佐藤かえでと取引
「取引、て……」
とりひき。
なに、それ。
てか、話す相手、間違ってるし。いやだって、部外者じゃん私。何も、知らされてなかったし。なんでいきなり私ですか。
え。
え――――わたし?
「あなたで合ってるわ、楓さん。正式な書類は追々こちらで用意させてもらうけれど今日は――それを受けるかどうか、あなたの意思を確認したかったの」
いやいや、書類って。ちょっと待ってよ。いきなり意味わかんない。出てけとか、縁を切れとか。
はい? さっきなんて言った?
「ひ……ひとりで、って」
呆れるくらい、喉が引きつる。
淡々と事務的に話すこの人から見れば、私はみっともないくらい今取り乱しているだろう。
だって意味わかんない。なんでいきなり。どうして、私が。
急に、心臓が身体の中から追い立てるみたいに打ち鳴らす。寒いのか暑いのか、握った手のひらに汗が滲む。
「じゃあ、言い方を変えるわ。みんなの幸せのために身を引いてくれるかしら? 佐藤楓さん」
――みんなの幸せ。
なに、その、ほわほわした言い方。幸せって、私は?
――いや。じゃなくて。
落ち着きなよ。落ち着いて。そうじゃなくてさ、色々おかしいじゃん。そうだよ。色々おかしい。さっきの話だとさ、この人あのお爺さんに恩があるんじゃないの? なのに爺とか言ってるし、邪魔するようなことばっかりしてるみたいだし。それに一条さんのことだって、言っていることが曖昧すぎるし。それにほら、あの写真。写真のことだって、ちゃんと聞いてない。
そうだよ。そう、落ち着いて。落ち着くんだ。そう、必死なくらい自分に言い聞かせながら硬く目を閉じて、数秒息を止めていた。何故だか、深呼吸したほうが力が抜けてしまいそうな気がしたから。
そうしてやっとの思いで最低限の自分にとっての体裁を整えて、どうにかこうにか朔子さんの方を向いた。逃げ腰のように、目を合わせることはできなかったけど。
「意味が、解りません。そんなことする義理もありませんし、させられる理由も無い。受けるわけがありません」
「いいえ。あなたは受けるわ。というより、受けざるを得ないの。あなたは断れないし、断らない」
「なんでそんなこと……」
いやに断定的で自信に満ち溢れたその物言いが気に食わない。
気に食わない上、信じられないことに――――怖い。心が、気圧される。
「解るわよ。だてにストーカー紛いの真似してないもの。あなたのことなら多少のことには検討がつく」
自嘲気味に言いながら、はぁ、と疲れたようにため息をついた。
疲れたのはこっちだ。いっそ何もかも投げ出したい気分でそれでも言うべき言葉を捜していると、ふいに車のエンジンがかけられた。常闇のように真っ暗だった車道に薄ら青いライトがパッと照る。
「時間が時間だし、もう出るわ。行きながら話すから。シートベルト、締めて頂戴」
あなたの言うことなど聞きたくない。このまま帰るから下ろしてください。そう言ってしまえたら、どんなに楽だろう。
けれど私をそう言わせないだけの引力が働いていて、結局私は言われるがまま、けれど無言でシートベルトを締めた。車はそれと同時に緩やかなスタートを切った。
もう、止まらない。
「現状を話すとね、酷くややこしいのよ」
「これ以上にですか」
「……そうね。それ以上に」
私の棘を含んだ言い方に苦笑を返してくる。さっきとは打って変わって億劫そうだ。まるでこれから話すことを指し示すように。
「まずはあの男の話ね。あの男の目的はあなたを餌にして新を釣ること。そして自分の手元に戻すこと。それがあの男、一条源治の目的。だからあなたにはあれだけ甘い態度だったのよ。気味が悪くて何度席を立ちたくなったことか」
吐き捨てるように言ったその面差しは前を向いていたけれど、多分あの爺さんを思い起こしているのかもしれない。第三者の私ですら異様に思うくらいその面差しにはありありと憎しみが篭もっていて、とても一般における実の父親に向けるような眼差しには当てはまりそうもない。
