一条姉と宝玉
脅迫状。それは私から新さんへ向けた、らぶれたあ。つまり私から新さんへ、思いの丈を綴った告白の手紙。
それを読んで新さんがどんな顔をするのか、私はそれを見れなくてほんのちょっぴり残念だったりする。けれど大丈夫。きっと彼は、私の想像の中にいる新さんと同じ顔をしてその手紙を読んでいるはずだ。それは私の願いであり期待であり、これまで幾度となく新さんが私に向けてきた顔でもあるのだ。
でも、もうそれも見納めかもしれないよ、新さん。もう、私は新さんのそんな顔、見ないつもりだから。多分もう二度と私の前でそんな顔はさせないから。
だから新さん。早く、舞台に、上がってください。お姉さんからの、最後のお願いなのです。
今、用意された舞台には狐一匹と狸一匹、それからゴリラが一匹いる。私は戸惑うゴリラを押しのけて、狐相手に狸よろしくにたにたと意地の悪い笑みを向けた。
「そんな笑顔浮かべちゃってマア。主を出し抜くのはそれほど痛快でしたかソロンさん」
私がここにいることに少しも驚いた様子の無いその人は、ふんと一蹴するようにため息を漏らした。
「心外な。あまり人聞きの悪いことを仰いますな、姉君様」
「私はあなたの姉ではありません。その呼び方は不快極まりないので止めていただけますか神官様?」
こんないじりがいの無い弟誰が持つかってんだ。あ、アブラアムさんは俺の嫁。
「ではなんとお呼びすれば?」
「……一条」
「おい」と後ろでアブラアムさんが小声で声をかけてきたけれど、目線で諭した。
別にいいの。この人の主記憶装置には既に新さんの情報でいっぱいいっぱいなんだろうから。仮情報としてどうせ後々消去される運命なら、知られないほうがまだマシ。
自嘲の笑みを浮かべると、ソロンさんの眉が不快に潜まる。
「なにか可笑しいことでも?」
「いいえ、別に。失礼をば」
慇懃無礼に深々と頭を下げると、ソロンさんの表情は引きつっていた。あーららこらら。人をおちょくるのも大概にしないと夜道歩けなくなるぜお嬢さん。うん、そうだね、次から気をつける。
そんな会話を目だけでアブラアムさんと交わしつつ、私はコホンと一つ咳払いした。狭くて埃っぽくて男臭い部屋の湿った空気とは違う、神殿の清浄な空気を心行くまで吸い込んだ。
「では。早々に本題に移りましょうか、ソロンさん?」
「はい。イチジョウ様」
お互いに確認を取って頷きあうと、後ろでつんつん服を引っ張ってくるごついのが一人。ああもうなんだよ可愛いなあ。いや間違えた、うるさいなあ、だ。
振り向くと、この場の雰囲気に飲まれてすっかり混乱しちゃっているおどおどしたアブラアムさんの瞳とかっちり目が合う。ちょいちょい手招きして頭をかがませ、とりあえずその触り心地の悪い剛毛を撫でた。我慢できなかったの、もう。
撫でながら、ソロンさんの方に向き直った。
「この人、もう行っていいんですよね? ソロンさん」
「ええ。彼はもう用済みです」
「だって。帰っていいですって。短い間ですがお世話になりましたね、アブラアムさん。お元気で」
いきなり頭を撫でられるわ用済み宣言されるわで目を白黒させるアブラアムさんの背中をぐいぐい押して、なんとか行ってもらう。なんだか妙に名残惜しそうにこっちを振り返っていたけど、しっしと手で追い払ってやった。
これから起こることにアブラアムさんが巻き込まれたら、さしもの私も手に負えないだろう。早々に退場してもらうに限る。彼の役目は私を新さんから引き離し、ソロンさんの前に連れてくること。ただそれだけなのだから。
あっけない別れに私も後ろ髪を引かれなかったといえば嘘になる。だけど、まあ、これが今生の別れってことにはならないだろうし。多分。
「さて」
