?」
「お前だって、一人ずつに下げさせようとしたんだろうが」
「私は領主だ!下げさせる側だ!」
「下げさせようとした結果が、あれだよ」
リディアは、窓の外の畑を顎で指した。
「……小麦は、どうなる」
「うちが貸す。蒔く分も、秋まで食う分も、農民に直接な。返すのも農民だ。秋の収穫で」
「私の分は!」
「貸してやるよ。秋の地代から返せ。ただし、届けるのはガストンさんだ。週に一度。届けるかどうかも、ガストンさんが決める」
「平民に、私の飯を握らせる気か!」
「お前は平民の飯を握って、放り出しただろ」
バルドは、歯を食いしばった。
ひとつ、思いついた。
「……戻ってきたら、また追い出してやる。そうすれば、麦は丸ごと」
「どうぞ。川向こうの畑は、空けといてやる。蒔いた麦は、蒔いた奴のもんだ。追い出されたら、その日のうちに川を渡って、秋に刈りにだけ戻ってくる。空っぽになるのは、お前の倉だけだ」
リディアは、紙の余白を指で叩いた。
「あと一行。ミーナ、ペン」
さらさらと書きつけて、読み上げた。
「『男爵家の直営地は、秋の刈り入れまで、男爵が自分で耕すこと』」
「なぜ私が!」
「お前が言ったんだろ。誰かが耕せばいいって。誰かって、お前だよ」
「耕さなかったら、どうなる」
「直営地は、ガストンさんが小麦を届けに来る道の、すぐ脇だな」
リディアは、それ以上言わなかった。
言われなくても、分かった。
「――断る」
バルドは、胸を張った。
「そんな条件は飲めん。援助などいらん。私は、私のやり方でやる」
「やってみろ」
リディアは、止めもしなかった。
「オズワルド!」
バルドは振り返った。
「王都の商人から、小麦を買いつけろ」
「代金は、どちらから」
「金庫に――」
言いかけて、バルドは黙った。
底が見えている、と聞いたのは、自分だった。
「白パンと、腸詰めと、ばら園の手入れに」
オズワルドが、念のために言い添えた。
「……ならば、人を雇え。王都で募れ」
「張り紙は、字を大きくして出し直しました」
「それで」
「応募は、ございません」
「給金の欄は」
リディアが、横から尋ねた。
「『領主に仕える栄誉』と、大きく」
「字じゃねえよ、問題は」
ミーナが、また窓のほうを向いた。
「ならば――」
バルドの目が、オズワルドの上で止まった。
鍬を持てる手は、自分とオズワルドの分しか残っていない。さっき、この女がそう言った。
「オズワルド。お前が耕せ」
オズワルドは、静かに一歩前へ出た。
「お暇を、いただきたく存じます」
「……何?」
「この腰で、鍬はもう振れません」
「な、ならば、屋敷の仕事だけでよい!給金も上げてやる!」
「どちらから」
バルドは、黙った。
「長らく、お世話になりました」
オズワルドは、穏やかに頭を下げた。
「残りの奉公は、淹れた茶を、おいしいと言っていただける場所でいたしとうございます」
バルドは、口を開けたまま、言葉が出なかった。
この屋敷で、最後に茶の味を口にしたのはいつだったか。思い出せなかった。
「お嬢様。先ほどの、厨房のお話でございますが」
「本気にしてくださるの?」
リディアの声は、バルドに向けるものとは、まるで違っていた。
「うちの厨房は母が仕切っていますから、わたくしにできるのは推薦まで。まずは、ひと月のお試しでよければ。母は、お茶にとてもうるさいですよ」
「望むところでございます」
バルドは、椅子の背をつかんだ。
金はない。人は来ない。執事は出ていく。
いや。
まだ、ひとつある。
「リディア嬢」
バルドは、顔を上げた。
「公爵が、なぜ君をここへ寄越したのか。私には、分かっている。縁談だろう。年頃の、婚約者のいない娘を、わざわざ一人で寄越したのだ。……今なら、受けてやってもいい。君が私の妻になれば、ここは君の家の領地だ。まさか、身内の領地を見捨てはしまい」
