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COMPLEX TRIP!  作者: Tm
第三章 佐藤かえで ~過去編~
35/37

  佐藤かえで

 もしもこの世界のどこかに天国があって、そしてもしかしてそこにお父さんがいるなら、今の私を見てどう思っているだろう。

 馬鹿げた選択をした私に憤っているだろうか。もしくはできもしない誓いに挫けた私を笑っているだろうか。それとも、こんな道しか選べない無様な私を、哀れんでいたりするのだろうか。

 そのどれもであるような気もするし、好きに思えばいい、とも思う。

 心のどこかでずっとあなたを否定してきた娘を、あなたも同じだけ否定すればいい。多分それが、因果応報ってやつなんだろうから。




 間違いだと、気付いている。明らかな過ちだと、解っている。そうだよ。解ってるんだよ。解っていても、こうするしかない。これしか、なかったんだよ。やっと思い知ったの。

 人には、明らかにそれが過ちだと知りながら、それを選択してしまうことがあるんだって。解っていて間違った道を歩んでしまうこと。それは間違っていることなんだよ、なんて簡単に言い切れる。

 でも、間違った道を選ぶことの虚しさを知っている人が、どれほどいるだろう。それをわざわざ見つけてくれるような奇特な人がこの世に、どれだけいるっていうんだろう。

 多くの人はそれを弱さと切って捨てるのものだ。私だってそう思う。

 そうだよ。これが、弱さに見てみぬ振りをしてきた、結末なんだよ。



 正答にだってもちろん気付いていた。簡単な話だ。あの時、あの帰り、お母さんに泣きつき、一条さんに訴えればよかった。私は嫌だと、そんなことはしたくないと言えばよかった。それだけの話だ。それだけで全てが万々歳、ハッピーエンドだ。

 きっと一条さんはこう言うだろう。『楓ちゃんはそんなことしなくていい。なにも心配することはないんだよ』って。お母さんはこう言う。『ごめんね楓ちゃん。怖かったよね、大丈夫だよ』ってさ。

 優しい人たちだから、何を言うかなんて想像がつく。で、その後は全て話し終え安心してのうのうと日々を過ごす私を抜きにして、お母さんと一条さんと本家の人たちとでごたごたしあうだろう。そのうちお母さんは『結婚なんてしなくていい』と言い出すかもしれない。一条さんはそれを許さないはずだ。そんなことになったら名実共にお母さんは愛人扱いだもの。

 それで、またごたごたする。最悪、お母さんと一条さんは別れてしまうかもしれない。突飛な想像だけどありえないことでもない。たとえ私がそこで、別れないで、結婚してと訴えたところで、その言葉になんの効力もないだろう。大人の話だからと一蹴されるんだ、きっと。

 そこまで考えて、ぞっとした。お母さんは泣くだろう。死に別れではないにせよ、愛する人との離別だ。また、泣くのだ。私の前であろうとなかろうと、きっと、嘆くのだ。お父さんのときと二の舞だ。それで私はあの時同様なにもせず、なにもできず、ただただ嘆くお母さんを見つめるしかなくなる。とんだハッピーエンドだよ。お母さんの幸せを願ったはずの私が、お母さんの幸せを奪うんだ。そんなのはいやだ。絶対にいやだ。でもひとりはいやだ。どうしてこうなるの。私関係ないじゃない。なんで私が。私だけが。そんなことを考えて、また堂々巡り。パーティーが終わってからも、居心地が良かったはずの真綿が今なお、ゆるりゆるりと私の首を締め付ける。もどかしいほど緩やかな坂道を、じりじり、じりじりと転げ落ちる日々が始まった。それからが多分、もう顛末を迎えた物語の、惰性の話。




 決定事項となった契約の内容は、後日メールで届いた。提示された条件は大まかに四つ。

 一つは高校卒業後の進路に、指定する区域を選択すること。ようは一条の息のかかった界隈には絶対に近づくなということ。その限りであれば、全面的に援助は惜しまないと記されてあった。

