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COMPLEX TRIP!  作者: Tm
第三章 佐藤かえで ~過去編~
34/37

  佐藤かえでとばか

 願っていたのは、たった一つのことだけだったのに。

 お母さんを守って、ずっと傍にいて、面白おかしく暮らして、つらいこともあるだろうけど支えあって、お母さんの横で見守って、見守られて、そういう感じでずっと生きていく。それだけが目標で、願いで、望みだったのに。

 でもそれって、そんなに、いけないことだったのだろうか。そんなに、分不相応で、途方もない願いだったりしたんだろうか。他愛もないとさえ思っていたこの願いは、そんな資格などないと容赦なく切り捨てられるほど、私にとって相応しくないものだったんだろうか。

 それだけなのに。それだけだったのに。それがなければ全てに意味がなくなるくらい、私にとって唯一だったのに。それなのにそれこそ、望んじゃいけないものだったんだろうか。

 だったら私の人生に意味なんてない。意味なんて、なかったんだ。誰かの都合の為に簡単に切り捨てられちゃうくらい価値のない、薄っぺらなものだったんだ。そんなのが私の人生で、私なんだ。私は、そんなもの、だったんだね。

 いや、そうか。そういうことか――――。




 何が、ひどいってそりゃあ、その事実。

 お母さんから離れるとか、私一人が家族から引き離されるとか、もちろんそんなの受け入れられるわけがなかったけれど、一番ショックだったのはなによりも、自分自身にだ。ここにきて今更、気づくはずのなかったことに気づかされた。『お母さんを守る』だって。とんだ茶番だ。そんな虚構を後生大事に抱えて、それを支えに私は十数年を過ごしてきたなんて、愚か過ぎて笑えもしない。

 『守る』だって。馬鹿か。私が守りたかったのは、守り続けていたのはお母さんなんかじゃない。私自身だ。ずっとずっと、目の前のものから、お母さん自身からも目を逸らして、お母さんを守るなんて口だけの大義名分ぶら下げて偉そうにふんぞり返ってたって訳か。その実結局は自分がお母さんに見捨てられないようにって、お母さんには自分が必要なんだって、思いたかっただけの癖に。それでただそのちゃちなハリボテみたいな嘘っぱち並べてお母さんにしがみついて生きてきた。

 冗談じゃない。見下げた根性だ。性根が腐ってるとしか思えない。それでなお且つ偉そうにお母さんの結婚の是非を問おうだなんて滑稽すぎて羞恥心すら湧いてこない。ここまで自分がクズだったなんて、自分の事ながら呆れてしまう。そりゃあ罰も当たるってものだ。いずれ家族になる新さんや一条さんよりも、誰より一番大事だと謳う母親よりも、自分の幸せを最優先させたんだから。子供だったら普通親の幸せを喜ぶもののはずなのにさ。

 挙句の果てにいるかどうかも定かでない神仏に頼って、奇跡を願って、終いには死者を見下していたくせに、この世にすらいない父親にまで縋ろうとしたってさ。無様というより最早惨めだ。見苦しいよ。見られたもんじゃない。

 ここになって今更こんなことに気付くなんて。とんでもない。本当に、とんでもない。一番の裏切り者はここにいた。私が、私を、裏切ったんじゃないか。酷い顛末だ。因果応報だ。嘆く権利もない。私に残された道なんて一つしかない。いや、一つもない。

 もういい。全部いらない。全部捨てる。私には必要ない。もう何もいらない。もう求めたりしない。何も信じない。誰も信じない。私自身を、絶対に信じない。もう誰のことも、願わない。





 そのパーティーまでの準備とやらは、それはもうなんの滞りもなく着々と進んだ。日程を知らされてから、そのお披露目で着るものを買いに行ったり、パーティーでの作法を新さんや一条さんに教わったり、あれやこれやと諸注意を受けたり、じっくりと、けれど確実にその日は来た。

 その間私はその日が来るまでに何度も何度も意味のない自問自答を繰り返して、夜ベッドの中で苦悶しては疲れ果てて眠り、朝になるとできうる限りの笑顔をこさえ、まったく馬鹿馬鹿しくなるくらい同じ事を繰り返す。あと一月、あと一週間、あと一日と数えるごとに、いやだいやだと小さな子供のように泣き喚きたくなる心を押さえ込んで、その日を迎える覚悟を積み上げていった。

