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COMPLEX TRIP!  作者: Tm
第三章 佐藤かえで ~過去編~
32/37

  佐藤かえでと一条朔子

「まずは移動しましょうか。時間はまだ大丈夫?」

 そう言うとさっと私にコートを鞄を手渡してくる。問答無用というよりただの確認に過ぎないつもりなのか、答えを待たずに彼女は扉を開けた。

 ――これからか。私もまた、聞くまでもなく解っていた。




 今が、冬で良かった。煌びやかな空間から逃れるように一歩踏み出し、その凍て付く外気に晒された瞬間ふいにそう思った。今更だけど、あの部屋は快適すぎた。丁度いい室温に居心地の良さを設計しつくした空間。現実に縛る時計も無く、あそこだけ時の流れが違うようにまで感じた。あれじゃあ誰だってリラックスせざるを得ない。恐るべしブルジョワの世界。調度品が高いから緊張するとか、そういう次元も超越するように作られてるんだね。勉強になりました。

 そんなことをうだうだ考えつつ朔子さんの後について歩いていたら、バタンという音に意識を引き戻される。おっと。いつのまにかすぐ目の前に朔子さんのものらしき車。黒の外車だ。艶やかで滑らかな車体の右ハンドルには既に彼女が座っている。ボーイさんらしき人が向こう側でドアを開けて待っているようで、こっちに隙のない笑みを向けて待っていた。ひえー、すいません。だって入り口から出てからちょっとしか歩いてないんですけど。いつのまに車待機させてたんですか。

 頭の中で言い訳しつつ、引きつった愛想笑いを浮かべながら車に乗り込む。常田さんの車と負けず劣らずの座り心地に俄かに感動している間にドアが閉められ、それと同時に朔子さんはアクセルを踏んだ。

「一応シートベルト、して頂戴ね」

「あ、はい」

 ですね。私のせいでパクられても困るし。ってそういう問題じゃないけどさ。わたわたシートベルトを締めつつ、さりげなく内装をチェックしてみる。外からは真っ黒に見えたけど、中のシートはワインレッドよりちょっと暗めの紅い色。しかもさりげなく華の香りがする。どこかで、嗅いだ匂い。うーん、大人の女の車って感じ。この人、いちいち隙がないよなあ。まさに格好いい女の代表。

 心の中で何様な品評をし始めると、その思考を遮るように朔子さんが前を向いたまま凛とした声を発した。

「時間がないからこのまま話すけど、いい?」

「あ、ハイ」

 きた。急に突きつけられた緊張に自然と背筋が強張る。

 さあ、いよいよお出まし。ここからが本番。楓、ファイト!

 気を引き締め、こっそりと深呼吸をした。余計なことに気を取られずに、冷静になろう。理性、理性。揺ぎ無いハンドル捌きを眺めながら、できうる限りの平常心を装って私も腹を決める。

「そうね。まずは、貴方も聞きたいことが山ほどあるでしょうから、なんでも聞いて。答えられることは答えるから」

 うん。ということは、答えられないこと、ないし答える必要が無いと判断したことは答えないと、そういうことですね。ってことはうだうだ様子を伺って聞いてても時間の無駄かも。

 ええと、そうだな。とりあえずさっきまで気になってた、もとい聞き損ねた事実関係を確認しなくちゃ、かな。

「あの、私の同級生の子に接触したのは、あなたですか」

「そうよ」

 わあ、清清しいほど悪びれなーい。私の記憶だとあの子相当怯えてた気がするんですけど。それを踏まえてのこの態度だったら、怖いって。いやいや、とりあえず事実確認が先だ。

「差出人不明の手紙は」

「私」

 あけすけなさすぎ。唖然と朔子さんの横顔を見つめると、意図してなのか何なのか、彼女は前を向いたままふっと口角を吊り上げる。いちいち思惑めいてるんだってば。

「そうね。じゃあ一からお話しましょう。あなたが始と新とあなたのお母さん、四人で暮らし始めた頃から、私はある指令を受けていたの」

「指令?」

「そう。佐藤紅葉とその娘佐藤楓の素性調査及び身辺調査、並びに日常生活の監視、情報収集、それらをまとめた定期報告と調査書の提出」

「は」

 ――――おーい。

 ちょっと、待って。実際予想はしていたけど、そうさらっと言われると、困る。困る、っていうか意外と、キツイ。調査とか、監視とか。探偵ドラマじゃあるまいし。いや、それよかどぎついかもしれない。リアクションにすら困る。

「……マジですか」

「マジよ。当たり前じゃない。あなた達に、うちの連中がどれだけ注目していると思っているの。当主の婚約者とその娘よ? 一度目があるとはいえ、気にしないわけにもいかないもの」

「――え」

 え。

 え、ちょ、えええ?

