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農民を全員追い出した男爵様、今さら戻ってこいと言われても遅いです

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/24

「どういうことだ!なぜ、食料が足りん!」


 グランツ男爵バルドは、拳を机に叩きつけた。


 朝食の卓には、卵料理と腸詰めと、焼きたての白パンが並んでいる。バルドは帳簿を叩いた手で、そのままパンを一つつかんだ。腹が立つと、腹が減るのだ。


 食堂の隅で、老執事のオズワルドが静かに頭を下げた。


「旦那様が、農民たちに領地から出ていくよう命じられましたので……」

「出ていけと言われたくらいで、本当に出ていく奴があるか!」


 バルドは本気で怒っていた。


 先代の父が死に、男爵位を継いで三か月になる。最初に手をつけたのが、農民どもの躾だった。新しい領主が馬車で通っても、畑から顔を上げて、ちょっと頭を下げるだけ。父の代に甘やかされて、領主への敬意というものを忘れている。

 だから、集めて言ってやったのだ。私に頭を下げられん者は、出ていけ、と。


 本当に出ていくとは思わなかった。

 ああ言えば、泣いて許しを乞うと思ったのだ。


「平民というのは、なぜこう融通が利かんのだ。言われたことを、言われたとおりにしか受け取れん」

「旦那様は、『二度と戻るな。戻ったら鞭打ちだ』とも仰いました」

「それは言葉の綾だ。平民には、綾も通じんのか」

「綾の部分を、鞭で示されましたので」


 バルドは、パンをちぎる手を止めた。

 確かに、あの日は鞭を振った。地面をだ。誰にも当てていない。威厳を示すための演出だった。


「……演出の分からん奴らだ」


 オズワルドは、何も言わなかった。


「ならば、代わりを雇え。王都で募れば、働き口のない者などいくらでもいるだろう」

「募集の張り紙は、先月から王都に出しております」

「それで?」

「応募は、ございません」

「給金はいくらと書いた」

「旦那様のご指示どおり、『領主に仕える栄誉』とだけ」


 バルドは首をひねった。

 父の代には、農民は皆、黙って働いていた。給金を払っているところなど、見たことがない。畑で採れたものの一部を、毎年きちんと納めてくる。つまり彼らは、領主に仕える栄誉のために働いていたのだ。


