一条狸と狐
私は新さんに出会う前の自分がどんな人間だったかを覚えていない。どんな性格で、どんな思考で行動し、どんなことを感じていたのか、それさえも覚えていない。というより、上書きされてしまった、と言うほうが正しいだろうか。
新さんに出会ってからは、まるで上書き保存されてしまったときのようにすっぱりと、それまでの私というもの全てが失われた。それからも確かに私という存在はそこに居たが、しかしそこには私の望む私という概念は、綺麗さっぱり失われてしまっていたのである。
ここはどーこだ。答えは、し~ん~で~ん~(狸型ロボット風に)。はい正解、神殿ですね。どこの神殿かというとギリシャでもパルテノンでもなくアルノン神殿とやらなのですよ。
どこよ。
つっこんだ方、そこまで気にしなくてよろしい。どっかの国のどっかの王宮にあるどっかの神殿くらいの認識で結構。イメージはググってください。正しそこは異世界でしたと。中途半端な設定補完などもう結構。飽きた。適当で良いです。どうせ数年後には主記憶装置にすら残っていない情報なんだから。
等と往生際の悪い作者のために潔く纏めつつ、なんちゃって抜き足差し足忍び足。なんだかこれって、とってもデジャヴぅ。わくわくしながら無駄に長い神殿の壁を伝うように歩く私、と普通に歩くノリの悪い拉致監禁首謀者の刃の君ことアブラアムさん。
その他の方々もやっぱりついていきたい! と尻尾を振ってはいたが、隠密行動に複数人数は不要。もとより、この計画の上では多人数は鬼門なので、却下。皆さんにはあとでとくとアブラアムさんの誇張交じりの武勇伝を話してもらうことで我慢して頂こう。それが叶うならの話だけど。
まあ、計画といっても単純なもの。単純だけど、単純なほうが都合がいい。余計な画策を練って拗れるのはこちらのほうだ。だったら、愚直なまでにまっすぐ行こう。恐らくはそれが、新さんにとっての鬼門なのだから。
今頃はもぬけの殻であろう場所にいると思われる我が弟を思い浮かべつつ、ふふんと私は一人ほくそ笑んでいた。
「しっかし、お前も変わった奴だよな」
アブラアムさんがわたしの前を歩きながら呆れたように呟いた。こういう態度をとられるのはこの世界では二度目だ。お前本当に姉貴かよ、と眼が言っている。
ここのところ私の態度にぼろが出ているから、こんな風に見られてしまう。まあそれも解っていてやっていること。どうせそのうち終わりを迎える世界で私が取り繕うものなど、もう殆ど残されてはいない。
「あんたに相当の恨み買ってんだな、アタラは」
ちょっと。百歩譲って恨み云々はともかく、なんで同情的なの。同情する相手が違うでしょう。
無言でアブラアムさんのかかとを狙って踏みつけると、アブラアムさんは抗議の目を私にちょっとだけ向けつつ脱げかけた靴を履きなおす。ふーんだ。
「そういう貴方方は彼になんの恨みも無いのに大変ですね」
言うと、吃驚したように振り返ってくる。解らないとでも思っていたんだろうか。彼らの態度を見れば一目瞭然だった。それが私の確信を裏付ける材料の一つになったと言ってもいい。
私は自分でも珍しいと思いながらも、自然とこみ上げてくる作り物ではない笑みをアブラアムさんに向けて言った。
「貴方方の望みが、行く末が、よりよいものとなるように祈っていますよ」
それ以後は口を閉じてただ先に進むことだけに専念した。アブラアムさんが何か言いたそうにしていたけれど、私はそれを持ち前のスルースキルで見事にスルーしきってみせたのだった。
作戦会議は私を中心に行われた。私はこれを『マッスル・ハーレム~夏の陣~』とでも命名しておこうと思う。無論、私の心の中で、だけど。
「恐らく彼は、私達の行動など既に読んでいることでしょう。移動してもらってなんですが、この場所がばれるのも時間の問題です」
「じゃあどうするんだ。そうホイホイと都合のいい場所は提供できないぞ」
何故だか憮然と言い切るアブラアムさんに、私は人差し指でちっちっちと例のあれをやってみせた。やってみたかったんだコレ。
「もう場所は必要ありません。皆さんにはここで解散していただきますので」
