一条姉と白い薔薇
今回の件によって、私の仕事は終わったはずだ。
だから新さんが答えを出したら、私も答えようと思う。でも新さんが答えを出すことができなかったら、私も答えられない。私は新さんにどうにかこの十日間に答えを出して欲しいと願う。そうでなければ私が今まで積み上げてきた意思が、無駄になってしまうのだから。
新さんとこの世界を訪れて、もう五日は経った。その間新さんは一日の休みも無く政務とやらに追われている。
新さんが私の知らない世界で何をしているのか、私はよく知らないし大した興味も無い。ただ、宮廷での新さんの評判は、それはもうすこぶる良いらしい。
もともと国を救った英雄なのだから当たり前かもしれないけど、それに乗算してあの人柄が人々の心に新さんフェロモンとして働きかけるらしい。解りやすいことこの上ない。どちらの世界でも、新さんは必要とされる存在なのだろう。
それが顕著に現れるのが、人々の私に対する態度だ。新さんの姉というだけで、誰もが私を羨み、惜しげなく優しさを振りまき、そして僅かな希望や期待を持って接してくる。私はそれを笑顔でいなし、受け止め、スルーする。毎度のことだ。もう慣れた。新さんのおかげで、私は随分と笑顔が上手になった。
「あねぎみさま、これどおぞっ」
「ありがとう」
下働きらしい、小さな女の子が差し出してきた白い薔薇を受け取りながら、微笑み返す。
もう新さん以外の人に『お姉さん』呼ばわりされるのにも慣れた。ここまでいくと、もしかしたら私は世界一の弟妹もちなのかもしれない。等とこっそり嘯いてみたりする余裕まで出てくる。
そしてその薔薇を手の内でくるくると玩びながら、私は新さんのお部屋へと向かう。これを新さんに届けるためだ。
何故かってそれは、この贈り物は『閣下のお姉さんへ』という名目の、新さんへの気持ちだからに他ならない。私はそれをバカ正直に喜んで自分の部屋の花瓶に生けたりしない。それでこそこんなものを私が持っていたら、滑稽な道化師の証以外のなにものでもない。だからこそ本来ならば、こんなものに一秒だって触れていたくない。
なので、これは、あるべきところへ返してあげる。
「すいませーん。またまたお邪魔しまーす」
どうせ新さんはいないだろう。執務室かもしくは城の外か、或いは大公殿下とやらとお話しているかのいずれかなのだから。
もちろん解ってやっている。さすがにやること盛り沢山の弟を邪魔するほど腐ってはいないつもりだ。だから新さんのいない昼間を狙ってこうして訪れている。
そら、案の定。ひょっこり覗くと、誰もいなかった。図書館かと見紛う程の本棚に囲まれた、新さんらしい重厚な雰囲気のお部屋。そこに誰もいないと知りつつも抜き足差し足忍び足、書斎机の一輪挿し目指して進む。
きっと新さんは知らないだろう。そうさ。この花瓶の花を取り替えているのが新さん付きの侍女ではなく、よもや私であろうなどとは思いもすま――。
「姉さんだったのか」
――おや。思った矢先に即バレ。不用意なモノローグは慎むべきだね、やはり。自分で立ち上げたフラグを見事回収してしまい、私はがっくりと肩を下げ観念して後ろを振り返った。
「新さん」
「その花、姉さんだったんだな」
見ると、ソロンさん他崇拝者もとい側近の皆様を伴い、入り口付近に新さんが立っていた。
あーららこらら。ソロンさんの怪訝な眼差しが突き刺さる。そういえばあれ以来お会いしていなかったっけ。あら気まずい。えへ、とわざとらしく舌を出すと、新さんの眼差しが少し呆れたように細くなる。どうも不法侵入な姉ですいまそん。
そのまま新さんだけ部屋に入ると、ソロンさんに何かを言付けして扉を閉めてしまった。およよ。
「いいの?」
「忘れ物を取りに来たついでに、少し休憩を貰った。これからちょっと行くところがあるから」
「へえー、そう。気をつけて行ってらっしゃい」
言うと、まだ行かないってば、と返してくる。そのまま書斎机に周り、慣れたようにその付属の椅子に腰掛けた。
私はそれを眺めて、思った。似合っている。いかな光景でも、その空間にさえ拒まれない弟。受け入れられ、馴染み、それどころか輝きを増す、魅力ある私の弟。
じっとそれを見つめているとその視線に気づいた弟は、ちょいちょい、と指でこまねいてくる。それがまるで部下を呼ぶときのような仕草であまりに馴染んでいたので、私は苦笑いをかみ締めつつも仰せの通りにと近寄った。
「その花、貸して」
一輪挿しを持ちつつ、手を差し出してくる。渡すと、新さんはそれを受け取り一輪挿しに差込み、元の定位置に置いた。頬杖をついて暫くそれをじっと見つめ、何か想うようにぼそっと呟いた。
「これ、庭園の花だな」
「……そうなの?」
聞き返すと、ちょっと驚いたようにこちらを見つめ返してきた。私が庭園の花を毎度毎度勝手にちょん切ってここに飾っていたなどと思っていたのか。失礼な弟だ。