「おかしいな。父上の頃は、それで集まっていたはずだが」

「先代様の頃の農民は、ご自分の畑を耕して、その収穫の一部を納めておりました。土地をお貸ししていたのです」

「同じことだろう」

「いいえ」

「張り紙の字が小さかったのだ。次は、もっと大きく書け」


 オズワルドは、少し長く黙ってから、「かしこまりました」と言った。


 帳簿によれば、倉の小麦はあと四十日分。春の種まきの最中に人がいなくなったせいで、畑は雑草に覆われはじめている。


「金庫のほうも、底が見えております」


 オズワルドが言った。


「今年は、地代を納める者がおりません。昨年の分は、旦那様がお継ぎになってから、白パンと、腸詰めと、ばら園の手入れに」

「領主が黒パンをかじっていたら、民が不安になるだろう」


 バルドは帳簿の数字をしばらく眺めて、それからもう一つパンを取った。


「よし。オズワルド、本日の予定を」

「かしこまりました」


 オズワルドは、懐から一枚の紙を取り出した。先代の頃から続く、毎朝の決まりである。


「本日のご予定を申し上げます。朝食。続いて、領地のご視察」

「うむ」

「庭園のご散策でございます」

「領主たる者、まずは己の足で土地を知らねばならん」


 庭園は、屋敷の南側にある。バルドは毎朝、そこをゆっくり歩く。花の咲き具合を見れば、土地の機嫌が分かる。父の書斎にあった古い詩集に、そう書いてあった。


「昼食。続いて、熟考の時間」

「うむ。昼は、頭を使う時間だ」

「寝台にてお休みいただきます」

「横になったほうが、考えがまとまる」


 事実だった。バルドは寝台に横になると、領地の未来について考えはじめる。考えはじめて、気がつくと夕方になっている。それだけ深く考えているのだ。


「午後のお茶。夕食の献立のご決定。夕食。以上でございます」


 バルドは、満足げに頷いた。


「うむ。今日も多忙だな」


 領主の務めとは、かくも重い。


    ◇


 小麦もない。金もない。ならば、ある所に出させればいい。


 援助を求める書状は、バルドが自ら口述した。


「アルトベルク公爵家宛てだ。我が領地への援助を、許可してやる。そう書け」

「……許可、でございますか」

「援助される側が頭を下げてどうする。足元を見られるだろうが」


 オズワルドは羽ペンを走らせた。何を書いたのかは、バルドは確かめなかった。


 十日後、公爵家から返書が届いた。


『委細承知した。交渉には、娘のリディアを遣わす』


「女を寄越すだと?」


 バルドは、返書を卓に放りかけて、手を止めた。


 もう一度、読み返した。

 公爵本人ではない。家令でもない。娘を、寄越す。


「オズワルド。公爵家の娘というのは、いくつだ」

「二十歳におなりと伺っております。まだ、ご婚約はなさっていないとか」

「美しいのか」

「王都では、大変な評判だそうで。王国一の才女とも」


 バルドは、ゆっくりと椅子の背にもたれた。


 なるほど、と思った。

 領地の交渉に、年頃の、婚約者のいない娘を、わざわざ一人で寄越す。そんなもの、理由は一つしかない。


 縁談の打診だ。


 援助を名目に、娘を若い当主に引き合わせる。貴族の家なら、どこでもやっていることだ。公爵も、なかなか話の分かる男らしい。

 才女という評判は、どうせ親の欲目だろう。女は、少し優しくしてやれば靡く。自分のような、若く、爵位を持った当主に優しくされれば、なおさらだ。

 公爵家の娘を妻にすれば、援助どころではない。あの家の財力が、そっくり後ろ盾になる。


「オズワルド」

「はい」

「客間に、一番いい花を飾っておけ。それから、私の上着に火熨斗を」


    ◇


 リディア・フォン・アルトベルクがやってきたのは、それから三日後の昼前だった。


 バルドは、正装で玄関に立った。上着の胸には、父が若い頃に戦で賜った勲章を下げている。父の遺品だが、今の当主は自分なのだから、つけて悪いことはない。


 公爵家の紋の入った馬車が止まった。侍女らしい若い女が先に降りた。それから、その侍女の手を借りて、もう一人。


 銀の髪が、昼の光をまとって流れた。肌は白く、青い瞳は湖のように澄んでいる。淡い水色のドレスは飾りが少なく、それがかえって、本人の美しさを引き立てていた。


 バルドは、息を止めた。


「グランツ男爵閣下でいらっしゃいますね」


 声まで、美しかった。


「アルトベルク公爵家のリディアです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。こちらは侍女のミーナ」