「一度目?」

 思わぬ発言に食いつくと、策子さんは私を一瞥するとちょっと馬鹿にしたような目で笑った。

「あら、知らなかったの。あなた、仮にも一つ屋根の下で暮らしていた相手の基本情報すら知らないって、いくら中学生でも問題だと思うけど」

「もう卒業しますっ」

「あ、そう。どうでもいいわよ。知ってるし」

 ですよね! くっそ。一条さんバツ一だったんかっ。 あのタヌキっ、よくも黙ってたなそんな大事なことっ。いや、流石にお母さんは知ってたでしょ。てことは私だけ知らなかった、いや、知らされなかったってことだ。

 ――ちょっとちょっとちょっと。もう、ホントに皆、どういうつもりなの。あーやばい、さっそく頭に血が上ってきた。

「ま、その辺りも見当つくけど」

「どういうことですか」

「それは後で教えてあげる。話が逸れたわね。そう、それで最初の一年はまあ色々あって様子見ね。あなた、それから新と出かけて知らない人に話しかけられたこと、あるでしょう」

 ある。そりゃあもう、ありますとも。やっぱりですか。やっぱりあんたがたの仕業ですか。どうせそんなこったろうとは思ってたけど、何割かは新さんフェロモンのせいだとばかり思っていたのに。いや多分それもあるか。なんにせよやっぱり大本の元凶はこの人たちだよ間違いなく。

 思わずじと目で見てしまう。華麗に鼻であしらわれちゃってますけどね。

「あれはね、あなたを試していたの。新とどういう距離感なのか、どういった対処をするのか、それによってどんな人間か判断するためにね」

「はあ?」

 訳わかんないんですけど。試すって。それはギャグのつもりで言ってるんですかね。どのみち笑えませんけどね。ちっともねっ。

「ふふ。うちの連中、揃いも揃って陰湿なのよ。それにこうでもしなきゃあなたと接触する事もできなかったし」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味よ。始が何もしなかったと思う? あなたが出かけるときはいつも護衛を付けていたわよ。一般人装ってでもなきゃ近づけない具合にね」

 はあー? 驚愕の事実の連続に眩暈起こしそうなんですけど。この人たちも大概だけど、一条さん何してくれてんの、人に無断で。全然知らなかったんですけど。それって私が常田さんに送り迎えしてもらう前からって事でしょ。つまりそれってさあ、私がどこに行ったとか、何してたとか、逐一一条さんに報告されてたってことだよね。筒抜け状態だったってことだよね。

 ふざけてるっていうか嘘だと言って。信じらんない。サイアク。何がサイアクかって何も知らされずにのうのうとしてた自分が一番サイアク。屈辱だよこれは。覚えてろよ一条さん。いや一条。絶対この恨みは忘れないからな。

「あら、怒ってるの?」

「これで怒らないほうがおかしいと思いませんか」

 頭がぽっぽしているので普段なら我慢することもついぽろっと零してしまう。それどころか言ったれ言ったれと急き立ててくるくらいだから始末に終えない。冷静になれー冷静になれー、つーかなってくださいー。でもムカツクんだよー。

「ま、しょうがないじゃない。年頃の女の子に護衛付けますなんて怖がられて敬遠されるのが関の山だし、それで不自由感じられたりガードに不都合が生じても困るでしょう。妥当な策じゃないの。知らぬは当人ばかりなりってね」

「当事者の気持ちは」

「安全の前には二の次ねえ。それにあなた、案の定今の今まで知らなかったんだから支障はないでしょう。結局のところ」

 なんか楽しんでるように見えるんですけどこっちゃ一ミリたりとも楽しくないですよ。安全の前にはってその安全すらキッチリこなせてなかったじゃん。穴という穴から米の如くぽろぽろ零れ落ちてたじゃん。鼠がうまうま群がってたじゃん。やるならキッチリ仕事こなせよ。

 不可抗力? 知るか。乙女のプライバシーのがウン万倍も大事だわ。あーもー信じられない。どいつもこいつも大人って!

