彼女と彼の話
これより先は過去編終了に伴い、展開によって事故の表現や多少の流血表現が入ります。どうぞご留意のほど先をご覧ください。
夢は巡る。
出会ったときのこと。彼を探し回ったときのこと。二人ぼっちのクリスマスに、みんなで笑ったクリスマスのこと。パーティーでのこと。あの夏の、こと。
現実をなぞるようなその光景は、いつも行きつく先だけは違っていた。それこそ絵に描いたようなハッピーエンドのときもあれば、思いも寄らない結末を迎えるときもある。けれどなんにせよ、目覚めたときの虚しさに違いはない。
いつしか夢を見ることさえ恐ろしくなった。幸福な夢を見ることさえ、その夢から覚めた後の虚しさでさえ、忌々しくてたまらなかった。
滑稽な過去をなぞり終えた頃、気付けば、私は一人そこに座っていた。
いや、ひとりだけど一人じゃない。染み一つないまっさらな空間の中に、点が、二つ。『私』と、“わたし”。
何気なく、寄り添うように隣で体育すわりをしている“わたし”を、『私』はなんとなしに見つめた。ふくらはぎ辺りまでの紺色のソックスに、既製品のローファー。丸襟のまっさらなシャツの首元には、臙脂色のか細いリボンが頼りなさげに結ばれている。今彼女が着ている薄いチャコールグレーの野暮ったい制服は、私が中学校の頃袖を通していたもの。そういえば、そうだ。あの頃、“わたし”の髪はもっと短かった。
懐かしいような新鮮なような、不可思議な感覚を覚えながらついまじまじと眺めてしまった。反対に“わたし”はというと、そんな『私』に見つめられるまま子リスのように小首をかしげる。
つい、その仕草に笑ってしまう。変わり果てたものもあれば、どうあっても変わらないものもある。だから言い表せない感情のうねりを誤魔化すように立ち上がって彼女を――その子を、見下ろした。
「それで? どうするの。今度は何をするつもり」
「……あなたはどうしたい?」
“わたし”が、何かを見透かすように――――いや、見透かそうとするかのように、問いかけてくる。けれど今更それに応えるつもりなど毛頭なかった。禅問答はもう沢山だ。
「そういうのいいからさ、本題に入ろうよ。それとも、なに? それってさあ、一種のコスプレ? コアな趣味持ってんねえ。…………新さん」
あえて皮肉るように見下ろすと、その場の空気が一瞬軋んだような気がした。眼下の”わたし”はゆっくりと目を伏せ、体育座りをやめて立ち上がる。その刹那、陽炎のように目の前の彼女の姿は揺らぎ瞬く間に”彼”となって私の前に現れた。
もう、まっすぐ向いても目が合うこともない。見上げなければ目を合わせることすらできない、夢の中とも違う、今の彼に。
「まだるっこしいよ、新さん。ここどこ? 私に何したの」
どこを見てもまっさらな空間だ。靄がかかっているのかなんなのか、遠くまで見通そうと思っても何も捕まらず、それどころか目がおかしくなりそうでじっと見つめていられない。下を見れば影すらなく、上を見てもあてのない白。まったく、ここで一人だったら一時間と経たず発狂していたんじゃないだろうか。
『俺は絶対に姉さんを連れて帰る。もう逃がしてもやらない。泣こうが喚こうが知らない。姉さんの馬鹿げた計画なんか俺がぶっ潰してやる』
あんなことを言っていたと思ったらこれだ。これはやばいと焦ったのにどういう状況なんだろう、これは。逃がしてやらないって、もしかしてこのよくわからない空間に監禁ってこと? 手段を択ばないってことだろうか。だとしてもお門違いだし、望むところだ。好きなようにすればいい。彼が何かを変えようとしたって無駄なこともある。既に失くしたものを変えることなんて、誰にもできないのだから。
けれど、新さんは私の身構えを知ってか知らずか、ただひたすら真摯な眼差しで私を見下ろすだけでその質問に答えることはなかった。
「話を。……ここなら、邪魔も入らない」
一体なんの邪魔が入るというのか。
さっきの剣幕はなんだったのだろうと思えるほど落ち着いているようにも見える。なんだかそれが逆に、少し恐ろしい気もする。
「この期に及んでまた話。これ以上話すことなんて私にはないよ」
「違う」
ゆっくりと首を振る。そして何の頼りもないその白い平面を一歩、踏み出した。
「話をする。俺の話。……姉さん、は、聞いてくれるだけでいい」
そう言うと、私の返事も待たずに歩き出した。