 誰かに話すなんて発想ははなからなかった。だって、誰に言えるというの。こんな話。話したところで、なんになるというの。誰が聞くというの。終着点がもうすぐそこに、見えた話を。




 お母さんと一緒に選んだドレスは紺色のワンピース。そんなに派手な様式も着たくなかったし、加減もわからなかったから、変に安っぽく見えたり下品に見えたりしないように、膝丈のシンプルなものにした。髪はそんなに長くなかったけど斜めのアップにして、淡い色合いの花を差し込まれた。首にはパールのチョーカー。これは一条さんに贈られたもの。

 お母さんもお揃いみたいに髪に真珠の飾りをさしていて、ドレスはごく淡いシャンパンゴールドの、シフォンドレス。ふわふわしたお母さんにぴったりの服で、それは一条さんと選んだみたいだった。本当に、綺麗だったの。



 会場は一条所有の洋邸で、二階建てのちょっとレトロな様式だった。大正時代に作られたという割には管理がいいのか随分綺麗で、日当たりのいい大広間はテラスからそのまま整備された庭に出れるという、どこかのテレビ番組で見たことがありそうな典型的なお屋敷だった。

 パーティーが始まるまでの間に一度そこまで案内されてから説明を受け、二階に用意された控え室でそれまでの時間を潰すことになった。

 その控え室は淡いクリーム色の壁紙で、西日の当たる居心地のいい部屋だった。意匠の凝った額縁に入れられた楕円の鏡が小さな照明をはさんで等間隔に壁に並んでいて、どの角度からも自分が見えて面白い。

 そんな部屋をお母さんと一緒に物珍しく見渡しているところに、新さんと一条さんが入ってきた。


「いいねえ二人とも。とてもよく似合ってる。なあ新」

「うん。いいと、思う」

 そういう一条さんはアスコットタイのタキシードで、新さんはクロスタイのタキシードだ。二人とも嫌味なくらい足が長いので眩しくて目を逸らしたくなるほど完璧に着こなしていた。一条さんは髪を後ろに撫で付けていて、初めて会ったときみたいなナイスミドルになっている。新さんはアシンメトリーみたいに片側だけ撫で付けている。これがまた余裕がにじみ出るのか、なんともいえない色気があるから始末に終えない。

 こんな出来すぎた人たちに褒められても卑屈な感情になるだけだといういい例だ。お母さんもそう思ったのかアイコンタクトでお互い苦笑いを交し合う。解っててもやっぱり腹立つよねーってことだ。ここは一つ意趣返しでもしてやろう。

「照れるなあ。あ、じゃあどっちが似合ってます? 私とお母さん、どっちの方が綺麗?」

 あざとくはにかみつつ言うと、私の意図するところを察したのか隣でお母さんがくすっと笑う。お母さんはお母さんで「そうね。どっちなの?」なんてノリノリのいい笑顔で小首を傾げる。反して、一条さんと新さんは「え」とばかり口を開けてに固まった。

 ざまあみさらせ。どっちを選んでも重箱の隅をつつくように苛んでやるわ。

 ほくそ笑んだ瞬間、けれどやってくれやがりましたよ一条さん。それはそれはいい笑顔を浮かべたかと思うと突如、隣の新さんの肩を引き寄せるように抱いた。

「そりゃあ勿論決まってるじゃないか。新が一番カワイイよ」

 イラッとするくらいに輝ける惜しみない笑顔を隣の息子に向ける父の図。ザ・ワールド発動かと思われるほど、時が止まった。

「――よし。そろそろ帰ろっか、お母さん」

「そうねー。やる気失せた。帰りましょ」

「待って。俺も帰る」

「おーっとっと、待った待った待った。ウソウソウソ、ジョークだよジョーク。やだなあノリ悪いよみんな」

 いやあなたはノリすぎでしょ。引いたわ、ガチで。

 全員の白い目を一身に受けつつも、わざとらしく困ったような笑顔で一条さんははにかんだ。

「でもみんな似合ってるのは本当だよ。楓ちゃんは可愛いし、新は僕に似ていい出来栄えだ。それに紅葉さんはいつも可愛らしいけれど今日は特別……綺麗だ」

「始さん……」

 けっっっ。

 キザったらしが。似非フェミニスト気取りが。全員褒めてるようで約一名にのみ真心尽くしてるのが丸見えだわ。とってつけたように私に可愛いとか抜かしたところはさておいても新さんの事だって褒めてるように見せかけてさりげなく自己賞賛だし。薄っぺらい賛辞に騙される私と新さんではないわ。

