一条姉と裏の裏
新さんが手紙を読んでこちらに来るまでの時間を逆算して、どう考えても間に合わないだろうという時間帯にここを訪れた。けれど新さんは来た。来るはずがない、来れるはずがないという状況でも、来た。
私はそれらを全て踏まえた上で、新さんが間に合ったことに微塵の驚きも抱かなかった。だって昔から新さんは人の期待をいい意味で裏切る天才だったから。私と違って。何の才能も美徳も持ち合わせていない、ただ捻くれて育っただけの私と違って。
新さんはどれほど急いだのかと思うほど、息を上げていた。肩で息をしながら、額には僅かに汗を滲ませ、心なしか目も潤んでいる。
長ったらしい綺麗なだけでまとわりつくだけのそんな服で走ってきたのかというほどの息の上げようだけど、そんな姿も一枚の絵画として描けるほどに美しい。物語で言えば、絶対に無理だという状況でそれでもやり遂げた主人公のここぞという見せ場だろう。
そんな彼を前にして僅かな苦笑を浮かべつつ、私は息を整えてその場に立つ彼に近づいた。いつの間にか逆転していた、私と彼の高低差。間近で見ると、それが顕著に解る。真摯で善良で曇りのないその瞳を覗き込み、私は彼に微笑みかけて言った。
「脅迫状、読んだ?」
「読んだ」
息を整えながらも、彼は答える。
ほんの少しだけ辛そうなのは、それほど疲れたからだろうか。それともそれ以外の、理由があったりするのだろうか。それが何か気づいていながらも、私は残酷な問いを再び彼に投げかける。
「……本気にした?」
「するわけがない」
合言葉のような問答を交わす私達。答えながら、新さんは寂しげに微笑んでいる。その顔を見て、新さんがあの手紙を読みどう受け止めたのかを私は知る。そしてそれを知った私の中では些かの罪悪感と優越感という相反する感情が、拮抗するようにせめぎあっていた。
ああ、でも新さん、大丈夫。そんな顔は今日で終わりだよ。少なくとも、私の前では。
そうして彼が間違いなく手紙を読んでいたという確信を得た私は再び、新さんの早すぎる登場に目を剥いているその人の方へと振り返った。
「ソロンさん。貴方の負けです。新さんは間に合ってしまった。もう貴方の望みは叶わない」
言うと、我を取り戻したソロンさんは、先ほどとは打って変わって動揺しきった眼差しを私に、いや私の後ろにいる弟に向けた。それはまるで縋るような眼差しにも、見えた。
「――閣下。私は……」
「いや。姉さんの言うとおりだ。俺の勝ちです、ソロンさん。申し訳ありません」
ソロンさんにそれ以上何も言わせまいと遮った新さんは、その場で深々と頭を下げた。それは彼なりの、ソロンさんへの答えであることを物語り、それを目の当たりにしたソロンさんの瞳には深い落胆の色が滲んでいた。
きっと、ソロンさんはこうなることなど最初から解っていたに違いない。解っていたからこそ、こんな事をしでかすに及んでしまった。どうにもできない事実から、なんとか目を逸らしたくて。
私はほんの少しだけ、そんなソロンさんの思いが解るような気がしていた。全てではない。けれど、私はそれと酷似した思いを随分前から抱いていたから、ほんの僅かだけ同情心が灯る。
しょうがない。内心ため息をつきつつ、未だ手の内にある宝玉を握った。これを使うにはもう暫しの時間が必要らしい。もう少しだけこの茶番にお付き合いください、読者の皆様。そして自分でも何がなんだか解っていない作者よ、とくと聞きたまえ。
さあ、最後のツメ。種明かしの時間だ。
「ソロンさん」
呼ぶと、彼は先ほどの気概などどこにも見られない気の抜けた表情で、のろのろと私の方を向いた。まだ何か、と目が言っている。可哀相な人だ。それほど新さんがこの人に、この国の人達に必要とされているのだと、今更ながらも実感する。
それでも、私はまだやめない。止められない。後ろの新さんにも目を向けつつ、コホンと咳払いを一つ、大きく息を吸い込んだ。さて。
「ソロンさん。……新さんも聞いて。まだ、私の話は終わっていません。ソロンさんにいくつか質問します。答えて頂けますよね?」
「……はい」
怪訝な表情を浮かべながらも、ソロンさんは頷いてくれる。後ろの新さんから返事はないけれど、私には解りきっていたことなのであえて返事は待たない。とりあえず、先へ進めよう。
「私を拉致するという計画。貴方が考え、指示していたんですよね?」
「ええ。たまたま最近暴動の起きた町の町長に掛け合い、私直々に指示を出しました」
うん。やっぱり。一つ確信を得て、同時にアブラアムさん達にした自分の質問を思い出す。
『貴方方に指示を出した信頼あるお方は、この町ないしこの市においてそれなりの地位にいる人ですね』
彼らはきちんと答えてはくれなかったけれど、その代わり解り安すぎる態度が言葉の代わりに雄弁と物語っていた。よし、これで一つ。
「計画の大筋もあなたが立てたと? たとえば、その拉致の名目や、あるいは実行する日時など」
「はい。そのどちらも私が決めました。ただそれにおける計画等は彼らに一任しました。私が協力したことなど貴女の部屋の位置と、宮廷へ侵入する手引きだけです」
ソロンさんの言葉に、私も頷く。そうでなければ辻褄が合わない。神殿で私が拉致されたことを隠しておくなんて、よほど痕跡のない場合でなければ誰かが疑問に思うはずだ。神殿の人達は何の疑いもなく私達に声をかけた。