――父親の居ない私に、その一般がどれほどのものかなんて、知らないけれど。でも、あの裏はありそうだけど悪い人ではなさそうなお爺さんに向けてそんな顔をするほどなのだから、あのお爺さんもよっぽどの食わせ者なのだろう。そんな人とにこやかに話して一瞬でもほだされかけた自分が怖い。
こんなこというと肯定しているみたいだけど、この人があんな不審な真似して呼び出さなけりゃ、完全にお爺さんのことを信用しちゃっていたかもしれない。それほど、いや、今でも半信半疑なのだから、困る。一体この人の言っていることと、あのお爺さんの言っていたこと。どちらが本当なのだろう。
「あの、さっきから色々大げさに言ってくれてますけど、私にそんな価値はありませんよ」
「あるわよ。……あるの。あの子は始に似て甘いところがあるから。あの爺もそれを知っているからあんな薄ら寒い演技までしたのよ。――あなた、ちゃんと解っているの。あの男はね、あなたが思う以上に自分本位で、我欲しかない、下劣な男なのよ」
――そんな、剣幕で言われても。どれだけあの爺さんを憎んでいるっていうんだろう。
意外なほどに感情をむき出しにして吐き捨てた朔子さんは、小さく息をつくと、改まったように落ち着いた声で言った。
「あの男、『あんなに子供らしい笑顔を浮かべたあの子は、初めて見た』って言ったわよね。近頃会ってない筈の祖父がどうやったら孫のそんな顔を見られるというの。十中八九盗撮か、なんにしてもまともな手段じゃないわよね。そんなことする爺が人当たりのいいお爺ちゃんな訳ないじゃない」
「……それは」
「それだってどうとでも言い逃れできるけど。だけどあなたに散々話をせがんだのだって、あの子とどれだけ関わっているか読み取るためよ。あなたが新を釣るための餌になりうるかどうかを見極めていたの」
――餌って。
いや、それにしても、やっぱり解らない。私が新さんの餌になるとか、どうにも理解できない。新さんがそこまで私を気にするだろうか。――そりゃ、見捨てられてもそれはそれで困るけど。
「まだ半信半疑って顔ね」
う。ばれてる。てか運転に集中してよ。こっち見ないで。意味はないだろうけどサイドミラーを見る振りをして顔を背けると、くすっと横で軽く笑われた。
「あなたってやっぱり素直。そういうところが付け入りやすいってあの男も見抜いたわよ、きっと。今後気をつけなさいな」
「……ゴチューコクどーも」
この歳でそんな話聞く前から全部疑ってかかるような疑心暗鬼な高校生が居たらお目にかかりたいもんですわ。けっ。
「ま、そりゃ私に言われたくはないわよね」
はいそのとーりです。あんたが一番疑わしいってんですよ。
「……始もそうだったのよ。あの頃はあれでも、馬鹿正直だった。親の決めた婚約者同士だったけど、とても素直で……ほんと、世間知らずなお嬢さんをお嫁さんにして。何にも知らないって顔で、ほわほわ笑う柔らかい人だった。それで感化されたのか、それまで仕事一辺倒だったのがどんどん顔つきまで変わっていって。……それで、欲が出たんでしょうね」
「あの……一条さんの、前の、奥さんのお話です、よね」
いきなり話がシフトチェンジしたから思わず確認を入れると、朔子さんは「そう」と頷いた。そのまま私の返事を待たず、過去を思い返すように話し始める。
「それまで爺共の話には大抵のことには逆らわなかった始が、否を唱えだしたのよ。一条のあり方に疑問を持ったのね。自分にはそれを変える力があると過信したのよ。若かったの。生まれたころから当主候補の一人に選ばれて、周囲から期待されてちやほやされてた。そのツケね、きっと。自分に自信を持ちすぎていた」
あの一条さんに若いときが……いや、あるか。あるよね。流石にあったか。
ほっとしたような信じられないような気持ちで、そんな一条さんを想像してみた。若くてニコニコ笑う可愛い奥さんが居て、自分の仕事も上手くいってて、権力もあって、若いうちからそんな力を手にしたら何でもできるって、思うかもしれない。幸福ゆえの活力、っていうか。多少のことには「大丈夫だろ」って思っちゃう気持ち。そんな、気持ちを持ったことがあったのかな。あの一条さんにも。