 じと目で変わらず冷ややかーに見上げるも、けれど約一名には効果抜群だったようで、胸焼けするような甘ったるい視線が二人の間で交わされている。このバカップルめがっ。

 と、ギリギリ歯を食いしばったところで控え室にここんっと軽いノックの音が聞こえた。

「ああ、もう時間か。じゃあ寂しいけどお先に失礼するね。新、紅葉さんと楓ちゃんを頼んだよ」

「はい」

 そう言って、しっかりと返事をした新さんへ朗らかな笑みを向けると、一条さんは「またね」とウィンクを残して控え室から出て行った。その扉が閉まる直前、すぐさまその取っ手を掴む。

「楓?」

「ちょっと一条さんに聞きたいことあったから聞いてくる。すぐ戻るから」

 後ろを振り向かずに一口にそう言って小走りで一条さんの元へ向かう。声をかけるまでもなく、私の足音に一条さんを呼びに来た秘書らしい男の人も一条さんも、同時に足を止めて振り返ってくれた。

「楓ちゃん? どうしたの」

「あの、言いたいことがあって」

「ん。なにかな」

 特に急いでもいないのか聞いてくれるみたいだけど、いかんせん他の人がいる前でっていうのも気が引ける。いや、邪魔だとか不都合があるとか、そんなんじゃないんだけど。それでも私の態度で察したのか一条さんは片手で先に行くように促してくれて、改めて廊下には私と一条さんの二人だけになった。

「それで、どうしたの」

「はい、あの、今日くらいは外してほしいなって、思いまして」

 素なのかそれとも惚けているのか一条さんが小首を傾げる。あ、その顔新さんみたい。本当に似てるよねえ。まさかの叔父でも、やっぱり親子だ。いやいやいや。そうじゃなくて、なんとなく言い辛いけれど、でも言わなくては。

「あの、えーっと、私を見守ってくれてる小人さんたち、というか、ですねー……えーと、うーんと」

 ああもう。今度こそ本当にきょとーん、だ。だってなんて言えばいいかわかんないんですよ。素で「私のSP」とか言えるほど玄人じゃないし。中学生に何言わすんじゃコラ、だ。

 と、しどろもどろしていると、頭上でふっと一条さんが噴出したようだった。堪えきれないとばかりにくつくつ笑っている。うぐぐ、屈辱。

「ふっ、くくく。小人さんかあ。可愛いねえ、楓ちゃん」

「止めてください」

 思った以上に冷ややかな声が出た。なんか一条さんに可愛いって言われるとゾワゾワするんだよなー、背筋の辺りが。生理的嫌悪とでもいうのだろうか、これ。

「ははは、ごめんごめん。いやしかし、気付いていたんだねえ。……怒った?」

 さらっといいやがりますか。血は争えないなあ。どこかで聞いたような質問には答えず、出来るだけ無邪気に微笑み返してみる。

「ただでさえ今日は注目集めそうなのに、その上監視の目線とか勘弁です」

「監視とは言うねえ。いやでも、女は見られてこそ綺麗になるとか」

「あ、そういうのいいですから」

 少しでもこの人のペースに合わせるとすぐに足元をすくわれるといい加減理解した。もう高校生になりますしね、学習能力はあるんですのよオホホ。乾いた笑みを浮かべると、若干一条さんのどや顔が引きつった。