 二つめはその後一条との関係を絶つこと。私の方から連絡することはおろか、家族から連絡があっても、余程のことでなければ安易な対応をしてはならない。そこまで徹底する必要があるのかどうか甚だ疑問だけど、大方過度な接触につながることを避けるためなのだろう。

 三つめは、それらの環境を私自らが整えること。つまり、私が自分の意思で一条との関係を絶つことを明示しなければならない。

 そして最後。これらの条件を踏まえた上で、期限は無期限。通達がない限り、それを怠ってはならないこと。

 結局あの人たちが何を目的にこうまでしたのかといえば、あくまで私の意思による行動だと示したかったのかもしれない。他者から強制的に強いられたのではどうあっても不自然さが生じる。だったら私がそれを望んだこととすれば、誰も追求はできない。一条さんも、お母さんも、誰も。勿論望んでなどいない。けれど自分で選んだのは事実だ。後々言及されたところで私の意思だといわれてしまえばそれまでだ。

 それと引き換えに得られるのはお母さんの平穏。子供のことについても、継承権を放棄する旨の念書があれば認められるよう図ると書いてあった。そして副産物ではあるけれど――――新さんへの僅かな猶予。ようは私が家を出て、一条と縁を切って生活していれば、お母さんの安全と新さんへの幾ばくかの時間が与えられるって事。いつ終わりがくるかも解らないものと引き換えに手に入れるものが、それ。

 何度文字を反芻しても、その対価が同等なのかどうか、正確に測ることはできなかった。





 ――春。目を走らせればどこにでも淡い桃色が散りばめられ、日差しは暖かく風はまだ肌寒かった。

 新しい制服に新しい靴、鞄、それから――――新しい、名前。

 本当は入籍はまだだったんだけど、その来る日が来年の秋。つまり新さんの誕生日を迎えてから、という話になっているから、途中で名前が変わるのも憚られるため特例として、私は早々に『一条楓』となった。何故新さんの誕生日を迎えてからかというと、新さんが十六歳になったら正式に次期当主としての任命式が行われるらしい。その時に様々な取り決めと共にお母さん達の婚姻も認められるらしくて、詳しくは知らされなかったけれど、私の知らない裏が色々とあるのだろうということは解った。

 なんにせよ、これからの高校生活を私は『一条楓』として過ごすことになった。


「一条さん」


 ――よく、そう話しかけられては、慣れない呼称に戸惑った。

 入学当初私が一条の者だということが知れ渡ると、中学のとき以上に人が寄ってくるようになった。高校は中学よりも範囲が広い。一条の名を耳にする者も少なくはないということを、いやというほど入学早々思い知る。教師でさえ「あの一条の家の娘さん」なんていやに構ってきたりする始末で、今後の高校生活が思いやられたと同時に、少しだけ新さんの気持ちが解ったような気がした。知らない人間にまるで既知の如く気軽に話しかけられると、不快以前に気味が悪いし、何より対応に困る。

 それでも、中学のときとは違う。新さんのことを聞かれても中学の頃以上に拒絶を示し、できるだけ人と関わらないようにした。下手に他人と関わって面倒になっても後々面倒なのは解りきっている。吉本さんのことだって多分、私とそれほど関係の無い人間でも枷にはなるのだと朔子さんは示したかったのだろう。だから同様の理由で、小学校中学校からの友人との連絡も絶った。相手からなにか誘いかけてこようとも一貫して断っていれば、遅かれ早かれみんな離れていく。

 そうやって自然消滅のように友人達とも疎遠になったし、一時期はクラスの中でとっつきづらいと敬遠されたものの、三ヶ月も経てば皆自身の学校生活に夢中になり私に目をくれる者も殆どいなくなった。