「まあ、結果的に言うと勿論返り討ちよ。その頃は奥さんと一緒に本家に居たから、多忙な始に付け入る隙は充分あったのよね。気付いたときにはもう彼女は笑わなくなっていて、まあ……色々あって、彼女が家を出たように見せかけてそのままなし崩しに離縁、ってわけ。そのごたごたで始の改革も元の木阿弥にされていたし、踏んだり蹴ったり」
「……それで」
「そう。それで始はどこまでも利己的な一条のあり方に見切りをつけて当主の座を降りようとしたけど、でも当然許されなかった。――もう解るでしょう? そういうわけで始も新に目をつけたのよ。そして誰かの手で懐柔される前に、自分の懐に囲ったの」
――そんなこと、言われても。
確かに辻褄が合っている話に聞こえる。聞こえるんだけど、違うような気も、する。そりゃ一条さんもあのお爺さんも一筋縄ではいかなそうなんだけど、でも一条さんはあのお爺さんとは似ているようで、根本的に違うような気がする。そうとしか思えない。
だって、あの爺さんは初対面で内面なんか底知れないけど一条さんは――あの人は、一年だよ。一年、そう濃密ではないにせよ、一緒に過ごした人だ。今言われた真実が事実だと裏付けるには足りない。そんなとってつけたような理由で一条さんが新さんを『息子』と呼ぶなんて、絶対に思えない。この人が嘘を言っているようにも聞こえないけど、一条さんがただそれだけの為に新さんと一緒に住んで、あんな風に笑っているわけがない。
きっとこの人が知らない真実があるんだ。それこそ一条さんだけが知ってる、理由が。そうでなくて全てが演技だって言うのなら、私は間違いなく人間不信になる。いや、もうその演技とやらの片鱗をあのお爺さんにまざまざと見せ付けられたんだけどさ。
それにそうだったとしても、どうだとしても、それで私がお母さんの下を離れる理由になるだろうか。ならないよ。いざとなればなりふり構わず大反対してお母さんとあそこを出て行けばいいだけの話だ。そうだよ。どうして私が一人で出て行かなきゃならないんだ。馬鹿馬鹿しい。
「話になりませんよ。あなたの言っていることだって、憶測でしかありませんし、私が信じる理由もなければ義理もありませんよね。その話がただあなたの都合のいいように事実を改竄されていると考えたほうがまだ納得できます」
一気に言って、ごくりと、唾を飲み込んだ。これ以上の話をされても、私には判断がつかない。解らないことはまだあるけど、このままやり込められてしまうよりマシだ。
気まずい気持ちで、けれどもう飲まれてたまるかと思い込みながら、暗闇に紛れて隣にそろりと視線を移した。彼女も私を見下ろしていた。表情は見えない。見えないというのに、ひどく居心地の悪い視線に晒されている。そんな気がした。
どのようかと言えば――駄々をこね泣きじゃくる子供を見下ろす、赤の他人のような、決して暖かくはない、眼差し。
「そうね。私の主観から話しているだけだもの。そう思ってくれてかまわない。けれど――あなたも何か思うところがあったから、ここにいる。そうでしょう?」
「そうですけど。でも、もういいです。無駄に混乱するだけだとわかりましたから」
なんて白々しい。頭の中で、自分が自分に鼻白む。彼女の言う『思うところ』が、まだ私の中に引っかかっているというのに。それはまだ鮮明に、私の大切な人の声そのもので、何度も思い起こすことができる。
『あんなに素直でいい子がそうあれない環境なんて、地獄でしかないんです』
『私は平気です。望まれるまま、それに従います』
『あの子が大好きなんです』
――――お母さん。
「何も知らなくていいと?」
「はい。もう、結構です」
『もっとよく考えるべきだ』
『僕はそんな覚悟を望んでいるわけじゃない』
――――一条さん。
「駄目よ」
「――は?」
「駄目。知りなさい。あなたにはその権利と義務がある」
『変な顔』
『寝なよ。大丈夫だから』
――――新さん。
『だいじょうぶだから』