 膝を折る礼の、角度の美しさ。王都の夜会でも、これほどの礼はなかなか見られまい。


 美しい。

 ……が、所詮は女だ。


 バルドは、胸を張った。


「よく来た。遠かっただろう。父上からは、何と言われて来た?」

「領地のことは、わたくしに任せると」


 リディアは、穏やかに微笑んだ。


「父は、閣下とわたくしで、直接お話しするのがいちばんだと申しておりました」


 バルドは、口元が緩むのを抑えきれなかった。

 直接、二人で。やはり、そういうことだ。


    ◇


 応接間の窓からは、男爵家の直営の畑が見えた。蒔きかけたまま放り出された畝のあいだを、雑草が埋めはじめている。


 オズワルドが茶を出すと、リディアは一口飲んで、ふと顔を上げた。


「おいしい。このお茶は、どなたが?」

「わたくしでございます」

「茶葉の蒸らし方が、とても丁寧ですわね。うちの厨房にも、こんなふうに淹れられる人がいてくれたらいいのに」

「恐れ入ります」


 オズワルドが、珍しく少しだけ口元を緩めた。

 バルドは、それを不満げに見た。客が褒めるべきは、茶ではなく当主だ。


「さて、リディア嬢。援助の件だが、こちらで協定書を用意しておいた。難しいことは考えなくていい。署名だけしてくれればいい」


 公爵家は男爵家に、当座の小麦を貸し付ける。返済の時期は、男爵が必要と判断したときとする。

 昨夜、バルドが口述し、オズワルドが書き取ったものだ。


 リディアは紙を受け取ると、最初から最後まで目を通した。


「ひとつだけ、伺ってもいいですか。返済は『男爵が必要と判断したとき』とありますけれど、閣下はいつ頃、必要とご判断なさりそうですか」


 バルドは、正直に考えた。正直さは、領主の美徳である。


「返したくなったときだ」

「なりそうですか?」

「ならんな」

「まあ」


 リディアは、協定書をミーナに渡した。ミーナはそれを受け取り、黙って書類挟みにしまった。


「署名は、閣下のお話を伺ってからにしますわ」


 読んだうえで、すぐには突き返さない。

 バルドは、それを好意と受け取った。縁談の相手に、最初から恥をかかせるような真似はしない。よく躾けられた娘だ。


    ◇


「まず、出ていかれた農民の方々のことを教えてください。どのくらいの人数でしたか」

「数えたことはないな」

 バルドは、茶菓子をつまんだ。

「平民を数えるのは、平民の仕事だ」

「三百人あまりでございます」

 オズワルドが、壁際から言った。


「三百人あまり」

 リディアは頷いた。

「それだけの方を、どういう理由で」

「領主への敬意が足りなかった」


 バルドは、きっぱりと言った。


「私が馬車で通っても、畑から顔を上げて、ちょっと頭を下げるだけだ。父の代に甘やかされたのだろう。領主の顔も覚えていない者が、領主の土地を耕している。おかしな話だとは思わんか」

「それで、出ていけと」

「頭を下げられん者は出ていけ、と言った。言ってやれば、泣いて謝ってくると思ったのだ。そうしたら、本当に出ていった」

「頭を下げるより、出ていくほうを選んだのですね」

「平民というのは、そういう判断もできん連中だ」


 リディアは、何も言わずに頷いた。

 分かる女だ、とバルドは思った。言葉を挟まず、男の話を最後まで聞ける。


「では、呼び戻すおつもりは」

「その必要はない」


 バルドは、窓の外を顎で指した。


「土地も家も、ここにしかない連中だ。どこへ行ったところで、食いつめて、いずれ戻ってくる。そのときに、改めて頭を下げさせればいい」

「皆さん、今は隣の領で暮らしておいでです」


 リディアは、静かに言った。


「我が家の領地の、川向こうです。空いていた土地をお貸しして、父が当座の食料もお分けしています。先月、わたくしも様子を見てきました。皆さん、もう畑を起こしはじめていましたわ」