――はなし。話、ねえ。これは多分、聞くまでここから出さないってこと、ですか。
別に、それでもいい。話とやらをしようが聞こうが、今更私のなかの何かが変わるわけでもないだろう。自分でも変えられなかったものが、新さんの話一つで変えられるわけがない。変えるつもりも、ない。だから挑むように、その背中を追った。
――――ここには音もないんだ。
自分の足音すら拾えないまま、しばらくずっと、歩いていた。当てもなく彷徨うように、ただただ二人で歩いていた。
迷っているみたい。それこそまるで、迷子のように。彼の足取りは淀みないのに、それでもどうしてかとても頼りなく感じた。
――話すこと自体を、迷っているのだろうか。自分から言い出したくせに。それでも、茶々を入れることもできたというのに黙ってついて行っている私も大概だ。何故だかそうしようとする気が起きないのだから仕方がない。この期に及んでもまだ、彼の望むように添えることがあるならそうしたいと望む自分がいるからなんだろう。こんな風に中途半端に甘くするから、きっと彼も捨てられずにいる。それは解っているのに。
またいつものくだらないジレンマが燻る。もっと思いきらないとダメなんだ、私も。陰鬱な気持ちを持て余しながらもどうにか思い切ったつもりで顔を上げた。
それなのに、タイミングがいいのか悪いのか、数歩先で彼も歩みを止めていた。ただ私には背を向けたまま。まるでここではないどこかを見ているようだった。
「……ずっと、勘違いしてたんだ」
「勘違い?」
「そう。すごく、恥ずかしい、勘違い」
笑い交じりのその声には、顔が見えなくともありありと自嘲を聞き取れた。恥じているような、そうだった自分を可笑しく思っているような、そんな、穏やかな声。
「……なんだろうな。幼稚だったとか、ガキだったとか、そういうのもあるんだろうけど。なんか、本当に、信じ込んでたんだ。それが当然だって。自分の中では疑いようのない事実だったんだ。……その時の俺にとっては、本気でさ」
「なにを?」
「自分が特別だ、ってこと」
なにを今さら。聞いた瞬間、すぐさまそう思う。
だってそうでしょう。新さんはいつだって、どこでだって、誰にだって、特別だったじゃない。勘違いなんかじゃない。確かに彼の言うとおりそれは事実なんだから。
――多分、よほど私は怪訝な顔を浮かべていたんだろう。新さんは少し振り返って私を一瞥すると、僅かに苦笑を浮かべて首を横に振った。違うよ、と聞き分けのない子供に言い聞かせるように。
「特別だと、思ってたよ。自分は選ばれた人間で、取り換えのきかない、ただ一人の存在なんだと思っていた。……今思うと本当に、思い上がりも甚だしいけどさ」
それは仕方のないこと、なんじゃないの。彼の言う“その時”は解らないけれど今の彼を鑑みても、今このときだってそう思っていても不思議じゃない。それだけ彼は何もかもをつつがなくこなすような逸材であったし、周囲もそう見ていた。恐らくは“その時”でさえ、今と変わらずそうだっただろう。明確に“その時”を示されなくても、想像することはたやすかった。
「ずっとそんなことを本気で信じて、やれることは何でもやった。期待されたことにはそれ以上の成果を示して見せたし、言われるがままにこなして、示されるままに進んだ。そういう自分は誰にも成り変われない、至高の存在なんだと思っていた。誰にもできないことができていると、思っていたんだ」
言葉にするのも嫌なんだと、全身で発しているような言い方だった。よほどその頃の自分を厭わしく思っているのかもしれない。そんな話をさせてしまっているのだと思うと、なんだかつい軽口が口をついて出た。
「黒歴史、ってヤツっすか」
「……そう、っすね」
新さんは、悪戯っぽく笑って、心なし楽しそうに微笑んでくれた。その笑顔を見るとやっぱり今はそうじゃないんだなと確信できる。
それでなんだかほっとする。そんな時があったとしても、今の新さんは、ただの新さんなのだ。
「でも、ある時気づいたんだ」
ぎくっとするくらい突如凍てついた声音で漏らした呟き。それとともに、どこからか聞こえてくる。
拠り所のないうわついた喧噪。都会の雑踏のただ中にいるような雑音。遠くに聞こえるクラクションの嘶きに、聞き取れない人々のさざめき、足音。