 けっして居心地が良いわけではなかったけれど、それも慣れた。贅沢は言わない。残る三年間、公私共にできるだけ平穏に過ごせたなら、これ以上のことはない。

 限りなく普通に、けれど常に気を張りながら、受験した当初は想像もしなかった味気ない高校生活が始まった。




 誰が見てるか解らない。常にこんなことを、念頭に置くようになった気がする。

 人が見る。私を見る。学校の人は私を「一条」だと見る。一条の人は私を「厄介な連れ子」と見る。


 他にも、ある。

 お母さんが私を見る。時々、もの言いたげに私を見る。その度にできるだけ能天気な振りをする。

 一条さんが私を見る。時折、何かを見通すようににっこりと微笑みかけてくる。だから私もにっこりと微笑む。お陰で笑顔のいい練習になった。

 それから新さん。ただ、じっと。ごく稀にじっと、見つめてくる。そんな時、無性に胸がざわつく。だからそういう時は普段より余計にかまい倒す。そんな風に新さんと接しながら、ふと頭に「この子は私がこれから失うものを得られるんだ」という思いが浮かぶ。そんな風に思ってしまう自分が解せなくて、すぐに別のことを考えて気を紛らわす。

 この頃からだろう。時々私の心が考えていることとは裏腹な思いを抱くようになったのは。



 けれど、物事をポジティブに捉えられなくなったら人間お終いだ。だから後ろ暗いことを考えそうになるたびに、色々なことを自分に言い聞かせた。

 あの契約だって、一生な訳じゃない。もしかしたら数年で解除されるかもしれないし、そうでなくたっていつか終わりが来るはずだ。そりゃ少しは寂しいけれど、それこそ親離れだと思って、自分の人生を見つめるいい機会になるかもしれない。その間お母さんのことは心配だけど一条さんがいるし契約が守ってくれるし、私が居なくても新さんがいる。お母さんは新さんが大好きだって言ってた。なら、そんなに寂しくもならないと思う。

 きっと本家の人にちょっかいをかけられなければ、お母さんは笑って過ごせるだろう。それなら、いい。それ以上のことなんてないし。元々それが私の願いだったんだし。ただ予定とは違って傍にはいられないだけで、結果的には私の願いは叶っている。お母さんが笑っていればいい。大好きな人の傍で、幸せそうにしていればそれでいい。

 それに、新さんだって。これから面倒なことが待ち受けていそうだけど、あの家にいれば大丈夫な気がする。きっと新さんはもっと、ずっと、強くなれる。そうなるよう、あの家が守ってくれるだろう。一条さんやお母さんが、全力で守ろうとするのだろう。

 いいこと尽くしじゃないか。私はその間ちょっと家を出るだけ。きっとすぐ戻れる。大丈夫。きっと、すぐ、会えるはずだから。


 そう、思い込んだ。何度も何度も、心が不穏になりかけるたびに刷り込むように、自分に言い聞かせた。

 けれど私は一つ思い違いをしていた。


 ――――心は腐る。


 人の心は育つこともあれば、腐ることもある。

 私の場合はというと、一見葉は青々と、けれど順調に根腐れを起こし始めていた。それに気付いたのが、あの夏。身も心も全てを溶かし尽くし暴いてしまいそうな、あの夏だ。





 六月も、もうすぐ終わり。心を湿らす梅雨も明け、もうじき快活なあの季節がやってくる。いや、もうそれに差し掛かっていた。だってこんなに、暑いんだから。肌を熱らす嫌気を紛らわすため、ふと思い立ち新さんの部屋へと遊びに行った。

 案の定涼しげな顔で読書に勤しんだりなんかしちゃって、なんだかつまらない。「何しにきたの」なんて一瞥で示されたらなおさらだ。そこで少しばかりちょっかいをかけてやろうと思い至ったところで目に付いたのが、あの紙だった。進路調査書。見覚えがあるのも当たり前。私だって一年前には割と悩んで提出した覚えがある。