 バルドは、茶菓子を持ったまま止まった。


「……公爵家が、匿っているのか」

「困っている方をお迎えしただけです」

「ならば、追い返せばいい。公爵家が受け入れをやめれば、行き場がなくなって戻ってくる」

「どうして、我が家がそうしなければいけないのでしょう」


 リディアは、不思議そうに尋ねた。


「それだけの働き手が、自分から来てくださったのに」


 バルドは、口を開けた。

 閉じた。


「……まあ、いい」


 バルドは、話を変えた。


「農民などおらんでも、どうということはない。倉には、四十日分の小麦がある」

「秋の刈り入れまでは、まだ五か月ありますわ」

「だから、援助を許可してやったのだ」


 バルドは、当然のように言った。


「刈り入れまでは、公爵家の小麦で食いつなぐ。秋になれば、麦が実る。何の問題がある」

「その麦は、どなたが蒔いたのでしょう」


 バルドは、少し考えた。

 考えるまでもないことだった。


「毎年、秋になると、畑は金色になる。私は子どもの頃から、馬車の窓でそれを見てきた。毎年だ。一度も欠かさずだ」

「どなたが、お育てになって?」

「秋がだ」


 ミーナが、手にしていた茶器を、そっと盆に戻した。


 リディアは、窓の外の畑に目をやった。


「閣下。あそこに生えているのは、麦ではありません。雑草です。種を蒔いて、草を取る人がいなければ、秋が来ても、あのままですわ」


 バルドは、窓の外を見た。

 緑色だった。麦も草も、緑色だ。何が違うのか、バルドには分からなかった。


 分からないことを、女に言い当てられた。

 腹の底が、熱くなった。


「女に、畑の何が分かる」


 バルドは、声を低くした。


「いいか、リディア嬢。こういう話は、女が口を挟むことではない。女は難しいことを考えず、男に任せていればよいのだ。君は可愛らしいし、賢いのだろう。だが、それは家の中で使う賢さだ」