新さんはなんだか納得がいかなそうにその花に手を伸ばして、けれどそっと白い花弁に触れる。壊れ物に触れるかのように、ひどく緩慢に、じれったくなるほどに優しく。触れながら、独り言を言うかのように呟く。
「いつも、少し傷んでいるんだ」
「……そう、なの? そう。まじで。ごめん、ね?」
持ち歩く道中で傷つけたのか、或いはあの子がくれた時点でもう傷んでいたのか。
まあ、それはそうか。あんな小さな女の子が毎度毎度花を一輪とはいえ差し出すなんて、まともに出来っこないのは解っていた。
けれど、そうか。
「傷んでるの、くれてたんだ……」
思わずぽろっと漏れた本音が聞こえたのか、新さんがはっと私を見る。
あーららっと。コイツにだけは聞かせるつもり無かったのにな。最近失言が多くて参る。脳トレしようかね。
「姉さ――」
「じゃあ、休憩のお邪魔するのも悪いし、退散するね。お気をつけていってらっしゃいまし、閣下」
「……ああ」
何か言いたそうな新さんをさらっとスルーして、素早く退室した。外では信者の皆様もとい側近の方々が待機していて一斉にこっちを向いたものだから少しだけぎょっとしたけど、私は挨拶もそこそこに脱兎の如くその場を去った。
今回ばかりはソロンさんに何を聞かれても上手い答え方が出来ないだろう。それが解っていたからこその、脱兎だった。
部屋に戻るなり、すぐさま扉を閉めてその場に崩れ落ちるようにへたり込んでしまった。震えそうな手を必死で押しとどめて、荒くなった息を何とか宥める。
「……やばいかも」
口から零れた言葉は、真実を物語っていた。
もう駄目だ。もうそろそろ、潮時なのだろう。限界がすぐそこまで来ている。幸い、私の役目はもう済んでいる。あとは新さんが答えを導き出すだけ。そうすれば私もやっと――解放される。やっと。やっとだ。
「ふふ……」
泣きたいような笑い出したいような心地を抱えて、膝を抱えたまま頭を預けた。
そういえばあの夜も、こうして新さんに頭を預けていた。これからはもう、そういうことも無くなる。あの温もりに触れることもなくなるだろう。
私はまた一人「ふふ」と笑った。その時、肩が揺れた拍子に、何かが零れ落ちる。それは一滴の星屑のようにあっけなく弧を描き、闇の中に染み込んで消えていった。
新さんはいつから私のことを『姉さん』と呼び始めたのか。忘れていた振りをしていたそれを、今回のことで思い出してしまった。
それは時期で言うと六月。梅雨明けの初夏。新さんが、進路調査書を学校から配られたとき。
そろそろ蝉が鳴きだすかという頃、その未記入の欄を見つめながら何の気もなしに私は新さんに問いかけた。志望校はどうするの――と。
新さんはいつものようにそっけなく呟いた。私の予想の斜め上にある答えを。
『楓と同じ』
その日はじっとりと肌を濡らすほど蒸し暑かったのを覚えている。けれどその瞬間だけは、全身の熱が限界まで寄せたさざ波のように一斉に引いていくのが解った。
私はそのとき何と答えたのだろう。それだけは思い出せない。ただその時から新さんはお伺いを立てるように私を『姉さん』と呼ぶようになり、そして私はとんでもないことに気づいてしまった。私の世界がとうとう限界を迎え、崩壊し始めているという恐るべき事実に。
「――がか? 全く似ていないぞ」
「けど確かにこの部屋だって報告が……」
どうやら、あのまま眠りこけてしまっていたらしい。なんとも呑気なものだ。ちっともシリアスが続かない。やっぱりモブはモブらしく大人しくしておけという暗示なのか。
周りの喧しさに顔を顰めながらも上げるとそこには、もう日も落ちた薄暗い部屋の中に誰かがぞろぞろと私を囲んでいるのが見えた。悲鳴を漏らす暇もなく、近くにいた男に口を塞がれる。その拍子に扉に頭をぶつけたせいか、それとも男が口を塞ぐと同時に口元に当ててきた強烈な匂いのする湿った布のせいなのか、意識が再び朦朧としてきた。
ぐらり、と揺らぐ。暗い世界。
「どうする」
「予定通りだ。急げ」
知らない男達の緊迫した話し合いを朦朧としながらも耳にする。そのまま重力に従って傾きかけた私の身体を、粗野な力で誰かが持ち上げ、まるで砂袋のように肩に担がれた。抵抗する力も悲鳴を上げる気力さえも湧かず、私はされるがままに知らない男の肩にぶら下がる。
霞む視界。薄暗い闇。先ほどまで寄りかかっていたあの扉がどんどん遠ざかり、男は私を担いだまま窓に手をかける。
ああ、なんだ、そうか。私は漸く気がついた。
私の役割はまだ終わっていない。むしろこれから。これからが、弟の物語の佳境であり、そして私の世界の終焉なのだと。
そこから意識はぶっつり途切れて、また繰り返しの夢の中。幾度となく夢に見たあの始まりからを、私は同じ夢の中で延々と繰り返す羽目になる。
何故だかその最中で、あの夜のことまでもが再生された。夢の中の新さんはあの時と同じように、とても寂しそうな眼差しで私を見つめていた。純粋な思いに満たされたその瞳は、どんな星よりもきらきらと美しく瞬いていた。