「楓ちゃん、絶対一年前より僕への風当たりきつくなったよね」

 それは違う。一年前からそうでした。ただ遠慮というフィルターが薄くなっただけです。

「一条さんと新さんからは離れないようにしますから。余計な目線を気にするよりお母さんの方に気を向けたいんです」

 卑怯かな。いや、だからなんだという話だ。今更なりふり構っていられない。

 困ったように眉根を寄せる一条さんを今までにないってくらい熱心に見つめると、どうやら折れてくれるらしい。仕方無しとばかりに、肩をすくめた。

「解った。小さな子供じゃないもんね。過保護すぎたね、ごめん。……でも本当に、できるだけ僕や新から離れないでね」

「はい。もちろん」

「それから」

 言質をとって安心したのもつかの間、一条さんが身をかがめ、近すぎるくらいの距離で私の目線を真っ直ぐに捉えた。まるで、揺らぐ水底を見極めようとするかのように。

「他に、話したいことは、ない?」

 射抜かれる。

 見透かされているのか。

 いや、関係ない。この人の土俵には、上がらない。

「特に、何も」

 何もない。貴方に言うべきことは。

「……本当に?」

「はい。……あの、時間、大丈夫ですか?」

「――ん。そうだね、そろそろ行かなくちゃ」

 一条さんが身を起こしたのに今度こそほっとして、もう追及されないように私も背を向けた。その背中に、穏やかな声が降りかかる。

「話したいことがあったらいつでも言って。最近楓ちゃんと話してないから、面白みがないんだ。――あとそれ、つけてくれてありがとう」

 やんなるくらい、優しい優しい声がする。振り返らずに、「暇つぶしのネタにされるなんてごめんです」とだけ返した。でも、本当はもっと他に言いたいことがあった。

 ――ごめんなさいと言いたかった。一言だけでいいから謝りたかった。

 すいません。ごめんなさい一条さん。こんなによくしてもらっても、結局私はあなたに何も返せない。あなたは私の父親にはならない。私に父親はいない。これまでも、これからも。ずっと、ずっと、この先ずっと、父親はいない。お父さんは、いない。

 控え室に着くまでスキップ気味で、声にならない言葉を繰り返した。



 控え室に戻るとお母さんは椅子に座っていて、新さんがその前に立ってなにやら和やかに話していたようだった。そうして戻ってきた私に気付くなり、新さんは聞いてきた。

「なんだったの」

「ん、ほら、考えてみれば会場ってつまり『一条』だらけじゃない? 一条さんのことなんて呼べばいいですかーって聞いたら「パパって呼んで」だって」

「セクハラじゃないか」

「ね。法廷に立ったら新さん証言よろしく」

「任せろ」

 本当はそれは前日の夜に質問済みのやりとりだったけど、今しがた尋ねたかのようにさらっと軽い調子で言うと、新さんは疑いもせず渋い表情を作る。日ごろの行いの成果だね。

「ちょっとちょっと。あんまり始さんのこと苛めちゃ駄目よー、二人とも」

 苛めてないよ。半分本気なだけだよ。そんなことを新さんと言い合うと、「始さん泣いちゃうって」とか言いながら、自分も笑うお母さん。あんまり緊張した様子でもなくて、少しほっとした。

 お母さんはなにも言わないけど、一条での心象が良くないのはきっと解っているんだろう。それは私だって同じだ。今更他人にどう思われようとかまわない。でもお母さんにその余波が及ぶことだけは許せない。例えたかが知れてるとしても、できることをしよう。

 そんな決意を胸に固めているうちに、再び控え室にノックの音が響き、常田さんがのっそりとドアの狭間から顔を覗かせた。

「お時間です」

 それだけ言ってドアを開放して、私たちに促す。さっき私が出て入るまでの間には常田さんなんて微塵も見かけなかったのに、いつのまに扉の前に接近していたのか。下手したらその辺のホテルより廊下が長いこの場で、ちらりとも見ないというのも変な話なのに。相変わらず謎な人だ。

「はーい。じゃあ行きましょうねーかえでちゃん、新君」

 にこにこしながら椅子から立ち上がるお母さんに続くように返事をしつつ、私はその場を動かなかった。私を先に行かせようと思ったのか、新さんが顔を覗き込んでくる。そのきょとんとした無邪気な横顔がついさっき見た誰かさんとカブって、なんだか微笑ましくって笑ってしまった。

「なに」

「ううん。あのね、お母さんのこと」

 お母さんには聞こえないようにひそひそ声で話しかけると、新さんも「うん」とひそひそ声で返してくれる。それもなんだか、面映い。

「傍にいてね。ずっと」

「……うん。楓も」

「おう。任せるよ」

 ちょっと驚いたようで子リスみたいに目を丸くした新さんは、けれどきりっと気を引き締めるようにしっかり頷いてくれた。だから私も安心して頷き返して、行こうと新さんに促す。

 新さんは頼もしい。頼もしくなった。これでいい。安心、できるよ。

 居心地のいいその空間を振り返ることなく、私たちは会場へと向かった。



 きらびやかな、空間。そこだけが別の空気、別の時間、別の世界を醸しているみたい。

 見上げるほど天井は高く、くもの巣状に見事なシャンデリアがかかり、きらきらと絶え間なく昼の星のように瞬く光。そういう構造なのか他の部屋とは比べるまでもなく格別明るく、昼間だとしてもさっきの控え室とはまるで明度が違う。これはきっと夜でもかなり明るくなるだろう。