振り返り、極めて冷静な表情をした人と対峙する。どうでもいいけど新さんがいるといないとじゃ大違いだなこの人。新さんがフラグ折ってたのって、まさかのびーえるが背後にあったからなんじゃないでしょうね。ていうかむしろこの人が叩き折って廻っていたとかいうオチなんじゃあないでしょうね。
まあ、別にいいけど。新さんがどんな趣味を持ってようとお姉さんは反対しないよ。そんなことよりも重要なことがある。そうだよね。今大急ぎでここに向かっているであろう弟に問いかけてみる。もちろん返事は、ない。
私とソロンさん。今は舞台に二人きり。さて、物語はいよいよクライマックスだ。読者の方、作者のお前、用意はいいでしょうか。いきますよ、もう。さあ、最終章の幕開け。
「ソロンさん。貴方も困ったお人ですねえ」
ありがちな台詞を吐くと、彼も乗ったように冷ややかな笑みを返してくれた。そうそう。お膳立ては大事。来る主役のためにね。
「私、忠告しましたよねえ。新さんに残ってほしいなら」
「彼以上の信念と意思を以ってして彼本人に直接打診すること、ですね」
遮られた。無作法に無作法返しとはなかなかやりおる、この狐。
主導権をもぎ取ったことへの優越感か、ソロンさんは最初のような穏やかな笑顔を取り戻して、一歩私に近づいた。
「心得ておりますよ、ええ。もちろんですとも。ですからこれが私なりの、真摯な打診なのです。――あの方への」
ふうん。へえ。随分愛されてるじゃない、新さん。ちょっと気持ち悪いくらい。ソロンさん、この人ヤンデレ属性なんじゃないの。そんな匂いが笑顔からぷんっぷん香ってくるわ。
そして解った。私はこの人と絶対相性悪い。ああよかった。嬉しい確信だわ。同時に新さんに同情。この人結構しつこいよ、きっと。
「……アブラアムさん達をけしかけるための餌はなんだったの。お金? 権力?」
「そのような無粋なことは致しません」
ゆるゆると、首を振る。しとやかに流れる黒髪が一緒に揺れて、ソロンさんの白衣を彩る。清浄、というのは時に、寒々しい印象を与える、と思う。この人を見ている特に。まあ、私も大差ないか。この人と違って、清浄ではないけれど。
いやな共通点を覚えている私の心情などいざ知らず、ソロンさんはまた一歩、私に近づいた。
「私はただ、お願いしただけです。彼らを統べる者に『うまくやれば捕えてあるレジスタンス関係者を悪いようにはしない』と告げて」
「……へえー。そう。うん、まあ、妥当なところですね」
つまり、彼らの上にいる人。市長か町長かを、『捕えられた町民を救いたければ言うことを聞け』と脅したわけだ。それで彼らは仲間を助けるためにその誘いに乗ったと。マア単純で解りやすいこと。
しかし全く、呆れるほど甘い理由だ。私にも甘かったけれど、理由もこんなに甘ったるいとは思わなかった。あの人達の目的ってつまり、仲間を助けたかったってことか。そんなことのために危険を冒したのか。
甘いな。本当に、甘ったるい理由。馬鹿すぎて、愛しく思えてくるくらい。可愛い弟達の顔を思い出すと、自然と笑みが零れてくる。久しく忘れていた癒しだったなあ、あの人達。見た目はぜんぜん可愛くなかったけど。
でもね、私思うんだ。馬鹿な人達って利用しやすいからついつい摘んじゃいたくなるのは解るんだけど、それってつまり、やりようによるってこと。
ほんの僅かな不快感に従って、私は笑みを打ち消した。きっと私は、多分今、ソロンさんと同じくらい冷え切った眼差しを、彼本人に向けているだろう。
「――そんなのはね、新さんの仕事ですよ。解ってるでしょう。……解って、いたんでしょう」
自分でも思いのほか凄みの利いた声が出てくる。ソロンさんは少しだけ怯んだように眉を顰めたけど、すぐに思い直したように陶然と微笑んでみせた。
「ええ。しかし彼らは知りませんから。あのお方がどれだけ素晴らしいお方なのかということを」