 ――そうだ。あの頃は、余計なことなど考えずに、過ごしていた。今となっては羨ましいほど、無知だった私。

 ふと暑さを忘れ、けれどすぐさま本来の目的を思い出す。

 そう。そうだよ。ただ、少し、からかいたかっただけ。いつものかけあいをして、それで済ませるつもりだったんだよ。それだけ、だったんだよ。

 ――――なのに。


「……なんでぇ?」


 新さんの表情が、凍り付いていた。決して、夏の兆しに似つかわしくなどない、絶対零度の眼差しが私を映す。そこでやっと気付いた。自分がどれだけ、異常な様相を晒しているのかということを。

 恐ろしくなって、すぐに逃げた。すぐに自室に引きこもり、そして新さんが追ってくることはなかった。私はというとベッドに突っ伏して、めちゃくちゃに撹乱された脳内で何度も意味不明な自問自答を繰り返した。


 なんで。どうして。どうして新さんが来るの。私の学校だよ。新さん関係ないじゃん。でも、来るって。あの目はもう決めていた。決まっていた。じゃあ、来るの。新さんが。どうして。やめてよ。あそこは私が通う学校なんだよ。新さんが来たら――新さんまで来たら、もっと見られるじゃない。ただでさえ新さん有名なのに、うちの学校にきたら、そんなの。そんなのって。やめてよ。どうして。やだ。もっと見られる。学校の人に見られる。一条の人に見られる。ただでさえ居場所なんてないのに。ねえ、なんで。どうして。やめて。お願い。やめてよ。もう無理なの。これ以上は無理。

 これ以上、もう、私――――背負えないよ!


 ――――今までこんなこと、考えているつもり、なかったのにさ。

 次から次へとあふれ出して、もうやめようと思っても止まらなくて、何度も何度も際限なく色んな思いが噴きだした。色んなもの一緒くたにして、頭ん中で、乱雑にかき回されているような不快感。胸がえづいて仕方なかった。

 何がどうなっているのか、自分でも解らなかった。ただ確実に何かが崩れ始めたと、それだけはなんとなく、感じ取っていた。




「なんで?」

 前日同様、半笑いの呆けた声が出た。異様な出来事から翌日、何事もなかったかのように朝の挨拶をした私に向かって新さんが言ったからだ。「これから、姉さんと呼ぶ」と。

「別に。ただ、便宜上だよ」

 お行儀よく箸を置いて、それだけ呟いた。

 べんぎじょう。

 言葉の意味は解るのに、言われている意味そのものが全く理解できない。ぽかんと呆ける私から新さんがさっと目を逸らした瞬間、そこでやっと気がついた。

 ――ああ、気付かれたんだ。

 なにがとは言えない。ただなんとなく漠然と、けれどそれは揺ぎ無い確信として、ことりと音を立てて私の心に落ち着いた。だから私もこう答えた。笑って、答えた。

「そうだね。もう、きょうだいに、なるんだもんね」

 一握りの寂しさが、言葉の狭間から零れ落ちる。不思議な心地でそれを見守りながら、心は異様なほど凪いでいた。まるで、これから吹き荒ぶ嵐の前触れのように。





 それから、何かが劇的に変わるでもなく、昨日までの日常も継続して今日に続き、今日終わる日常も明日に続いていく。何の変化もなかったはずだ。それなのに、目に見えて変わっていった。何かが。いや、わかってる。わかってた。心のどこかで。多分、きっとそう。――――わたし、だよ。



 目に見える世界が見る間に色を変えていった。いつも何気なく眺めていた日常ががらりと反転する。

 朝起きて、顔を洗って歯を磨いてリビングに向かう。出迎えるのは、楽しそうに談笑するお母さんと一条さんと、新さん。たったそれだけの何の変哲も無い風景が、それまでとは全く違う意味を持って私に知らしめる。楽しそうな三人を見て、どうしようもない息苦しさを感じる。