「家の中で」

「そうだ。領地のことは、男が決める」


 リディアは、少し黙った。

 それから、微笑んだ。


「では、閣下がお決めになったことを、まとめて聞かせてください」


 バルドは、気を取り直した。

 分かればいいのだ。


「要するに、だ」


 バルドは、胸を張った。


「誰かが、畑を耕せばよいのだ!実に簡単な話だろう」


 リディアは、微笑んでいた。

 出迎えたときと同じ、清らかな微笑みだった。


 そして、同じやわらかな声で言った。


「だったらお前が畑を耕せよ、このクソ無能」


 窓の外で、鳥が鳴いた。


「……今、何と?」


 バルドは聞き返した。聞き間違いに決まっている。


「閣下が、お耕しになればいいのでは、と申し上げました」

「あ、ああ。そうか。そう言ったのか」


 やはり、聞き間違いだった。バルドは、ほっとして菓子に手を伸ばした。


「『クソ無能』の部分も、ちゃんと聞き取れました?」


 菓子が、指から落ちた。


「く……クソ、無能だと!?」


 バルドは、立ち上がった。椅子が、後ろに倒れた。


「この私を、誰だと思っている!グランツ男爵だぞ!」

「知ってるよ。農民に逃げられた男爵だろ」


 リディアは、座ったまま言った。背筋はまっすぐで、膝の上の手もそろったままだった。声だけが、別人だった。


「逃げられたのではない!私が、追い出したのだ!」

「胸張って言うことか、それ」

「と、とにかく!男爵に向かって、畑を耕せなどと――男爵に、鍬を持てと言うのか!」

「持てよ。この領地で鍬を持てる手は、もうお前とオズワルドさんの分しか残ってねえんだ。残りは全部、お前が追い出したんだろうが」

「領主が畑に出るなど、聞いたこともない!」

「先代様は、毎朝ご自分で畑に出ておられました」


 オズワルドが、壁際から言った。


「父上は、変わり者だったのだ!」

「はい。領民には、たいそう慕われた変わり者でございました」

「お父様は変わり者で慕われて、息子はまともなつもりで逃げられた。どっちが変わってんだよ」


 バルドは、オズワルドを睨んだ。オズワルドは、睨まれることに慣れた顔をしていた。


「わ、私のせいではない!悪いのは、出ていった農民どもだ!あいつらが勝手に――」

「出ていけって言ったのは誰だ」

「あれは、言葉の綾だ!」

「鞭振り回す綾があるか」

「地面を打っただけだ!誰にも当てていない!あれは、領主の威厳を示す演出だ!」

「へえ、演出か。じゃあ大成功だな。お前の威厳に恐れをなして、農民が一人残らず出ていったぞ」


 バルドの顔に、血がのぼった。

 ならば、と思った。こちらにも、打つ手はある。公爵家ほどの家なら、評判を何より気にするはずだ。


「……王都に、訴えてやる。アルトベルク公爵家は、困っている隣の領地を見捨てた、とな。社交界で、どう噂されるか見ものだ」

「おう、訴えろ。農民を追い出した理由の欄に、でっかく書けよ。『会釈が浅かったので』って」

「…………」

「よかったな。グランツ男爵の名前が、初めて王都で売れるぞ」


 王都中が読む。王都中が笑う。

 それくらいのことは、バルドにも分かった。


 言い返す言葉を探して、バルドは、いちばん手に馴染んだものをつかんだ。


「お、女のくせに……!」

「じゃあ、男のお前が答えろ。窓の外のあれは、麦か、雑草か」


 バルドは、窓の外を見た。

 緑色だった。


「……緑だ」

「色は聞いてねえよ」

「む、麦の見分けなど、領主の仕事ではない!」

「じゃあ、領主の仕事って何だよ。言ってみろ」


 その問いになら、答えられる。

 バルドは、倒れた椅子を起こして、座り直した。ようやく、まともな話になった。


「よかろう。まず、毎朝、領地を視察している」

「庭園でございます」


 オズワルドが言った。


「ばら園の周りを、ゆっくりと」

「花の咲き具合を見れば、土地の機嫌が分かるのだ!」

「で、土地の機嫌は」

「……ばらは、よく咲いている」

「ばらで腹がふくれるなら、倉の心配はいらねえな」


 バルドは、咳払いをした。


「昼は、熟考の時間だ。領地の未来について、深く考える」

「寝台にてでございます」

「横になったほうが、考えがまとまるのだ!」

「何がまとまった」

「目が覚めると……まとまった気がしている」

「それは寝てるんだよ」

「ゆ、夕方には、翌日の重要事項を決めている!」

「献立でございます」

「食は、領主の務めだ!領内の産物を、朝も昼も晩も、欠かさず味わっている!」


 リディアは、指を折って数えた。散歩。食事。昼寝。食事。献立。


「つまり、食って、寝て、ウンコしてるだけじゃねえか!」

「なっ……」


 リディアは、すっと背筋を伸ばした。

 夜会の広間で、客を紹介するときの声になった。


「皆さま、ご紹介いたしますわ。グランツ男爵領の誇る、ウンコ製造機でございます」

「誰が、ウンコ製造機だ!」


 バルドは、卓を叩いた。菓子の皿が跳ねた。


「ああ、悪い。製造機は褒めすぎた」


 声は、もう元に戻っていた。