ええっと声が上がる。一番情けない声を上げたのはアブラアムさんだ。なんでこうこの人は期待通りのリアクションをストライクでくれるんだろう。個人的にペットにしたいくらいだ。そうしたらきっとうんと可愛がってあげるのに。
じっと見つめると、不穏なものを察知したのかすごく嫌そうに「なんだよ」とのけぞる。全く見かけによらず情けない弟でけしからん。可愛いんだからもう。
「ここに留まる理由が無いからですよ。彼にはもう目をつけられているんです。こんなところで私たちを待って一網打尽なんて目に、合いたくはないでしょう?」
あの場にいなければと、幾つかの場所にも目星をつけているだろう新さんは、多分、もうここにも手を回している。けれどそれは別に彼らに教えなくてもいいだろう。新さんはただ手配はしても、きっと自分の足でここを訪れるまでは誰にも手を出させないはず。あの場所に残った私の痕跡を見れば尚更のこと。
だから私は新さんの手の内で廻る振りをして、好きにさせてもらう。新さんは私の心を読む。私は私の心を読む新さんの心を読む。その先に待っているのは、とるかとられるかの駆け引きだ。どこまで読んでいるか、じゃない。どちらが先に動き出すか、だ。
「それじゃあお前達はどうするつもりなんだ。まさか本当に何の計画もなしに実行するとか言うんじゃないだろうな」
「いいええ。まさか、そんな。けれど、まあ似たようなものでしょうかね。その他の皆さんはそれぞれ解散して、私とアブラアムさんは、神殿に向かいます」
「はあ?」
アブラアムさん、声大きい。そんなに可愛いといい加減調教しますよ。いいんですかこれ以上私好みになっても。
ちろりと一瞥すると、本能で何かを感じたのか一瞬引きつつもアブラアムさん、果敢に憤慨とばかりの表情で食って掛かる。
「お前なあ、それじゃあ本末転倒だろうが。捕まえてもらいに行くようなものだろ」
主に俺が、と付け足す。そこが大事なんですね、アブラアムさん。むしろそこしか目に入ってませんね、アブラアムさん。そんなアブラアムさんも萌え。
「いいんですよ。逃げ回るよりも本拠地にいっそ乗り込んでしまえば交渉も楽に済みます。それに私達がここに移ったことを確認した彼が私たちの在非をまた確認するには時間がかかります。ここを選んだのは時間稼ぎの意味もあるんですよ。私達が解散して散り散りになったところで、睨み合いの軍とレジスタンスの皆さんは勝手に攻防してくれますのでね」
淡々と言う私に、皆何か言いたげな表情で視線を彷徨わせる。
まあ、つまりは、私が言っているのは彼らを囮にして私達は行方をくらましましょう、と言っているわけで。ただ、私も何も考えずに彼らを利用しようと思っているわけじゃない。今この睨み合いの切迫した状況でただ軍に制圧されるだけじゃ、彼らの処遇もそうそう明るい未来は待っていないはずだ。だからこそここで権力のある新さんに直接介入させれば、新さんならばきっとうまい具合に治めてくれる。
でも新さんなら最初からそのつもりだったりするかもしれないけれど、この場合はこっちの都合でその予定を早めてもらう。もとい、その場で足止めされててくださいと。人の上に立つなら現場も知らないとって、某踊ってる大捜査線の人々が言ってた。
新さんなら多分私の意を汲んで期待通りにしてくれるだろう。どうせそれを加えてもなお自分の思い通りにできるとでも思ってるんでしょ。マジ生意気。
そんなようなことをなんやかんやともにょもにょぼかしつつも都合よく言葉を選んで説明すると、彼らも素直にほっとしたように納得してくれた。丸め込まれやすくてお姉さん助かるわあ。
「大丈夫。アブラアムさんの身柄は私が保証しますから」
「なんでお前にそんなことが言えるんだ」
「私は英傑アタラの姉です。それでは信じるに値しませんか?」
う、と言いよどむ。いやいやいや、絶対おかしいでしょ。自分で言っておいてなんだけど、これで黙っちゃうって対峙している相手を信じてます、って言っているようなものだけど、いいのかな。まあ、そんなものか。相手が新さんである以上、敵だろうが味方だろうがそうなってしまう。
ふーん、そう、やっぱり。そうだよね、アブラアムさんたちも。
「なんだその不満げな顔は」