 だって、その何気ない風景が、完成された親子の図のようで、まるで入る隙が無いように私を追い詰めるから。それがこれから訪れる、私が見ることさえ叶わなくなる未来予想図そのものだと思い知らすようで、見ていられなかった。

 ついこの間までは確かに自分もそこに居たのに。私が居なくても、この幸福な光景は成り立つんだ。

 それを望んでいたはずなのに、それこそがなにより恐ろしくて、なにより寂しかった。何の変哲も無い、朝の風景。それがまるで拷問のように、朝から私の心を苛む。


 学校でも、そう。平穏だったはずの学校生活も、新さんが受験するという噂が広まってからはその話題のお陰で入学当初の再来の如く耳障りなものになった。

 それでも、前は平気だったのに。ああまたかって、その程度で済んでいたはずなのに。それなのにどうしてか、誰かに聞かれるたびに、小さな苛立ちがちりちりと胸を焦がした。鬱陶しくて、うんざりで、意味もなく無性に腹立たしく感じた。内心、同じようなことを聞く人々を根拠も無く見下しもした。


 慢性的な苛立ちが、私の心に巣くい始める。そしてその矛先はとんでもないことに、新さんへと向かっていった。

 理由など無い。根拠も所以もなにもない。それなのに時々、いや段々と、新さんと話すたび、見るたび、言いようのない苛立ちが募った。最初はそれを堪えたり、誤魔化したり、どうにかしてやり過ごそうと必死だった気がする。でもそれも時間の問題で、抑えきれないその感情は彼に向かって発散された。

 無垢で、無邪気で、罪も過ちもない、比類なく純粋な新さん。そんな彼にどうにかして傷をつけてやろうと、私の中の黒いものが容赦なく刃を向ける。いやだいやだと思うのに、自分を止められない。何かにつけてつっかかったり、じゃれあいでは済まされないような嫌味を言ったりやったり、不遜な態度や冷淡な態度を気まぐれにとったりもした。

 普通の人なら憤るだろう。もしくは嫌いになったり、倦厭したり、なにかしら距離を置こうとするものだ。でも新さんは、変わらなかった。新さんは、なにもしない。仕返しもしない。怒りもしない。嘆く様子もなく怯える素振りや嫌がる態度もとらず、一歩たりとも私から距離を置こうとはしなかった。むしろ――そう、むしろ積極的に私に接近してくるようになった気さえする。どんなことをされても言われてもめげることなく私に近付き、私への態度を一向に変えようとしない。不思議というより異様なほど、彼は私に対して普通だった。いっそ不自然なほどに。

 でもそんなことを続けられると、ますます私は増徴する。自分で自分が止められない。それでも新さんは変わらない。彼を苛んではその後自分を苛み、慰めに彼に優しくしてみてはその後また同じ事を繰り返す。悪循環だった。どんどん深みにはまっていく。

 そうやって、プラスとマイナスが、ころころと世話しなく反転しあう。忌々しいことにその二つはオセロのように相反していて、それだというのに容易く裏返る。白から、黒へ。黒から、白へ。その繰り返し。繰り返して、繰り返して、繰り返し続けて、解らなくなる。

 一体どちらが、表だったかと。



 意地もあったのか、それとも一歩も退かないその態度にこそ苛立ったのか、どうしても彼に八つ当たりする自分を止められなかった。苦しかった。悲しかった。怖かった。どんどん自分が変わっていく。

 こんなはずじゃなかったのに、罪もない彼を憎む自分を止められない。何度「あんたのせいで」と叫びそうになったか解らない。新さんが悪いわけじゃないのに。彼はなにも悪くないのに。彼のことは好きだったのに、いや今でも好きなのに、好きだからこそ憎らしくてたまらない。これから彼が得られるものを思えばこそ、大声を上げて何度でも詰ってやりたくなった。