「同じもん出すなら、牛のほうがましだ。あっちは畑の肥やしになる」


 ミーナが、口元を押さえて窓のほうを向いた。肩が、細かく震えていた。


「お嬢様」

 ミーナは、窓のほうを向いたまま言った。

「言葉が」

「あら、ごめんなさい」


 リディアは、ミーナに向かって、本当に申し訳なさそうに言った。


「牛に失礼だったわね」


    ◇


 バルドは、卓に手をついたまま、動けなかった。


 何を言っても、返ってくる。それも、自分が言ったことの形をして、返ってくる。


「……何が、望みだ」


 声が、自分でも思ったより小さかった。


「農民は、戻ってくる」


 リディアは言った。


「……何?」

「ここへ来る途中で、川向こうのガストンさんたちと話をつけてきた。生まれた土地だ、戻りたいってさ。ただし、条件がある」


 ミーナが、書類挟みから一枚の紙を出して、卓に置いた。公爵家の紋が入っていた。


「領主が自分で迎えに来て、一人ずつ頭を下げること」

「ふざけるな!領主が平民に、一人ずつだと!?」

「お前だって、一人ずつに下げさせようとしたんだろうが」

「私は領主だ!下げさせる側だ!」

「下げさせようとした結果が、あれだよ」


 リディアは、窓の外の畑を顎で指した。


「……小麦は、どうなる」

「うちが貸す。蒔く分も、秋まで食う分も、農民に直接な。返すのも農民だ。秋の収穫で」

「私の分は!」

「貸してやるよ。秋の地代から返せ。ただし、届けるのはガストンさんだ。週に一度。届けるかどうかも、ガストンさんが決める」

「平民に、私の飯を握らせる気か!」

「お前は平民の飯を握って、放り出しただろ」


 バルドは、歯を食いしばった。

 ひとつ、思いついた。


「……戻ってきたら、また追い出してやる。そうすれば、麦は丸ごと」

「どうぞ。川向こうの畑は、空けといてやる。蒔いた麦は、蒔いた奴のもんだ。追い出されたら、その日のうちに川を渡って、秋に刈りにだけ戻ってくる。空っぽになるのは、お前の倉だけだ」


 リディアは、紙の余白を指で叩いた。


「あと一行。ミーナ、ペン」


 さらさらと書きつけて、読み上げた。


「『男爵家の直営地は、秋の刈り入れまで、男爵が自分で耕すこと』」

「なぜ私が!」

「お前が言ったんだろ。誰かが耕せばいいって。誰かって、お前だよ」

「耕さなかったら、どうなる」

「直営地は、ガストンさんが小麦を届けに来る道の、すぐ脇だな」


 リディアは、それ以上言わなかった。

 言われなくても、分かった。


「――断る」


 バルドは、胸を張った。


「そんな条件は飲めん。援助などいらん。私は、私のやり方でやる」

「やってみろ」


 リディアは、止めもしなかった。


「オズワルド!」


 バルドは振り返った。


「王都の商人から、小麦を買いつけろ」

「代金は、どちらから」

「金庫に――」


 言いかけて、バルドは黙った。

 底が見えている、と聞いたのは、自分だった。


「白パンと、腸詰めと、ばら園の手入れに」


 オズワルドが、念のために言い添えた。


「……ならば、人を雇え。王都で募れ」

「張り紙は、字を大きくして出し直しました」

「それで」

「応募は、ございません」

「給金の欄は」


 リディアが、横から尋ねた。


「『領主に仕える栄誉』と、大きく」

「字じゃねえよ、問題は」


 ミーナが、また窓のほうを向いた。


「ならば――」


 バルドの目が、オズワルドの上で止まった。

 鍬を持てる手は、自分とオズワルドの分しか残っていない。さっき、この女がそう言った。


「オズワルド。お前が耕せ」


 オズワルドは、静かに一歩前へ出た。


「お暇を、いただきたく存じます」


「……何?」

「この腰で、鍬はもう振れません」

「な、ならば、屋敷の仕事だけでよい!給金も上げてやる!」

「どちらから」


 バルドは、黙った。


「長らく、お世話になりました」


 オズワルドは、穏やかに頭を下げた。


「残りの奉公は、淹れた茶を、おいしいと言っていただける場所でいたしとうございます」


 バルドは、口を開けたまま、言葉が出なかった。

 この屋敷で、最後に茶の味を口にしたのはいつだったか。思い出せなかった。


「お嬢様。先ほどの、厨房のお話でございますが」

「本気にしてくださるの?」


 リディアの声は、バルドに向けるものとは、まるで違っていた。


「うちの厨房は母が仕切っていますから、わたくしにできるのは推薦まで。まずは、ひと月のお試しでよければ。母は、お茶にとてもうるさいですよ」

「望むところでございます」


 バルドは、椅子の背をつかんだ。

 金はない。人は来ない。執事は出ていく。


 いや。

 まだ、ひとつある。


「リディア嬢」


 バルドは、顔を上げた。


「公爵が、なぜ君をここへ寄越したのか。私には、分かっている。縁談だろう。年頃の、婚約者のいない娘を、わざわざ一人で寄越したのだ。……今なら、受けてやってもいい。君が私の妻になれば、ここは君の家の領地だ。まさか、身内の領地を見捨てはしまい」