ねえ、新さん。
「言ったでしょう。一条の当主は本来本家に居なければならないって」
ねえ、みんな。
「当主だからと言って、いつまでも押し通せるわけがない」
みんな、何を。
「ましてや一条となんの縁もコネもない素性も定かでない女性との結婚まで押し通すんだから」
なにを。
「あの連中が許すはずがない。遅かれ早かれ新か、始とあなたの大事なお母さんが」
何を、隠しているの。
「本家に囲われる。一生、あの家に縛られることになるのよ。――勿論、あなたも一緒にね」
――――は。
じれったいくらいゆっくりと顔を上げると、目が合った。息が止まりそうなほど真っ直ぐな、いつか見たことのある、その揺ぎ無い瞳と。
「そうなったらあなた自身の自由もないし、あなたのお母さんは飼い殺しにされていずれはあの女性と同じ末路を辿るでしょうね。良くてお人形、悪くて傀儡よ。まともな神経してたらあんな連中と付き合っていくなんて無理よ、絶対。もしくは始のように新を売るなら――あなたと、あなたの大事な大事なお母さんと、始は自由になって、素敵な人生を送れるんじゃないかしら」
――――は?
今度こそ掛け値なしに、顔が歪んだ。
怒り。怒りだ。不快だ。とにかく頭の中を無遠慮に乱雑にかき乱された、そんな最低な感覚が駆け巡った。
「馬鹿言わないで! いい加減なこと言わないでくださいっ」
「言ってないわ」
「言ってますよっ、さっきからめちゃくちゃなことばかり! 自由はないだの飼い殺しだの、なんだってんですかっ。売る? 新さんを? あの子は物じゃありませんよ! 馬鹿にするにも程がある!」
「黙って。静かにして。喚かないでと言ったはずよ。これで二度目。三度目は言わせないで頂戴」
なに。
なんなの? この人本当に新さんのお母さん? ばっかじゃないの? 馬鹿ばっかりだろこれ!
「あなたが新さんのお母さん? それこそ嘘でしょう。嘘なんでしょう。そんなわけないですよ。それこそ信じられない」
「信じなくてもいいから話を聞きなさい」
「だからっ」
「聞きなさい」
――悔しい。
こんな時、どうしたらいいんだ。どうしたら、それが正解だって言えるんだろう。
このままここを飛び出してしまいたい。けれどそれを絶対にできないと押し留める自分がいる。結局この人の、この人たちの思うがままじゃないか。どうしたらいいんだ。ああ、もう。
「解ったでしょう。始は新を自分の身代わりにするつもりなのよ」
「……違う」
「そうなの。あの男はそういう男よ。あの子の一生と引き換えに自由を望んでいるの」
「違う。違います! ……じゃあ、じゃああなたこそなんだって言うんですか! さっき言ったことと辻褄が合わない。何がしたいんですかそんな話を私に聞かせて! 一体誰の味方なんですかあなたはっ」
「私は、私の味方。それだけ。そしてその為には、新が必要なの。でも今本家に奪われたら元の木阿弥になってしまう。だから例え始の傍だとしても、もう少しだけ外に置いておきたいのよ。……その為に」
やんなるくらい温度のない言葉が、そこで途切れた。
無駄に長い一拍を置いて、朔子さんはぽつりと、けれどしっかりと宣言した。
「一条と縁を切ってもらわなければいけないの。――あなたに」
――――それは。
それはやっぱり、私だけなのだと、示唆していて。えもいわれぬ感覚に、皮膚の下がぞわぞわした。
「どうして、私が」
勝手に薄ら笑いが浮かぶ。
変だな。妙に息苦しい。
「あんな家でも一条だって最低限の血統は守ってきた。始はあなたのお母さんと結婚することと引き換えに相続権を放棄させられる。だからといって、次代の新までそんなことになったら示しがつかない」
一言一句聞こえているのに、意図文字たりとも意味が解らない。脳みそが動かない。動きたくないって、言ってるみたいに。
「うちの連中は、あなたが新を誑かして一条に取り入るつもりなんだって、本気で懸念している。怖いのよ。当主を意のままにしていなければ気が治まらないの」
――ああそうか。
そうか! 私が新さんとそういう仲になると!