 一度はそれにほーっと目を奪われたけれど、今はそういうわけにもいかない。なにしろこの空間にも負けないくらい煌びやかな人々が今、目の前に軒を連ねている。呆けた姿なんて晒したら即笑いものだ。歩きにくい深紅の絨毯の上を慣れないミュールで一歩一歩丁寧に歩きながら、なんとか一条さんのもとまではぐれないようについていくことができた。歩くだけで相当の疲労感を覚える。

 うぐぐ、早くも座りたくなってきた。けれどそういうわけにもいかないので、佐藤さんは我慢の子ーと堪えるしかない。今回のパーティーは立食らしくて、おいそれと座ることができない。壁際に椅子が並べられてはいるけれど、今一条さんから離れて椅子で孤立するわけにもいかないからだ。とりあえず一条さんが紹介する人にそこそこ挨拶してそこそこ愛想笑いを浮かべてそこそこ大人しくしている。そんなとこ。

 そんな中で慣れない薄ら笑いを浮かべつつ会場をさりげなく観察してみるとまあ、見るわ見るわ。私は芸能人ですかってくらいの注目っぷりだ。例えその視線に芸能人に向けられるような好意が含まれていないということは置いておいても。さすがに近所のおばちゃんほどあけすけに見るような無作法をする人はいないようで、けれどそれでも視線はビシバシ感じる。覚悟してたことだけど、人に見られるって疲れるなー。内心げんなりする。顔に出ないように努めるので精一杯だ。

 でも、お母さんは、違う。一条さんの斜め隣に控えて、けれど毅然と前を真っ直ぐ向いて堂々としていた。なにも後ろ暗いことなんてないと明言するかのように、背筋からかかとまでぴんと張っている。

 やっぱり、お母さんは強い。私が思っていた以上にお母さんは強くて、しなやかで、かっこいい。きっと私だけじゃなくて一条さんも新さんも心配していたはずなのに、その諸々を全て跳ね飛ばしてしまうような力強さを感じる。


 ――――解ってた。


 お母さんが、ずっと私を守っていてくれたこと。私がお母さんを守ると心に誓いながら、ずっとお母さんに背負われ続けていたこと。そしてそんな私を許して、ずっとずっと、背負い続けてくれたこと。その為に捨てたものなんて、あの人に言われなくても数え切れないほどあったことも知ってる。

 でもお母さんは文句も言わず、嘆くこともなく、今みたいにただ真っ直ぐ前を向いて歩き続けてきたんだ。一番大事なものを無くしてから、それでもなお沢山の物を捨て続けて、ずっと、私だけは落とさないようにしながら。私はそんなお母さんにずっと甘えてきた。しがみついてきた。

 だからもしも、もしもこれからお母さんが報われるとしたら、それは一条さんと一緒になることなんだと思う。一条さんと支えあって、新しい人生を歩んで幸せになったとき、その時漸く報われるんだろう。

 その為に今私がするべきことは一つしかない。それだけしかできないし、その程度しかできない。それでもこれまでお母さんにもらったものを少しでも返せるなら、その足がかりになれるなら、これくらいのことはほんの瑣末な代償に過ぎないのだろう。


 ――ずっと、口ばかりだったから。

 こんな時くらい、一度だけでも、叶えてあげたい。

 守ってみせたい。お母さんの望んだ幸せを。


「どうした」

 ふわりと、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。いつのまにか、新さんが横に並ぶように立っていて、手には二つのグラス。控えめに注がれたオレンジ色が、ゆらりと傾けられた。

「あら、ありがとう。いただきますわ」

 わざとらしく気取りつつ、差し出されたグラスを受け取って少しだけ口に含んでみる。絞りたての、ちょっと酸っぱくて甘苦い、オレンジの風味が舌の上に広がった。ああ、苦い。

「む、これはフロリダ産のオレンジの味がする」

「誤魔化せてないよ。変な顔してた、楓変な顔」

「二度も言うな。レディに向かってそういうこと言うとか、そのデリカシーの欠如は見過ごせないよ新さん」

 ぷんと拗ねた振りをして、顔を逸らしてみる。危ない危ない。気取られるかと思った。いや、もう気取られてるかも。気をそらすためになんかないかなんかないかと会場をぐるりと見渡したとき、それに、気がついた。

「……新さん」

「なに」

「私ちょっくらレコーディングしつつ雉撃ったついでに花摘んでくるわ」

「は」

 言うが早いか、グッドタイミングで前を通りかかった給仕のお兄さんに今しがた口をつけたばかりのグラスを預けて、一歩踏み出す。けれどその後ろ手を、新さんに素早く掠め取られてしまった。