「それで、大の大人が子供一人相手にそんなご大層なことして、なんになるって言うんですか」

 些か言葉尻に棘があるのはご愛嬌。大人の事情が不可抗力なら私のこれだって不可抗力なんです。それでもそんな私の態度を気にしていないのか、そもそも歯牙にもかけてすらいないのか、意に反して朔子さんは幾分楽しそうな面持ちだ。

「あら。大の大人だからよ。大人だから、目的の前には今更な良識や常識なんて通用しないの。あなたの快不快なんて関係ない。もちろん新もね」

「だから何が言いたいんですか」

「あの一件であなたは無視できない存在になったってことよ。不測の事態への対処にしては突飛だったじゃない。私も笑わせてもらったわ」

 ――入門の話のときね。くっそ。咄嗟だったからって前夜見てた動画の話なんてするんじゃなかった。絶対変な奴って思われた。そのときのことをどうやって知ったか知らないけれど、朔子さんは思い出したように笑っている。美人の笑顔は見惚れるほど素晴らしい。素晴らしいけれど笑っている対象が対象なのでこっちとしては苦いものがある。

 それ以上蒸し返されたくなくて、気を逸らすように鏡越しのサイドミラーを無意味に睨みつけた。なんか悔しい。

「やり方はともかく、アレが普通の対応なんじゃないですか」

「あなた自分を解っていないわね。経験があるならともかく、初見のあの事態でアレはないわよ。あなたは充分に普通ではない要素を備えている。少なくとも、一条ウチの幾人かはそう判断した。まあ一部じゃ失笑受けてたみたいだけど」

 おいおい、ちょっとちょっと、待ってくださいよ。なんてこった。たったアレだけでそんな大層な話に。そもそも普通だったらどうしたっていうのさ。あの場合誰だってあんな不審な人まともに相手するはず無いじゃん。どうすればよかったんですか。

 ああもう早速なんか疲れてきた。話が通じないっていう問題じゃなくて、理解の範疇を超えてる。一体何がしたくて何をさせたいんだか。

 ――――いや、ちょっと待ってよ。

「新さんは……」

「そうね、新は気付いていたわよ。だから外ではなるべくあなたを一人にしようとしなかった。――でしょう?」

 しれっと言ってくれる。けれど悲しいかな、それが私の確信を後押しした。

 そうか。いやに付いてくるとは思ったけど、そんな事情があったってことか。知ってたけど、私には言わなかった。どうして。私が怖がるといけないから。それにしてはいやに怯えてなかった? 予想して私に付いてきたくせに、何に怯えたんだろう。

 思考を巡らせている間に赤信号にでも行き当たったのか、車が止まっていた。ふと自然に気付きそろりと横を伺い見ると、ハンドルに手を置いたまま、朔子さんが私を見つめていた。それは一見無表情であって、けれどギクッとするくらい場違いに柔らかな雰囲気を纏う眼差しが、私に向けられていた。

「――あの子のあんな顔は私も初めて見た。それが写真でだなんて、皮肉な話かもしれないけれど」

 自嘲的な物言いは、およそ目の前のその人には似つかわしくないものだった。けれど戸惑う前に車が発進し、私が声をかける隙も与えず再び前を向いた彼女は語り始める。

「あの男もあなたに目をつけたうちの一人よ。新の状態にも目ざとく気付いて、あなたとコンタクトを図ろうとした。でもそのときはまだ始の方が上手で、難航したわ。あなた方に近付こうとする一条に類あるものはとことん排除されたし、あなたには常田が付けられた。手を尽くしたけど結果は全敗。どうあってもあなたとあなたのお母さんを守り通したかったのね、始は」

 聞けば聞くほど謎が深まるその話は飲み込むのに精一杯で、けれどその時やっと一条さんの不可解な行動を紐解くヒントを見つけた。

 いつもにこにこ微笑んで何事もないかのような顔をしたあの男は、けれど常にその背後に何かを隠していた。それを明かそうと私は躍起になったりもしたけれど、今の話を当てはめれば、それは私とお母さんをその得体の知れないものから守るためで、そしてそれは徹底されていた。

 思えば常田さんが私の送り迎えをするようになったのは、あの新さんとの出来事があってから。それからお母さんと出かけたときに常田さんが私達に常に付いていると意識したのも、それから間もなくしてのこと。

 ――いや違う。意識、させたんだ。今までは私に内緒だったけど、意識させる必要性が生じたから。私に警戒心を持たせるためと、もっと確実に私を守るため。私に気付かれないように遠巻きに守るだけでは充分ではないと、判断したから。

 ――そうだ。郵便物。郵便物だってそうだ。一条さんあての重要書類は家に届かないなんていいつつ、郵便物を一番最初にチェックするのは一条さんだった。その必要があると判断したからだ。自分の認識外の、外部の人間が私やお母さんに不用意に接触しないため、に?