酷い侮辱だ。顔が引きつるほど、頭に血が上った。
「ありえない!」
「あなたの意見は聞いてない。そういう可能性があるという事実が重要なの。それを忌避するためにはあなたごと囲って一生監視するか、あなたが縁を切るか。そのどちらかしかないのよ」
「どうしてそんな。ありえない。極端すぎる。異常ですよ!」
「あなたが新を変えたから。だからその可能性を見出したのよ」
そんな、そんなの。違う。私は何もしていない。何かしたとしても、それでもそれは違う。そんな話じゃない。この人もその一条の人たちも、勘違いしている。いや、そうじゃなくて解らないんだ。この人には。この人たちには。新さんのことが。彼のしてきたことが。
私が変えたんじゃない。そんなんじゃない。新さんは自分で、自分の力で乗り越えたんだ。この一年頑張って、自分で変わろうとして、変わって、受け入れたんだよ。一年かけてやっとの思いで、それまでされてきた全てのことを受け入れて、変わることができたんだよ。私が変えたとかそんな単純な話なんかじゃない。それは新さんの、新さんだけの、途方もない思いの結晶で努力の結果なんだよ。それだけのことを新さんは、成し遂げたんだ。これまでの一年。たったの一年で。それまで生きてきた十数年分の思いを、ひっくり返した。
それがどんなに凄いことなのか、何にも解っちゃいない。解ろうともしていない。そんな人たちの中で新さんはずっと一人で生きてきたんだ。誰も解ってくれない、解ろうともしてくれない、それこそ孤立無援の世界で。
悔しいやら悲しいやらで、喉が詰まる。なんでこんなにやるせないんだろう。どうして新さんはそんな世界で耐えてこれたんだろう。こっちは想像するだけでこんなに息が詰まるほど、苦しくて悲しくなるって言うのに。そんな子がどうしてあんなに優しくて、屈託のないいい子に育てるって言うんだろう。
凄すぎるよ新さん。なんで、どうして、あんな顔で笑えるの。笑ってくれるの。
「……そ、そうだと、しても、お断りします。私にだって、優先順位ってものがあるんです」
言い訳がましく聞こえたかもしれない。だって自分にですらそう聞こえた。
でも、ずっと前から私の気持ちは決まってる。お母さんを守る。一条さんが現れてからはそれを『見守る』に方向転換したけど、結婚する相手の実家がそこまで不穏なんじゃそんなことも言ってられない。例えお母さんが悲しもうと、これからもっと苦労しそうなところにお嫁になんか行かせられない。
「……お母さんのことね」
「関係ないでしょ」
思った以上にきつい口調になってしまった。それが余計に肯定してしまったようで、しまったとは思いつつも今更訂正しようもない。
反骨心に任せて顔を背けると、暗がりのサイドガラスの中の自分と目が合う。露骨なくらい、苦渋に満ちた情けない顔だった。そんな自分からも目を逸らす。
ああ、もう。誰か。
「貴方はそれでいいの」
なにが。
「本当にそれでいいの」
知らない。うるさい。
硬く目を閉じても、どこかで鳴るクラクションの音は耳を突き抜ける。
「そうやってまた逃げるのね。それで守ってもらうんでしょう? あなたの大事なお母さんに」
「あんたに何が解るってんですか!」
知ったような口をそれ以上聞かれたくなくて顔を上げてしまった。案の定、同情交じりの冷めた眼差しにぶち当たる。
ああ、もういやだ。散々だ。
「いい加減にしてくださいよさっきから! 知ったかぶらないでください何も知らないくせに」
「そうかしら。知ってるわよ。だって私、なんでも調べるもの」
「だから何をっ」
駄目だ。聞いちゃ駄目だって、解ってるのに。いやに生温い眼差しを向けられると、引き返せなくなるくらい煽られる。
「マンションにバイオリン、指輪」
「なに……」
それは。