「俺もついていく」

「いや出待ちとかマジ勘弁。そういうのは事務所通してください」

「楓」

 あくまで軽いノリで押し通そうとするも新さんは乗ってこず、逆に押し留めるように私の名を呼ぶ。掴んだ腕を拒むようにさりげなく外して、私もあくまでスタンスを崩さず笑った。

「すーぐ戻るって。さっと行ってさっと済ませて帰ってくるから。これ以上言わせんな恥ずかしい」

 ダメ押しに肩をぽんぽんと叩いて、早歩きで歩き出す。さっき過った影を追いかけるように、私は会場を後にした。



 例え一度見ただけの顔だとしても、あれほどいかがわしい出会いならば忘れるはずもない。

 入り乱れる煌びやかな世界の狭間で目が合った瞬間の、あのしたり顔を忌々しく思いながら、ただでさえ絨毯で歩きづらい上無駄に装飾のついたミュールをしゃらしゃらと鳴らせて廊下を押し歩く。

 しかし無駄に長い廊下だ。これ帰りは慎重をきたさないと絶対に迷子になりそう。姿の見えない陰を追いかけることの焦りに、漸く辿り着いた角を勢いよく曲がる。

 ――と、思うやいなや、壁にぶち当たったとさ。やれやれ。

「やぁ」

「――ぅ、わ」

 予測しなかったその展開に足がもつれて、身体が後ろに傾く。ひやっとした瞬間、待ち構えていたように差し出された腕に腰を支えられ、ありえないくらいの至近距離で体勢を立て直すことができた。

 助かった――て、いやいや、わざとだろコノヤロウ。

「離してくれませんか」

「冷たいなー。助けてあげたのに」

「ありがとうございますぅ、命の恩人ですぅ」

「わあ、ミス大根」

 そういうのいいから。

 限りなく他人の男の人に触られていることは思った以上に気分が悪いらしいので、早々に距離をとる。見上げる先には、見知った面影。誰かにほんの少し似ていて、けれど飄々と重みの欠片もない笑みを浮かべる人。いつかのアイスを台無しにしてくれたその人は、大げさな身振りで一礼しながら、上目遣いで茶目っ気たっぷりに囁いた。

「ご案内いたします、お嬢様」

 今更その微笑みにうろたえる心なんて、残っていなかった。




 そういえば。あの時起動した携帯電話。

 それに内蔵されているボイスレコーダーの最長録音時間は15時間。世の中便利になったものだと感心しながら半ば悪戯心で忍ばせたそれは、一秒たりとも漏らさず最後まで機能し続けていた。最も後半はただの雑音か無音かで殆ど無駄に消費していただけだったし、初頭の録音模様もポケットに入れていたせいか異様にノイズが多かったり音が拾いきれていなかったりして、あの人の言うとおりさして何かの役に立つことはないだろうと思われる有様だった。

 とはいえ、例え鮮明に音を拾い期待される機能を果たし本来の役割を優等生ばりに全うしたところで、結果は変わらない。それこそあの人が示唆したとおり、何の役にもたたない。なんのためにもならない。私と同じで、ただそこにあるだけの、備えていようがいまいがなんら利便性に支障をきたすことのないものだと思い知った。

 15時間ぶんものそれを聞くためだけに時間を費やしたのち、それを削除するときになってなにやら無性に憎らしくなった。滑稽なだけのそれが存在することが、腹立たしかったのかもしれない。




 洋館の二階は、一回と違って客室などの細々した部屋が並んでいる。その途方もない廊下の突き当たり、一番端の部屋で、彼女は待っていた。控え室とは違いもう少し小ぢんまりとしていて、最低限の調度品と家具があるだけの、ごくシンプルな部屋だった。その片隅にあるソファに腰を落ち着けていた彼女は何か書類に目を通していたようで、私が入ってきたのに気付くとそれを傍らに置いて、向かい側のソファに座るよう促した。

「お久しぶり、でもないわね。先日は非礼が過ぎたわ。ごめんなさいね」

 謝意のかけらもない、そっけない社交辞令だ。それに答えない私を見て取ると、朔子さんはさっきまで目を通していた書類を、私の眼前に差し出した。

「これが用意した書類。目を通して異論がなければ最後のページの書名欄にサインして。要望があればなんでも言ってちょうだい」

数ページに纏められたそれを受け取ると、思いのほか薄っぺらくて、なんだか笑えてしまった。怪訝そうな視線を感じながらもそのささやかなページをめくり、読む振りをして目を伏せながら、その答えを告げることにした。