「お父様がわたしを寄越したのは、『援助を許可してやる』なんて手紙が、面白すぎたからだ」
リディアは、にっこりと笑った。
「で?わたしがお前に嫁ぐ理由、ひとつでも挙げてみろ」
「私は、若く、爵位を持った当主だ」
「畑は」
「……」
「倉は」
「…………」
「執事は」
オズワルドが、黙って一礼した。
「嫁いだ翌朝から、わたしの仕事は何だ。お前の代わりに、畑を耕すことか」
リディアは、微笑んだまま言った。
「寝言は寝台で言え。熟考の時間とやらにな」
◇
バルドは、椅子に崩れ落ちた。
金はない。人は来ない。執事は出ていく。嫁も来ない。四十日後には、パンもない。
逃げ道は、どこにも残っていなかった。
「……署名する」
ミーナが、紙を差し出した。バルドは、震える手で名前を書いた。
反省などしていなかった。一時の屈辱だ、と自分に言い聞かせた。秋になって、麦が実れば、また頭を上げればいい。
「耕すのも、やってやる。鍬くらい、すぐに使いこなしてみせる。男爵だからな」
「おう。爵位で耕してみろ」
リディアは立ち上がった。
扉の前で振り返ったときには、出迎えのときと同じ、清らかな公爵令嬢の顔に戻っていた。
「それでは、閣下。秋に、麦と雑草の見分けがつくようになっていたら、また伺いますわ」
◇
翌朝。
食堂の卓には、黒パンが一切れと、水が一杯置かれていた。昨夜、バルドが自分で切ったパンだった。端が、ひどく斜めになっていた。
オズワルドは、旅支度を整えて、食堂の隅に立っていた。これが、この屋敷での最後の務めだった。
「本日のご予定を申し上げます。朝食、ご自分で――」
「要点だけ言え」
「日の出から日暮れまで、直営地の畑に。鍬は物置に、先代様のものがございます。午後に一度、川向こうへお詫びに」
「……一人ずつ、だったな」
「左様でございます。夕食の献立は、麦粥。決定済みでございます」
バルドは、黒パンをかじった。硬かった。
◇
バルドは、正装で畑に出た。領主が民の目に触れる場所へ出るのだから、当然だった。
昼までに、手のひらの豆が潰れた。上着の袖が、肘から裂けた。
父の鍬は重かった。柄の、握るところだけが、黒く光っていた。
午後、バルドは川を渡った。
旅支度のオズワルドが、半歩後ろをついてきた。公爵家の屋敷へ向かう途中だから、橋までは同じ道だった。
川べりに、農民たちが並んでいた。端が見えなかった。
バルドは、一人目の前に立って、頭を下げた。領主の品位を損なわない程度に。
二人目。三人目。
腰が痛んだ。手のひらが痛んだ。それでも、頭を下げるたびに、自分に言い聞かせた。
秋までの辛抱だ。秋には、リディア嬢がまた来る。
また伺います、と、あの娘は自分の口で言ったのだ。
日が傾きかけたころ、ようやく列の終わりが見えた。
最後に立っていたのは、日に焼けた、背の曲がった老人だった。
「ガストンでございます」
バルドは、頭を下げた。
これで終わりだ。
「閣下」
「……なんだ」
「今のは、ちょっと頭を下げただけですな」
バルドは、顔を上げた。
どこかで聞いた言葉だった。どこで聞いたのかは、すぐに思い出した。自分の口からだった。
「領主様は、頭の下げ方が浅い者はお嫌いだと伺っております」
ガストンは、穏やかに列の先頭を指さした。
「最初のお方から、やり直していただけますかな」
川べりの長い列が、一斉にこちらを見ていた。
橋のたもとで、オズワルドが深々と一礼し、公爵家の方角へ歩きだした。振り返らなかった。
バルドは、しばらく立ちつくしていた。
それから、背筋を伸ばして、列の先頭へ歩きだした。
「うむ。今日も多忙だな」