 怖いくらいするすると、薄れ掛けていたはずの疑問が掘り出され紐解かれていく。それを知っていたのは誰。一条さんだけ? でも私がそれに違和感を覚えたくらいだったのに、誰もその当たり前の疑問や違和感について質問することも、話題に出すことも無かった。

 そうなると知っていたのは――いや、違う。知らなかったのは私。私だけ、だ。

 絶句する。言葉すら、見当たらない。何が、どうして。いつから。こんなことって。

「解らない。一条さんも、あなた方も。意味が、解りませんよ。なんだっていうんですか。どうして、こんな話。…………おかしい。絶対おかしい。みんな、おかしいですよ」

 謎は解けていくはずなのに、不可解なことは次々と山積みになっていく。正体の無い獣を前にしているような気味の悪さが、じりじり背後から近付いてくるみたいだ。何も解りたくない。そう思うのに、何も知らないことがとてつもなく恐ろしいことのように感じる。私は一体何に怯えているのか。何と、対峙すればいいのか。

 気がつくと、また車が止まっているのがわかった。今度はエンジンの僅かな振動さえ感じない。路肩に止められているんだ。ぎくりとして思わず顔を上げると、さっきと同じように朔子さんが私を見つめていた。同じ無表情。けれど底冷えするくらい冷徹な、色の無い眼差しを私に向けていた。

「おかしいと思うでしょう。でもそれが今あなたが対峙している相手。あなたが探ろうとした本性、そのものよ。……残念ながら、思っていた以上にあなたは何も知らなかった。流石にあなたのお母さんは覚悟があるでしょうけど、あなたは……過保護なほど、庇護されていたのね」

 酷いほど醒めた眼差しを向けてくるくせに燐敏めいたその物言いは、私の頭に血を上らせるには充分だった。

「何が言いたいんですか!」

 ――待て。駄目だ。これじゃ駄目だ。

「なに、どうして……っ。私は、だって、誰も、何も教えてくれなかった。そんな私にどうしろって、」

「喚かないで」

 ――ああ、駄目だ。

 絶望的なほど冷静さを失った私に、凍えるくらい冷静さを保ったこの人。

「話してあげる。貴女の知りたいことも、知りたくないことも。全て私が、今から教えてあげる」

 ――敵わない。今の私じゃ、勝負にならない。

 凍て付く瞳に捉えられる。頭の中で鳴り響くはずの警鐘も、正常を失った私に聞こえるはずも無かった。




 暗幕を張ったような夜闇が広がるどこかの路肩に止まる、一台の車。その閉鎖的な空間の中で、肌を撫ぜる僅かな空調の音を聞きながら、その昔話は始まった。新さんが生まれる、もっとその前に遡って。



「私はね、大学を卒業してすぐに嫁いだの。年端も行かない頃から決められていた相手方の許婚とね。当時の企業統合のはしりよ。政略結婚ってやつね」

 そう、朔子さんは言った。ごく普通に、冷静に、他人事の如く、時刻を告げるような、そんな語りだしで。そんなどこかのお話のような状況も一昔前のことのように感じるけれど、その風習は今でも多少の形は違えど廃れてはいないらしい。そんなものだから当時なら尚更当然のことで、その頃の朔子さんも特に異論はなかったという。それから当然のように嫁いで、身ごもって、新さんを生んだ。

 ――新さんはやっぱり、朔子さんの息子だった。

 一条さんは父親じゃない。一条さんは新さんの、叔父。その偽りの親子像を、少なくとも今の今まで本物だと思っていた私には衝撃の事実だったけれど、朔子さんにはどうでもいいことだったのか、それともまだその話は早いと判断したのか。そこに合間をはさむ隙も無く、朔子さんは淀みなくその過去の出来事を次へ次へと流していった。

 そして朔子さんが新さんを産んだ、それが嫁いでから三年後のこと。当時の一条家といえば既にあの一条さんが台頭していて、一条家の建て直しの計画の一つだった朔子さんの政略結婚もあいまって、どうにか盛り返しているところだった。新さんが生まれてからは、待望の長男に喜んだ相手方の両親はそれはそれは新さんを可愛がっていたらしい。子供を生んでから役目を果たした朔子さんも事業を始めて、子育てはご両親にまかせっきりの日が続いたそうだ。夫婦仲は良くも悪くも無く、強いていうならビジネスパートナーの延長線にいるようなものだったと、朔子さんは失笑しつつそう漏らしていた。