「私、考えたんです」

「――そう。なにを?」

 ひどく穏やかな、声だ。まるで思いやるように、聞き返してくれる。

 どうしてだろう。でも、どうしてかでも、どうでもいい。

 どうでもいいの、もう。

「私の人生って、こんなものに振り回されるほど、薄っぺらいのかって。何度も、何度も考えました」

 後ろで、くすりと笑う声がする。そりゃあ笑うだろう。見当違いだもの。

 私も笑った。答えは逆さだ。

「でも違うんですね。私の人生が薄っぺらいんじゃなくて、あなたたちにとって私がこんなものなんだって。あなたたちにとって、私の人生より、この紙の方がはるかに重い。ただそれだけのことだったんですね」

 ぺらりと、捲る。何が書いてあるかなんて、それほど細かく読んでいない。今は、きっと、どれだけ努めようと、頭に入らないだろうから。

 この数ページ分が、私のこれからと引き換えだ。あと一枚二枚捲ってしまえば終わる。こんなもの、だ。

「重いかどうかなんて、問題じゃないのよ。優先順位の話。ただそれだけ」

「……そう、ですか。そうです、よね」

 そうだろう。そういうものなんだろう。私個人の感情とか、諸々、考慮の上にも上がらないものなんだろう、きっと。

「でも、思うんですけど」

「……なにかしら」

「ここまでする理由、ですか。やっぱり、しっくりこないんです。もっと他にあるんじゃないかな、て、思えて」

 もっともらしいこと、散々言われたけど、どれも決定的じゃないような気がしたから。私に決意させるには充分だったんだろうけど。なんだろう。根拠もないのに、納得しきれない。

 そう言って朔子さんを見ると、ちらりと天井を仰いで、苦笑した。

「察しがいいわね。中学生の割にあなたって……いえ、もう高校生か。でもね、あなたがそれを知ったところで何が変わるわけでもなければ、理解も及ばないと思うけれど。それでも、聞きたい?」

 いや。今更、どうでもいいし。事実、なにも変わらないだろうと、私も思う。

 首を横に振りながら最後のページをめくり、備え付けられた万年筆で署名した。

「もういいの? 貴方の要望にはできうる限り応えたいの」

「いいんです。ただ一つ、約束してくだされば」

 それを手渡して、佇まいを正す。頭に過った人たちを打ち消して、胸いっぱい息を吸い込んだ。

「なんでも言うことを聞きます。できるかぎりやり遂げます。だから、そちらも完璧に遣り通してください。なんの心配もなく、何を不安に思うこともなく、ごく普通に暮らせるだけの日常を約束してください。半端な対応だけは、絶対にしないでください」

 言い切った。言い切れた。でもこれで何かが完全に絶たれてしまったような、気がした。

 すくみあがりそうな自分が怖くて思わず立ち上がると、朔子さんは真っ直ぐな瞳で私を見上げた。誰かと同じ、あの揺ぎ無い眼差しで。

「約束するわ。あなたが守るというのなら、やり遂げるというのなら、その限り、私も守る。守り通すわ」

 ――ああ、そう。

 それで充分だ。それ以上のことはない。信用したいとは思わないけど、何故だか疑る気にもなれなかった。私に出来ないことを、この人はできると、そう思えたからかもしれない。

 だから自然と笑って会釈をして、部屋を出た。けれど今度は膝が笑って上手く歩けない。数歩歩いて壁にもたれかかると同時に、背後から声がした。

「わかんないなあ」

 ああ、びっくりした。

 思わず肩が揺れそうになった。内心ばくばくと揺れる心臓を抑えつつ、壁に背を預けるようにして体勢を立て直す。名前も知らないその人は、数歩離れた先で不可解そうに眉根を寄せて私を見下ろしていた。

「なにがですか」

「だってさあ君ってあれでしょ、重度のマザコン。それがあんな風に簡単に身を引くかなーって。なに、そういう自分に酔ってるの。続かないよー、そんなだと。ちょっと甘いんじゃないかな、色々」

 ずばずばと言ってくれる。そうじゃないと言いたいけれど、むきになるのも肯定しているようで気にくわない。というか何故にあなたがつっかかってくるんですか。容赦のない侮蔑をひしひし感じる。ああ疲れた。