新さんなら、そんな取引しない。必要としない。
じわじわと湧き上がる不快感と一緒に、そう思った。当たり前だ。不本意ながらも、新さんはソロンさんの言う通りの人物だから。
深呼吸をして、気を落ち着かせる。こんなことで気を荒立てるのが私の役割なんじゃない。アブラアムさん達はそれでも自分で望んで動いていたことじゃないか。私がこれ以上気に止めることじゃない。
ただ、でも、と思う。こんなことのためだけに、可愛い彼らが利用されたのかと思うと心苦しく、同時に、その出会いを嬉しく思った。脅されたのが彼らでよかった、なんて失礼にも程があるけど。
私がここに立つために彼らでなければならない理由はなかったけれど、それでもこの偶然は私にとって何よりの思い出になった。全く、いい体験をさせてくれたものだ。それだけはソロンさんに感謝したい。
つい微笑を浮かべてソロンさんを見ていたらしく、怪訝な目を返される。おっとと。今はシリアス展開の時間ですよー、お姉さん。はーい。
「それで彼らをけしかけ新さんを呼び出している間に私をここに運び出し、そして――」
「貴女だけを元の世界へ強制送還する」
ご名答。この場合、私かな。
もう一歩踏み出してきたソロンさんは既に私の目の前にいて、酷薄な眼差しで私を見下ろしながら何かを差し出してきた。見ると、その手に納まっているのは野球ボールほどの水晶玉だった。それに恐らくはこの世界のものだろうと思われる文字がぎっしりと刻み込まれている。
手を出すと、それはソロンさんの手から転がり落ち私の手の内に納まった。ずっしりと重く、そして今までソロンさんが持っていたにもかかわらず何の温度も感じない、冷たい感触がした。
「これはあちらからこちらの世界へ彼の方をお呼びするのに使用していた宝玉です」
宝玉。つまり、異世界召還に使っていた道具ということ、かな。ありがちな便利アイテム。もしくは、縛りアイテム。それがどちらの方であるかを、ソロンさんは教えてくれた。
「文字が刻まれているでしょう。それはあちらの世界への照準を記したものです。古の知恵より授かった恩恵の賜物ですので、今の我々には二つと同じものはつくれないでしょう。これ無しでは彼の世界へ通じる手段自体が失われてしまいます。つまり――」
「これがなければあちらの世界に通じなくなる。そして私がこれを持ったまま元の世界に帰れば、新さんは二度と帰ることができなくなり、そしてこの世界――この国に留まることになる」
「……ええ。仰る通りです」
やっぱりそうか。予想通り過ぎて笑えもしない。
テンプレート通りの彼のこの行動はきっと、新さんの物語に取り込まれているからだろう。知らず知らずのうちに巻き込まれているのはこの人のほうだ。そして他の人同様にそれに気づくことはなく、例え指摘したところで喜びこそすれ嘆くことなどないだろう。まるで新さんを神と崇めて妄信しているように。
やっぱり、私の算段は正しい方向へ進んでいる。これが例え誰の手の内で廻っていたとしても、私はそれに逆らわずに手に入れることができるだろう。私の望んだ、本当の世界を。だから私は、笑ってその宝玉を握り締めた。ソロンさんもそれを見て、満足したように微笑む。
うん。貴方の役割も、もうすぐ終わる。そして私の役割も、もうすぐ――。
「姉さん」
そらきた。
予想通りといえばドンピシャ過ぎる主役の登場に、思わず苦笑が漏れる。私はゆっくりと振り返り、肩で息をする弟を目に写した。
「早すぎるよ、新さん」
「……期待通りだろう。姉さん」
ああ、そう。まっことその通り。天晴れ新さん。でもね、やっぱり早すぎる。絶対来るとは思ったけど、やっぱり君はチートだね、新さん。期待を裏切らなすぎて、可愛くない弟だ。本当に。