おもむろに新さんが目を向けたほうに目を向けると、いつの間にかそこはどこかのスクランブル交差点のただ中で、私と新さんはその中心部に立っているようだった。居並ぶビルに囲まれながら、現実世界の住人達が中心部に突っ立っている私たちなど目にも映らぬように行き交いしている。いや、実際目に映ってなどいないのだろう。それを証拠に、それらの人々はみな避けもせず私たちをすり抜けて足早に去っていく。
最初は面食らって言葉もなかったけれど、隣で新さんがあまりに飄々としていれば次第に慌てている自分がばかばかしくなりすぐに落ち着いた。ようは、これは彼による魔法のようなもので、一種の幻像を見せているのだろう。
そうならそう言え。右隣の彼を睨みつけるも、新さんはただ一点のみをじっと見つめるままだ。腑に落ちないながらも誘われるようにそこを見ると、停止線の先頭に位置する一台の黒い車が目に映る。赤信号で停止したままのその車の運転席には女性がいて、その助手席にはまだ幼さが残る少年が乗っていた。運転席の位置が真逆で一瞬あれっと思ったけれど、輸入車のようだから当たり前だ。
それよりも、女性のほうには見覚えがある。記憶と変わらず鋭利な美貌をたたえるその面差しは朔子さんに他ならない。反射的に胸に蟠る濁りに顔をしかめながらその隣に目を移し、それをとっくりと眺めてようやく、彼が今よりも幼いころの新さんであることに思い至った。私の中にある一番古い記憶の新さんよりもさらに幼く見えるため、一瞬それが誰だか解らなかった。
咄嗟に隣の新さんを仰ぎ見ると、言いたいことが分かったのか肯定するように頷いてくれた。ただ、視線はそのままで。
「この時、帰国したばかりだったんだ。空港からそのままの足で移動してた。行先は本家。祖父と顔合わせすると聞いていた」
ということは、やっぱりこれは過去の映像ってことだ。どうやっているかはわからないけれど、別視点から新さんと朔子さんを見ているんだ。あれ、でも、これってもしかして――。
「日本のスクランブル交差点ってすごいな。めまぐるしくって、危なっかしくて、でもみんな平然と歩いてた。外国帰りの俺には、ちょっと見ものだったよ」
過りかけた思考を遮って、新さんが懐かしむように言った。まあ、帰国したてっていうなら、そう見慣れたものではなかったのかもしれない。外国人でさえ一度は驚くらしいから、そういう感覚と思えば納得もできる。
でもそれがどうしたというのだろう。新さんがどこか切なそうに見つめる先の、車中にいる幼い新さんはあまり表情らしきものが伺えない。あの顔でそんなことを思っているとは、はた目にはそうは見えないだろう。まるで見えているようで何も見ていないような、無機質な能面のようにさえ感じてしまうのは私が穿ちすぎだからなのか。
もっとよく見てみようと目を凝らしたとき、隣からいやに冷やかな声がした。
「雑多で、排他的で、なんてつまらない有象無象だろう」
一瞬あの幼い少年の声が聞こえたのかと思ったけれど、違う。声にたがわず、見たものが凍り付いてしまいそうなひどく醒めた表情で、新さんが幼い彼を眺めていた。かと思えばそれが冗談だと言うかのように私に笑いかけてくる。不自然なほど、穏やかに。
「そう思って見てたんだよ。行き交うこの人たちに対して、あそこにいる俺はね」
そう。そう、か。錯覚じゃなかった。今よりも幼いあの彼はきっと、新さんの言うとおりそう思っているんだろう。すんなり納得できるくらい、まさしくその通りに、向こうの彼はそういう顔をしていた。見ているこっちのほうがなんだか言い知れない思いが湧いてきてしまう、幼い面差しに似つかわしくない表情。新さんは何を思ってか、淡々とそんな彼の心を代弁する。
「みんな等しく価値のないもののように見えた。その辺の石ころと変わらない、取るに足らない、流れに行くまま消えていくだけのものにしか見えなかった。価値のないものがひしめき合っているだけの光景だった。全部同じ。違いも何もない。突出したものも欠陥もなく、見分けのつかないがらくたの集まり。俺にとっては、そう見えていた」
赤信号の時には息詰まるようにじっと一塊になり、ひとたび青信号になれば、ほかに見向きもせずみんな思い思いの方角へとひたすら歩く。そういう人々の姿は、あの新さんにとっては滑稽な光景だったのだろうか。見ようによっては滑稽だといえるし、面白おかしくもあれば、どこか退廃的なものも感じる。ただ私はそれを言われるまでそれをそうとは感じず、それをそれだけのものとしか捉えていなかったけれど。新さんの言葉に倣うわけではないけれど、たかが交差点、されど交差点、その程度だ。