つまりは、そういうこと。仮にも警備があるのに易々と進入して私を拉致してくるなんて、素人同然のあの人達にできることじゃない。第三者の誰かが手引きをしたに違いない。その辺りでほぼ黒幕はソロンさんだろうと確信できた。
そしてソロンさんがそんな人達を動かしたのは、自分の直下にいる人間やその筋の人間だと簡単に足がつくと思ったからだろう。だったら私がソロンさんでも、解りやすくレジスタンス関係者を利用していただろう。そしてその通り彼らは利用されたと。
あ、なんかむくむくとまた苛立ちが湧いてきた。これは自分がいじめている子に別のいじめっ子がちょっかい出したときと同じ心境だな。あの人達で遊んでいいのは私だけー。
思わずじと目でソロンさんを見ていたらしく、びびっと引かれる。ふーんだ。あなたには興味ありませんよ、全く。おっと、そんなことより続き続き。
「では、まあもう一つの質問はおいおい聞くとして、次。私が拉致されたことを隠していた理由は?」
「それは……」
「俺がそう指示した。これは俺の個人的な問題だと判断したからだ」
初めて新さんが口を挟む。ふーん、と口元に笑みを湛えつつも、まあいいやと流した。メインディッシュはまだまだ先。
「じゃあ次。ソロンさんの当初の計画では、新さんの気を拉致首謀者の方に向けつつ、恐らくはソロンさんの部下に私をここへと連れてこさせてこの玉ごと強制送還させる。そういう手はずだったんですよねえ?」
「……仰るとおりです」
うん。素直でよろしい。着実に組みあがってきたパズルの絵が見え始めてくる。さて、そこにはどんな絵が描かれているのかな。
「よし、じゃあ大詰めといきましょう。ソロンさんのその計画の破綻についてお話しましょうかね」
言った途端、空気ががらりと変わったような気がした。怪訝な表情を浮かべるソロンさん。後ろにいる新さん――は、見なくても解る。
そして私はこれでもかというほど愉快痛快の笑顔。筋書き通りにいったと喜ぶのはまだまだ早いよ。
「まずね、拉致のタイミング。そこがソロンさんの考えていたものと違っていたんじゃありません?」
ちら、と見るとソロンさんは不思議そうな顔をしながらも頷いた。なんでそんなことが解る、と言いたそうだ。これもわからいでか。
あのね、あんなに穴がありすぎる計画もないよ。思わず被害者が協力を申し出ちゃったじゃない。楽しかったからいいんだけど。まあそれも、想定内のハプニング。そうでしょう。ねえ?
「そこから計画は貴方の想像からどんどん外れていくことになる。ま、その辺の修正は私がしていきましたけど」
それこそソロンさんの想定外だろう。まさか私が犯人に協力するなんて思わなかったはずだ。神殿で顔を合わせたとき内心この人が私の不可解な行動にどぎまぎしていながらも努めて冷静を装っていたんじゃなかろうかと想像すると、不覚ながらも萌えてくる。ああ気分がいい。
さて、今度は新さん。君ね。
振り返ると、思ったとおりに冷静な表情をしていた。その我関せずって顔、お姉さん的には可愛くないと思うよ。
「新さんはその間、犯人の痕跡を追っていた。で間違いない?」
「ああ」
うん。予想通りの模範解答。わざとやってるな。本当に可愛くない弟だ。ちっと舌打ちを仕掛けつつも我慢して、今度はまたソロンさん。よーしいよいよメインディッシュまであと一歩。よだれが出そうよお姉さん。
「じゃあもうタネ明かしのお時間と行きましょう、ソロンさん」
「貴方は先ほどから何を仰いたいのですか? 私はもう……」
「ええ。でもまだ残ってますから。あともう一歩ですよ」
私の言わんとしている事がさっぱり読めない。ソロンさんの顔はそう言っている。いい加減きっと読者の方もこののらりくらりの展開に飽き飽きしていることだろう。作者も右に同じ。
さあ皆様いよいよメインディッシュです。当店のシェフが腕によりをかけた一品ですので、どうぞとくとご賞味くださいませ。ねえ、新さん?
「私を拉致させたのはソロンさん、貴方です。でもね、その貴方をけしかけたのも、その計画をいいように操っていたのも、他の誰でもない貴方の主、その人ですよ」
振り向く。言われた本人は顔色も変えず、かといって言い訳もせず、ただじっと私を見下ろしている。
――まるであの時と一緒だね、新さん。初めて会ったあの時、新さんはどんな気持ちで私を見ていたの? その気持ちは今と変わってはいない? 新さん、あのね。私はね、変わってしまった。もうあの時の私じゃ、ないんだよ。
精一杯手を伸ばして、掲げた。そうして何の悪意もないその静かな眼差しを受けながら、私は――――新さんの頬を思いっきり、ぶった。
「いい加減にしろよバカ新。人の悩みに付け込んで自分の思い通りに動かして、うまくいって勝って。満足だった? 面白かった? 傲慢にもほどがあるよ。もう一度きちんとソロンさんに謝りな!」
精一杯の力をこめて、初めて人に手を上げた。しかもそれが、自分の弟。今までこんなふうに叱られたことなどないだろう、完璧に善良な、私の弟。
けれど私にぶたれて顔を背けたままの新さんの口元に僅かな笑みが浮かんでいるのを、私は悲しい思いになりながらも、じっと見つめ続けた。