 そうやって、いつしか私と新さんのいびつな関係が出来上がり、そしてそれは隠し通せないほどに肥大していった。

 新さんと私が接触していると、お母さんは不安そうな眼差しで私を見た。そしてその眼差しの奥には悲しみと苦悩の色が混じり、「どうして」と私を詰るように潤んでいる。そんなお母さんすら無視できるようになった。

 一条さんは時折笑いもせずじっと私を見つめ、私はそれにきっちりと作り上げた微笑でかわす。最早一年前とは程遠い感情で、一条さんを見ていた。

 後から思えば、ぐだぐだとそれらしい理由を並べ立てたけれど、実のところ口を閉ざす理由はもっと根本的なところにあったのかもしれない。ただ単に、一条さんに頼りたくなかったのだ、私は。私がずっと望んでいたポジションに、ぽっと出で納まってしまったあの人に縋るのが、どうしても我慢ならなかった。

 なんだかんだといいつつ心の奥底ではやっぱり、恨んでいたんだろうか。私の最初の居場所を奪い、なおも私に優しくする、あの一条さんを。簡単に母の大事なところに収まることのできる、父親という存在を。その証拠に、その頃私は言葉にできない想いを何度も抱いては積み上げた。

 『あなたたちなんかいなければ良かったのに』って。




 なんてことのない日常が、ひとつ、ふたつ、積み重なっていく。日を追う事に重くなる。

『かえでちゃん。学校――どう? 楽しい?』

 楽しいよ、お母さん。

『弟さん、入学したね一条さん』

 はい、先生。弟をよろしくお願いします。

『楓ちゃん、調子はどう?』

 上々です一条さん。

『一条さん、弟くんってすごいね』

 そうですかね。

『姉さん』

 なあに、新さん。

『一条さん、新くん紹介してよ』

 無理です。

『姉さん』

 なあに。

『一条君のお姉さんって結構普通だね』

 結構もなにも普通ですがなにか。

『姉さん』

 なにさ。

『一条姉、感じワル』

 知ってる。

『姉さん』

 なに。

『一条さんと新君って全然似てない』

 そりゃ赤の他人ですから。

『姉さん』

 なに。

『一条さんって新君のこと好きなんじゃないの?』

 張り飛ばすぞこのくそアマ。

『姉さん』

 なに。

『一条姉』

 はい。

『一条さん』

 はいはい。

『新君のお姉さん』

 ……はー、い。

『新の姉ちゃん』

 はあ。

『一条の姉』

 ああもう。

『お姉さん』

 うるさい。

 うるさいうるさいうるさいうるさい。

 うるっさい。

 黙れ。呼ぶな。どっか行って。ほっといて。

 私は一条なんかじゃないの。一条姉なんて名前じゃない。あなたの姉なんかじゃない。

 私は私。私の本当の名前は佐藤楓。私は、本当の私は――――。

 わたし、は。


『姉さん』


 ――――だれ。




 笑ってしまいそうなほど簡単に、歪んでいく。苦しくて、悲しくて、やるせなくて、もうどうしたらいいかも、どうしたかったのかすら解らなかった。

 どうすればよかったの。どうしたら、最善で、最良で、正解だったの。私には解らない。一条さんほど大人でもなければ、新さんほど頭も良くない。ただ普通に生活して、普通に望んだ人と一緒にいたかっただけなのに。

 わけがわからない。もうめちゃくちゃだ。気がついたら、こんなことになっていた。こんなの私じゃない。私はどこに行ったの。一体私は何になったの。私って、本当は、どんな子だったの。


 でも、もう、なにを思い起こそうと掘り下げようと、引き返せない。前に進むこともできない。歪んだ過去を積み上げて、色も形もない未来に向かって茫洋と歩き続ける。もうどうでもいい。なんでもいい。どうだっていいから、もうなんにもいらないから、全てなくしてしまいたい。早く終わりになって欲しい。