「お父様がわたしを寄越したのは、『援助を許可してやる』なんて手紙が、面白すぎたからだ」


 リディアは、にっこりと笑った。


「で?わたしがお前に嫁ぐ理由、ひとつでも挙げてみろ」

「私は、若く、爵位を持った当主だ」

「畑は」

「……」

「倉は」

「…………」

「執事は」


 オズワルドが、黙って一礼した。


「嫁いだ翌朝から、わたしの仕事は何だ。お前の代わりに、畑を耕すことか」


 リディアは、微笑んだまま言った。


「寝言は寝台で言え。熟考の時間とやらにな」


    ◇


 バルドは、椅子に崩れ落ちた。


 金はない。人は来ない。執事は出ていく。嫁も来ない。四十日後には、パンもない。

 逃げ道は、どこにも残っていなかった。


「……署名する」


 ミーナが、紙を差し出した。バルドは、震える手で名前を書いた。


 反省などしていなかった。一時の屈辱だ、と自分に言い聞かせた。秋になって、麦が実れば、また頭を上げればいい。


「耕すのも、やってやる。鍬くらい、すぐに使いこなしてみせる。男爵だからな」

「おう。爵位で耕してみろ」


 リディアは立ち上がった。

 扉の前で振り返ったときには、出迎えのときと同じ、清らかな公爵令嬢の顔に戻っていた。


「それでは、閣下。秋に、麦と雑草の見分けがつくようになっていたら、また伺いますわ」


    ◇


 翌朝。


 食堂の卓には、黒パンが一切れと、水が一杯置かれていた。昨夜、バルドが自分で切ったパンだった。端が、ひどく斜めになっていた。


 オズワルドは、旅支度を整えて、食堂の隅に立っていた。これが、この屋敷での最後の務めだった。


「本日のご予定を申し上げます。朝食、ご自分で――」

「要点だけ言え」

「日の出から日暮れまで、直営地の畑に。鍬は物置に、先代様のものがございます。午後に一度、川向こうへお詫びに」

「……一人ずつ、だったな」

「左様でございます。夕食の献立は、麦粥。決定済みでございます」


 バルドは、黒パンをかじった。硬かった。


    ◇


 バルドは、正装で畑に出た。領主が民の目に触れる場所へ出るのだから、当然だった。


 昼までに、手のひらの豆が潰れた。上着の袖が、肘から裂けた。

 父の鍬は重かった。柄の、握るところだけが、黒く光っていた。


 午後、バルドは川を渡った。

 旅支度のオズワルドが、半歩後ろをついてきた。公爵家の屋敷へ向かう途中だから、橋までは同じ道だった。


 川べりに、農民たちが並んでいた。端が見えなかった。


 バルドは、一人目の前に立って、頭を下げた。領主の品位を損なわない程度に。

 二人目。三人目。

 腰が痛んだ。手のひらが痛んだ。それでも、頭を下げるたびに、自分に言い聞かせた。


 秋までの辛抱だ。秋には、リディア嬢がまた来る。

 また伺います、と、あの娘は自分の口で言ったのだ。


 日が傾きかけたころ、ようやく列の終わりが見えた。

 最後に立っていたのは、日に焼けた、背の曲がった老人だった。


「ガストンでございます」


 バルドは、頭を下げた。

 これで終わりだ。


「閣下」

「……なんだ」

「今のは、ちょっと頭を下げただけですな」


 バルドは、顔を上げた。

 どこかで聞いた言葉だった。どこで聞いたのかは、すぐに思い出した。自分の口からだった。


「領主様は、頭の下げ方が浅い者はお嫌いだと伺っております」


 ガストンは、穏やかに列の先頭を指さした。


「最初のお方から、やり直していただけますかな」


 川べりの長い列が、一斉にこちらを見ていた。


 橋のたもとで、オズワルドが深々と一礼し、公爵家の方角へ歩きだした。振り返らなかった。


 バルドは、しばらく立ちつくしていた。

 それから、背筋を伸ばして、列の先頭へ歩きだした。


「うむ。今日も多忙だな」

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