「あなたのお母さんが、今まであなたを守るために手放したものよ。そこそこお嬢様だったのに駆け落ち同然で家を出て、好きな男とマンションの一室で暮らしてあなたを産んで、なのに夫が突然亡くなった。それから生きていくために一つ一つ大切なものを手放していったのよ。思い出のある部屋を引き払い、音大出の彼女がご両親に貰ったバイオリンを売って、最後には結婚指輪まで。かけがえのないはずのものと引き換えに、貴方を優先させたの。どう? 知ってた?」
「そんなの……」
知らない。いや、薄々気付いてた。でも。
でも――知らない振りをしていた。私の知らない何かに執着するお母さんを見るのがイヤだって、そんな幼稚な感情のせいで。それをこんな形で暴かれるなんて。――――無様だ。なんて惨めなんだ。
それでも未だ足りないのか、黙りこくった私に畳み掛けるように囁きかけてくる。
「あなたのお母さんが始と結婚するのだって、感情論だけかしら。金銭的に余裕のなかったあなた達が――いえ、これからあなたにかけるべきであろう金額はそう安くはない。それを考慮するとあなたのお母さんは始と」
「やめて!」
ああもう。もういやだ。お母さんまで貶めないで。
「わかりましたから、もうやめてください……」
どれだけ弱弱しい声が出ただろう。取り付くしまもないくらい、打ちのめされてしまった。
卑怯だ。こんなの。私にとって一番のタブーは、お母さんなのに。
「あなたのお母さんと始の結婚を認める代わりに本家に移れという声が上がっているの。その際の条件にも、一条の相続権放棄のほかにもう一つ――嫡子を設けないことまで入っている。……解る? 愛する人との子供は産まないと、作らないと、約束させられるのよ。そうでなければ婚姻は認められない。今だって――本家じゃ愛人扱いよ。当主に媚びる厄介な女だって」
――お母さん。
「当主を一刻も早く本家に戻せと囁かれる一因には勿論あなたもある。というかそのせいで付け入られているのよ。年頃の男女を一般の民家に住まわせていいはずがないって。状況証拠も揃ってるし、当主もそうそう好き勝手は許されない。それでも。それでもね、楓さん」
おかあさん!
「あなたが高校卒業までに出て行ってくれれば、もう少しは時間を延ばせる。そうすればそれまでならあの家でみんな仲良く過ごせるし、勿論あなたのお母さんも条件を緩和して始と円満に結婚できる。子供だって好きに設けることができるようになるわ。新も高校卒業……いえ、大学卒業までは本家に近寄らずにすむ。あなたが一条……新と関わらないと確約してくれれば、事が円滑に進むの。解るでしょう?」
ああ。
そうね。
「あなたが約束してくれれば、私も約束する。私があなたの代わりに大事なお母さんを守ってあげる。今後あの家から脅かされることのないよう、私があなたのお母さんの盾になると約束するわ。勿論あなたの今後についても、最大限のサポートをさせてもらう。それが私の条件」
――――そう。
「解った?」
ええ。
「解りました」
解りましたよ。ええ、全部。全部ね。
気がつくと、車は既に止まっていた。硝子越しに見える対向車線の向こう側からぼんやりしたオレンジ色の光が辺りを照らしていて、そこが家のすぐ近くにある公園なのだとすぐに解った。だから、もう着いたのか、とだけ思ってシートベルトを外す。同時にカチャリとロックが外れる音がして、ドアノブに手をかけた私の背後に付け足すようにして彼女は言った。
「次会う時までに、心を決めておいて頂戴。――待ってるから」
そんなようなことを言っていたけど、車を降りて夜光虫みたいに公園の明かりに向かってふらふらと歩く私には、返事を返す余地もなかった。ただ、ぼんやりしつつも「送ってもらったのに一言も無しかよ」なんて他人事に笑いながら、もう誰もいない静まり返った公園の敷地に立ち寄る。
あちこちにオレンジ色の小さな街灯があって、遊具は一塊にかたまり、それから中央には一際輝きを発する大きな明かりがある。それに寄せられるようにふらふら歩いて、見上げながら、もうまともに働きもしない頭でつらつら考えた。