「いえ別に、そんなことは。……とにかく、神殿には絶対に行きます。結果論で言えばそちらさんの目的にも適っていると思いますし、それは私の目的でもあるので、これだけは曲げられません。あ、別に貴方達を罠に嵌めて自分だけ保護してもらおうとかそういう期待をこめているわけではないので、あしからず」
妙な疑いをかけられる前に言うと、皆に解ってるよといわんばかりの顔で頷かれた。はたして脳みそまで筋肉が詰まってるゴリラの有象無象に何が解るんだか。じと目になりつつ、まあいいかとスルー。余計なことは気にかけるだけ時間の無駄。
さて、あとは。
「それで、貴方方の目的はアタラとの直接交渉、いえ、そのクライアントのための誘導ということでよろしいですよね?」
今更だけど、一応確認してみる。本当はまあ色々と見逃してはいるが、そこはそれ、スルー能力発揮ですよ。便利便利。
「まあ……そういうことっちゃあ、そういうことに、なるのか?」
「まあ、なんでもいいですけど。あ、そうだ。確認のために二、三質問しますので、ちゃーんと答えてくださいね。嘘ついてもすぐにわかっちゃいますから、正直にね」
にっこり微笑むと、アブラアムさんが疲れたような顔でぼそっと「なんかお前怖いな」と言った。
あーららこらら。とうとう立場逆転しちゃいましたよお姉さん。へらへら笑いつつ確認作業を済まし、私達はそろそろ行こうか、と腰を上げた。
「あ」
「なんだよ」
「忘れていました大事なもの。紙とペン、あります?」
聞くと、さっとそれを用意してくれたので、お行儀悪くも床に這い蹲ってさらさらと書き始める。ちなみに紙というか布はあったけどペンはなくて木炭みたいなものを渡された。書けりゃなんでもいいです。
がりごりと綴り始めると、なんだなんだと皆さん覗き込んでくるんだけど、これ日本語だから多分読めないよね。「何書いてるんだ?」と聞くので「置手紙。らぶれたあですよ」と答えると、皆さん揃いも揃って小鳥のように首をかしげた。私はそんな微笑ましい光景に笑いをかみ締めつつも、「脅迫状です」と言い直したのだった。
で、目下潜入中。中に入ってしまえば後は簡単だった。誰かが私達を見ても『お帰りなさいませ姉君様』としか言わない。それどころか素敵な笑顔のおまけつきだ。私もそれに倣って微笑み返し、こうしてなんの弊害も無く神殿までたどり着いたということだ。
想定通り、私が拉致された事実は公にされなかったらしい。それどころか、町の観光に出かけていたということにされていたようだ。
『町は楽しかったですか』と声をかけられたときに、『ええそれはもう。心行くまで楽しませていただきました』と即座に答えた私は表彰ものだ。ベストオブ狸イエー。
「まあ、狐はあっちだろうけどね……」
ぼそっと言った台詞に耳ざとく「なんか言ったか」とアブラアムさんが振り返ってきたので、なんでもありませんと笑顔で一蹴しておく。
とりあえず、ここまでは計画通り。あちらにとっても、こちらにとっても。問題はこの先か。新さんが私のらぶれたあを読んでいる間に私達は神殿に忍び込む。そして新さんを待っている間に私は――。
「そういえばアブラアムさん」
「なんだよ」
「私、大事なこと、言うのを忘れておりました」
怪訝そうな顔で、アブラアムさんが振り返る。なんだ今更、といった表情だ。それはそうだ。もう目的地は目の前。
アブラアムさんの立っている場所のすぐ後ろには、私には解読不明の文様が描かれている。見るのは二度目だ。一度目は、召還されたあの時。妙な感慨を感じながらそれを見つめつつ、私は微笑みながら教えてあげた。
「アブラアムさん達が仰っていた『信頼あるお方』。そのご本人様か、或いはその上にいるお方、とね? 私、一度だけお茶したことがあるんですよ」
にっこり微笑む。アブラアムさんの目が、不信に潜まる。そんな彼の背後には、既にそれが迫っているのが見えた。
さて、舞台は整った。そしてもう一人の役者、狐さんのご登場。私はアブラアムさんに向けていた笑顔をそのまま彼の背後にいる人に向け、ゆっくりと目礼した。
「またお会いしましたね。――ソロンさん」
「……ええ。姉君様」
純白の白衣。真っ直ぐにどこまでも伸びる黒髪。私の笑顔と拮抗するかのような、穏やかな微笑み。
恐らくは今回の黒幕であろうその人を見つめて、私は自身の算段が着々と完成し始めていることに心が浮き立つのを抑えきれなくなっていた。