 それから二年の間朔子さんは各地を点々とし新さんとそのご両親のいる家に帰ることも殆ど無くなり、殆ど他人同然の生活をしていたという。

「一条の跡継ぎはね、殆ど男なのよ。代々で女性がその台頭に立ったのなんてほんの一人か二人。それも相当昔の話。元より私に期待をかける者なんていなくて、私の許婚が決まる前から始が当主の有望株とされていたのよ」

 嫌に自嘲気味に笑うその面差しにおかしな既視感を覚えて、なんだか戸惑う。私には兄弟なんていないのに。同調するほどでもなかったけれど、なんとなくそのときの気持ちが解るような気がして、けれど私はただ相槌を打つだけに留めた。

 朔子さんも気に留めて欲しいとすら思っていなかったのか、なんてことはなさそうに話を続けた。

「楽しかったの。私に向いていたのね。ひとところに大人しくして家を守っているより、自分で会社を動かすほうが余程有意義だった。一条の家にいた時は殆ど嫁入りのための教育ばかりされていたから、余計に外の世界にのめりこんだわ。まあ楽しいのは今も、変わらないんだけどね」

 つまり朔子さんにはお嫁に入るなんて殊勝な真似は向いていなかった。そういうことなのだろう。

 家を空けて、新さんは両親にまかせっきり、夫の動向に気を向けることも無く、ただただ外の世界を飛び回っていた。それが因果なのか、それとも別の要因があったのか。気がつけば夫は愛人を作り、それどころか子供まで作り、しかも男の子。事実上は次男でも、相手の女性は相手方の一族の女性。両親の愛情はそこからすっぱりと新さんからその新しい子供に移り変わり、気がついたときは離れに一人新さんが置き去りにされていたという。その時新さんは三歳間近、よちよち歩きの甘えたい盛り。賑やかな母屋の声も届かない離れで一人、最低限の世話だけで、家族の誰も新さんには寄り付かなかったという。

「嫁いだ女が本当は高慢ちきな実力主義で、家にも寄り付かず機嫌を伺おうともしない。そんな女の息子だから、替えが出来たと解ってすぐに乗り換えたんでしょうね。その頃には事業の統合も済んでいたし、私は形式上の嫁として、長男の新は無視され、本家筋の血を継ぐ者が事実上長男としてもてはやされた」

 朔子さんが新さんと顔を合わせたその時は、丁度一年ぶりのこと。朔子さんを見ても寄り付かず、離れの窓から空を眺めていたらしい。泣き声もあげず、あるはずの感情の機微も見せず、新さんは自分一人だけの世界を作り上げていった。そういった様子が子供らしくなくて誰も彼もが新さんを気味悪がっていたと、朔子さんは笑って言った。

「困ったものよ。玩具を買ってきてあげたっていうのに、受け取るなりにこりともしないで『ありがとうございます。嬉しいです』って。棒読みよ。ちっとも喜んでいないのが丸解りだったし、子供の癖に何を考えているかも読み取れなくて、ああ気味悪がられるのもしょうがないって思ったわ」

「……自分の子供でしょう」

「そうね。でもあの子、三歳にしてもう独自の世界を作り上げていたのよ。誰も彼を育てなかったから、彼は自分で自分を育てた。会うたびに教えてもいないことを覚えていて、でも一度も笑ったり泣いたりしなかった。……正直、あの頃はあの子に会うのが怖かった。得体が知れなくて」

 ――他人事だ。この人は心底他人事だと思って話している。そんな、親が、自分のお腹を痛めて生んだ子供を相手にして、得体が知れないなんて思ってしまうその気持ちは、私には理解できない。

 理解できないけれど、ふいに初めて新さんと出会ったときのことを思い出してしまった。機械的な機微しか見えない、不思議な雰囲気を持ったあの少年を。

「それから、あの子が五歳になったころ。いい加減私も居場所がなくなっていたし、頃合だったのね。あの……父が、ね。相手方に離縁を申し出たのよ。統合で得ていた自社株の何割かの無条件譲渡と引き換えに」

「離婚した、ってことですか」

「そ。相手方には願っても無い好条件よね。でしゃばっていた目障りな嫁と、邪魔な長男をまんまと追い出した。私と新は父にとりなされ、本家に戻ったのよ」

 ――それから。それから、また朔子さんと新さんは別々の道を辿った。朔子さんは一条さんの下につく形で事業に貢献し、新さんは――一人本家で一から教育を施され、他家の血は混じれどその資質の高さを見込まれて、後継候補の一人に組み込まれた。それから渡米して飛び級を経て大学を卒業したのが十二歳の頃。後に帰国して中学校に入学し、そして――。