 ここではないどこかに行きたい。誰もいない、なにも知らない、私のことを知らない、まっさらな世界にいきたい。ゼロから初めて、私もまっさらな自分になりたい。新さんのように、みんなのように、綺麗な心で綺麗な未来を歩みたい。

 何度も願った。そんな夢のようなことを、何度も夢想して、何度も馬鹿みたいに願って、何度も打ちひしがれた。奇跡も、夢も、変化も変革も、なにも起きない。願って、願って、願い続けて、その果てにはいつも無為な世界が待っていた。

 新さんを傷つけて、お母さんを悲しませて、一条さんを失望させる日々。


 終いには、あれだけ望んでいなかったというのに、早く出て行きたいとまで思うようになった。

 早く出て行きたい。早く離れたい。取り返しのつかないことをしてしまう前に、全部終わらせたい。

 早く。早く。早く。


 ――――そんな時、だった。


「――――異世界」


 ここが?

 ここが。


 召還よばれたのは私じゃない。新さん。

 魔術――まほう。奇跡。違う世界。違う自分。

 いつか、私が願ったもの、全部。でも一つも、ただの一瞬も手に入らなかったもの、全て。新さんは持っていた。全て与えられていた。何もかも完璧で、完成していて、満ち足りている。彼が。全て。


 ――――私は全部失うのに!

 全部、無くなったのに!


 どす黒い憤怒が身の内に猛る。心を覆う暗雲は見る間に隅々まで覆い尽くし、私の心を一筋の光も灯らない暗闇の化け物へと変貌させる。

 いい機会だ。こんな好機はない。このチャンスもこの世界も、利用してやればいい。どうやっても新さんが私に立ち向かうというのなら、完膚なきまでに叩き潰してやればいいんだ。あの子の心も私のように黒く染まればいい。たとえ一点の染み一つだけでも、残してやりたい。彼の思い通りにならないこともあるのだと知らしめて、屈させてやりたい。

 どうせもう戻れないんだ。だったらもうなにをしようが関係ない。どうなろうが、もう知ったことではない。

 決別しよう、新さんと。彼を憎む、私の醜い心ごと。もうこれ以上彼を苛むことのないように。これ以上、無為な傷をつけることのないように。この世界で私ごと、私を捨ててしまおう。

 そうしたら、守れるだろうか。

 私から、新さんを。いつかの日、確かに抱いた誓いを。





 ――――だから。

 どんなに潔い決断を下そうと、どんなに清らかな美談を彩ろうと、それが一瞬のことであるなら、中身の無い宝箱と一緒だ。その時思い描いたそれを損なうことなく貫き通すことができないのなら、口先だけだと笑われるだけ。献身なんて、言葉にするほど簡単なものではない。私の選んだ選択が導き出した答えはたったのそれっぽっちで、それこそが今ある事実を証明していた。

 有体に言えば失敗したのだ、私は。たったこれだけのことなのに。たったこれだけのこと、でさえ。望んだ自分を得られず、望んだ未来を満足に作ることも出来ず、ただただ逸れていく道程を歩いていくしかない。首に縄をかけたまま歩き続け、歩みを進めれば進めるほど苦しいのに、立ち止まることもできない。

 だったらいっそのこと、首が落ちるまで歩き続けるしかない。歩いて、歩いて、歩いて、肉を殺ぎ骨を絶ち神経の一本足りとて残すことなくくびり落としてしまおう。それが唯一残った、私の意思なのだから。




 そして、そう。

 これが、一つの物語なのだとしたら、これほど読み甲斐のないものもない。ハッピーエンドでもなく、ましてや目を覆うようなバッドエンドでもない、ただ少し後味が悪いだけのこんな終末。


 それでもこれが物語なのだとしたら、ここで終わり。

 終了。打ち切り完結。最終回。

 ご愛読ありがとうございました。


 はい、ストップ。

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