でもあの新さんにとっては違ったんだろう。そして今の新さんにも。
「でも、思ったんだ。じゃあそれらと自分はどう違うんだろうって」
――車中の彼が、わずかに俯いたように見えた。
「考えてみたらすぐに解ったよ。自分とそれらも何一つ変わらない、ってことに。示されるままに動いて、求められるがままに進む。自分の意思なんて一切なくて、それどころかそれに疑問を抱くこともなく反発すら起こさなかった。――――つまり木偶は俺のほう。俺が感じていたことはそのまま、自分自身に対する真っ当な評価だったってことだよ」
「そんなこと……」
「そんなことが、あるんだよ。今の俺はそうじゃないって自分自身に言ってやれる。でもあの時の俺は紛れもなくそうだった。そのことにやっと気づいて、そして……そう、そうなんだ。……気づいて、しまった」
行き交う人々の数が、にわかに減ってきた。見ると青信号が点滅し始めている。これが本当に現実だったら私たちも移動しなきゃなんだろうけど、幻像だからその必要はないんだろう。実際新さんは微動だにすることなく、過去の彼を見つめている。どことなく鬼気迫る、眼差しで。
「それまでの自分が一瞬で霧散した。本当にあっけなかった。自分は、本当は誰よりも無価値だったこと。自分でなければならないと思ってやってきたことは、自分がいなきゃほかの誰かがやっていたにすぎなかったこと。特別だと思っていたすべてのものが、無価値で、無意味で、無常だったってこと。それを一瞬で思い知って、それから――」
「……それから?」
皮肉るように笑って、彼は言った。
「怖くなったんだ」
――怖い? 新さんが?
にわかには信じられない思いで見上げる私に向けて一笑を浮かべると、突如踵を返した。まるで交差点の人々と一緒に移動するように。未練のように過去の新さんを振り返ったけれど、いまだ俯いてその表情は伺えなかった。だから仕方なくまた、新さんの後をついて歩く。
「急に、何もかもが恐ろしくなった。何の価値もない自分も、価値のない自分を無意味に祀り上げる周囲も、ただ無常に求め続ける母親も。そしてこれまで歩んできた何の意味も価値もない道程と、同じように歩んでいく何もない何も見えない未来も。意味のない、空っぽの自分そのものが」
――なんで、だろう。こんな風に話す新さんの気持ちに「わかる」なんて思ってしまった。聞いているうちに同調したのか、同情したのか、妙な既視感さえある。何故だか私にはその恐ろしさの正体が解るような気がしたのだ。同じような思いを。例えるならたぶん――孤独、そのものを。
何故だろう。そんな覚えはないはずなのに。奇妙な共感に戸惑いながらも彼の背中を追い、次の言葉を黙って待った。気づけば最後の一人かの如く対岸に辿り着いていて、背を向けた視界の端で停止していた自動車が緩やかに動き出す。
「生まれて初めて、恐怖を覚えた。ただ、そう、本当にぞっとした。それがそうとも気づく余裕もなくて、頭の中で嵐が吹き荒れているみたいに、とにかく色んなものがでたらめに入り乱れてた。それで、そんな自分を持て余して、そんな頭で、これからどこでもないところに連れて行かれるんだと思ったら」
新さんはそこで、振り返った。ひどく複雑な苦悶の表情を浮かべ、私の背後をただ一心に睨みつけ、噛みしめるように告げる。
「無我夢中で咄嗟に助手席のドアを開けて、そこから飛び出していた」
左ハンドルの車の助手席は右。日本で右側に飛び出したりしたら。ましてや走り出しとはいえ走行中の車から――――。
その刹那、背後から引き絞るようなブレーキの音が鳴り響く。次いでけたたましいクラクションの音に混じって、何か鈍い小さな音がかき消された。
驚いてとっさに振り返ると視界の先にはちぐはぐに逸れて停止した自動車があり、黒い外車から数メートル離れたその先に、いた。私の傍にいる彼よりも少し幼い、過去の彼。その頼りない背中が、無機質なアスファルトの上に無造作に転がっていた。小さな彼が、そこに横たわっていた。
「逃げたんだよ、俺は」
行き交う悲鳴と怒号の中、場違いなくらい無情とも思える、いっそのこと厳かとも思える声音で背後の彼が呟く。その淡々とした言い様は残酷なほど冷たく、けれど痛いくらい胸に響いた。