お母さんは、私に言うよりも早く、新さんと出会っていた。それは何らかの必要性があったということで、少なくとももうその頃には――結婚の意志が固まっていた。多分打ち合わせや、これからの計画を話し合っていたのかもしれない。新さんを交えて。
それなら最初から、私が引き合わされたあの時から既にお母さん達の結婚は私の同意待ち――いや、それすらも見越して、ただの猶予を設けていただけなのかもしれない。恐らくは新さんもそのことを知っていた。知らなかったのは、知らされなかったのは私だけ。
それは多分諸々の事情を知っていたら私は、絶対に反対したからだ。そんなことを知っていたら、首を縦に振るはずがない。問答無用で拒否しただろう。そうなる前に一緒に過ごしていれば、多少なりとも絆される。事実、私はあの二人に気を許してしまったし。
そしてそこまでするのはきっと、どうしても結婚をする必要があったからだ。籍を入れなきゃ一生お母さんは愛人扱い。良くて内縁の妻。それだって認識は変わらない。それだけじゃないかもしれない。もしかして一条さんはお母さんの籍に入って一条と縁を切るつもりなんだろうか。
――ああそうか。
違う。新さんだ。新さんを一条から引き抜くつもりなのかもしれない。そうだ。きっとそうだ。一条さんは新さんを利用したいんじゃない。お母さんは自分の為に結婚したわけなんかじゃない。
――守りたかったんだ。凍えるほど凍てつく針の筵から。惨いまでの、途方もない牢獄から。
ただ、新さんを守りたかった。
それだけだ。そうなんだ。きっと。ううん、絶対。絶対そうだ。新さんの為に。
――『あの子』の、為に。
「はっ」
殆ど吐息のような、乾いた哂いが口から零れた。眩い明かりに群がる羽虫を見つめながら、自分でも薄ら寒く思えるような奇妙な笑みが浮かんでくる。
だってあんまりだ。一条さんとお母さんは新さんの為に結婚をする。そうでなきゃ新さんは一条に引き戻されてしまう。朔子さんの条件は、私が約束を守ればお母さんを守るということ。裏を返せばあの人がお母さんの敵に回る。結婚を反対すればお母さんが悲しむ。一条さんが悲しむ。新さんも多分、悲しむ。
きっと、今の状態の鬼門は私だ。私がつっぱねれば一条に付け入る材料を大いに与えることになるし、受け入れれば――。
受け入れたら、みんなから、お母さんから離れなきゃならない。そんなのいやだ。でも私は守るって決めた。決めたのに、ずっと守られていて、今だって余計なことを教えまいとみんな黙っていて、私は知らされなくて、それから。
それから。
「……うぅ」
立っているのも辛くなって、しゃがみこんだ。
力が湧かない。もう一歩も歩けない。
解ってる。解ってるよ。答えなんて一つしかない。はなから選択肢なんてない。お母さんを、お母さんの幸せを守るために私は――――。
ああ、でも。ねえ、でもさ。
どうしよう。一歩も歩けない。立ち上がれない。逃げてしまいたいけれど、逃げる気力もない。
どうしよう。どうすればいいの。
誰か。
だれかだれかだれか。
神様。仏様。この際悪魔でもなんでもいい。
魔法でも、奇跡でも、なんでもいいから。ほんの少しだけ、一瞬でも、いいから。
お願いだから、どうか。
誰か。
だれか。
「おとうさん」
これまで生きてきて、一度もまともに思い起こしたことのないその人を、呼んでしまった。
でも、そう、当然。
当然誰も来ない。神様も仏様も悪魔も誰も。お父さんも。
来るはずがない。何も起こらない。誰も何も信じず今まで生きてきた私に手を差し伸べてくれる誰かなんて、居るはずがなかった。
だから私はそこでずっと馬鹿みたいにしゃがみこんで、延々と自分の影を見つめ続けた。
気が遠くなるくらい、ずっと。
それから帰宅すると、一条さんから私とお母さんに向けて、一条の主催するパーティに出てみないかという提案をされた。それは事実上、一条さんの再婚相手のお披露目の場を設けたということ。そしてその時が彼女の言う『次』なのだと、未だ働かない頭の隅っこで、漠然とそう感じた。