「なんなんですか一体……」

「ああ、俺。俺はね、未来のご当主様の、これまた未来の腹心の部下ってやつかな。元候補なんだけどねえ」

 あっそ、なんだかぺらぺら聞いてもいないことをご丁寧にどうも。ようは新さん関連の人ね。未来の部下って、これまた面倒そうな人が新さんの人生に食い込んでくるときたか。つくづく新さん苦労しそうだわ。なんてことをつらつら考える私の横で、またも勝手に話し出す。

「聞いたよ。君、小学生の頃同級生の女の子に片親のこと言われて、仕返しにそれはもうこっぴどく泣かせたんだって? その様子が子供の喧嘩にしてはあんまり苛烈なもんだから学校が君のお母さんを呼び出したら、手のひら返したように素直に謝ったってね。なかなか奇抜なエピソードだよねえ。お母さんのためなら意地も折れるときたもんだ」

「よく知ってますね」

「まあね」

 全く個人情報もなにもあったもんじゃない。人の黒歴史まで漁るとかえげつないわ一条め。

「そこまで知ってるなら解りそうなものですけどね」

「なにが」

 ふっと笑うと、今度は向こうの笑みが掻き消える。それをちょっと小気味よく感じながら、天井からぶら下がるすずらん型の照明を見つめた。

「仰るとおりマザコンですからねえ、我慢も限界なんですよ、いい加減。いきなり交際相手紹介してきたと思ったら結婚するとか言い出して、こっちの意見なんか聞きもせずにあっという間に同居してこんなところに連れてこられて。もううんざりなんです。こうなると自由になったほうがナンボかマシってもんです」

 ――ほんとウンザリ。自分がさ。

「自由のために大事な母親を売るってわけ。ていうか、切り捨てるって言ったほうが正しいか。意外と薄情なんだね」

 あーウザ。ばすばす地雷踏んでくるなあこの人。どうせわざとやってんだろうけど、その手には乗りませんから。

 大体、言われなくても知ってるから。そうだよ、あんたの言うとおり。

 最低。最低だ。こんな子供持って不幸だよ、お母さんは。はずれくじだ。

「人聞きが悪いです。てか、別に大したことじゃないじゃないですか。ちょっと親離れ子離れが早まるだけの話です」

 へらへら笑って、ただただ見上げる。

 なにも見ちゃいない。なにも見ない。もうなにも、見ない。

「なんと言われようと、やることはやりますよ。こう見えても、自分の発言には責任を持つタイプです」

「そう。でも、彼のことは。そういう気持ちは、なかったの」

 そういう気持ち。そういう気持ち、ね。

「好きですよ」

 そりゃあ、そうでしょ。

 もちろんお母さんのことも大好き。一条さんの事だって、好きだ。だから新さんのことも、好きだよ。あんなにいい子はそうそういないもん。好きにならないはずがない。でもね。

「でも――――すきにはならない」

 もしかしたらと思うこともある。でも全部、形になりもしない仮定の話だ。ありえない。これまでも、多分これからも。何もかも、もう今更の話。言った傍から空に浮かんで、現実味も何もない。ただただ、身体だけが鉛のように重い。

 ぼんやりしていたら、ふっと視界に影が差して追い討ちをかけるように頭に重みが増す。それに釣られるみたいにずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。ああ、まいった。身体に力が入らない。疲れたなあ。そんな私をじっと見下ろして無言でしゃがみこんだその人は、性懲りもなくまた私の頭に手を置いて、ぽつりと呟いた。

「泣かないの」

 無邪気な顔してなにを聞くかと思えば。なんだか可笑しくって、ちょっと笑って目を閉じた。

 もうお喋りは沢山だよ。

「泣きません、この程度で。誰が死ぬわけでもなし」

「そう。――――ばかだね。君って」

 うん、馬鹿なんだ。

 ずっとずっと、馬鹿だったよ。救いようのない、馬鹿だったんだ。



 不自然に凪いだ心をもてあましながら、一つ思いついた。


 ――――そうだ。

 あのコップを割ったことにしよう。そうして隠して、いつか持っていこう。それ一つだけでも許されるだろう。大事にしようと、確かにあの時誓ったのだから。

 あれがあればきっといつだって思い出せる。


 ちらちら、きらきら、過る輝き。

 どこかで見た萌黄色が、ずっと瞼の裏で灯り続けた。

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