「そして……?」

 辺りは真っ暗で、カーライトもついていない。付属のナビの心もとない明かりだけを頼りに隣を伺っても、その表情は伺い知れない。けれどやっぱり、彼女は笑っているような気がした。あの夜すれ違ったときのような、そんな微笑で。

「それからって言っても、それから先は貴女の方がよくご存知でしょ?」

「大事なところが抜けてます」

「大事な、ところ」


 ――それは、


「新さんが帰国してから、一条さんの息子としてうちのお母さんに出会い、私に紹介し、四人が生活するまで。その推移です」


 ――それは、パンドラの箱だったのかもしれない。或いは甘く熟れた、禁断の果実。どちらにせよそれに手を伸ばしてしまった時点で、引き返すことはできなくなっていた。

 夜闇の中で朔子さんの笑みが途切れたことを、私は知らない。




 ――――それは、一枚の写真だった。

 上から見下ろすような、それこそ第三者の視点を切り取ったような、そんなそっけない一枚。きっと望遠で撮ったのだろうと素人でも解るような斜め上よりの角度からは、当然誰の視線も笑顔も向けられていない。勿論記念撮影の類でないことは一目瞭然。まだるっこしいこと抜きで言えば、盗撮なのだろう。

 その不躾な一枚に映っていたのはフラッシュの必要も無いくらい眩い昼の陽光と、清潔感と調和に溢れたどこかのロビー、そして或いはそこを利用しているだろう人々。焦点は勿論、その中心に宛がわれている。

 艶やかなこげ茶色の円卓の傍らに三人の男女が立っている。撮った人間の腕がいいのか、ただ単にタイミングと角度が良かったのか、頭上からでもしっかりと顔が確認できる出来合いだ。にこやかに向き合う壮齢の男女と、男性側で感情の機微も現さず佇む少年。それが誰と、誰と、誰であるかなんて、いちいち確認するまでも無かった。

 彼女に手渡されたそれを暫しじっと見つめていたけれど、ぱちりと音がして、車内の照明が再び途絶え、馴染んだ薄暗がりに染まった。もはやその写真を見つめている意味もなくなって、私はそれを手渡した人に写真を返した。

「……これが?」

 新さんの表情だけですぐ解った。それでなくとも、一年だけでも成長期の少年の顔つきに多少の変化があるのだって、当然頷ける。

 つまり――この写真は、私が初めて新さんと出会ったときよりも前に撮られたということになる。何故かってそれは、新さんの顔つき云々の前に、そこに私が居ないのだから。

「見ての通りよ。あなたはどう思ったの?」

「……そういう問答は、もういいです。本題に入ってください」

「……そうね」

 もしかしたら。もしかしたら、きっと、多分、ワンクッション入れてくれたのはこの人なりの気遣いだった、のかもしれない。

 写真一枚ごときでそんな気持ちも上手く汲み取れなくなった私。余裕のストックが、もうない。


「あなた達が出会う二ヶ月ほど前、始と新、そしてあなたのお母さんはこのホテルのロビーで落ち合ったの」


 ――それは、私の知らない、本当にひとかけらも知らされなかった、新さんと一条さんと、お母さんの話。

 帰国した新さんがある事情で事故に合い、その頃から一条さんは新さんのお見舞いに行ったりと頻繁に接触し始めて、そしてその時期が丁度お母さんと一条さんが出会った時期と重なる。新さんが病院から退院した頃になると、一条さんが新さんを引き取りたいと朔子さんに直接申し出たらしい。

 元々、一条の慣習として、当主が次期当主、或いは次期当主候補を傍に置くということは代々でもよくあったことらしい。そうすることによって次期当主候補は当主に認められたとして実質次期当主と見做されるようになり、周囲の反応も変わる。名実共に次期当主、未来の当主としての本格的な教育と自覚を得るための一環として、当主が認めた次期候補、または次期が、家族のように、親子のように、当主と生活を共にする。そんな慣わしがあったそうで、誰も疑問や異論を唱える者もなく、勿論朔子さんもあのお爺さんも否を唱えることはなかったという。

 それで、突然。本当に突然、本家に住んでいたはずの当主、一条さんは新さんを道連れに本家を出て行ってしまい、内密に購入していたマンションの一室へと二人だけで越してしまったらしい。親子と、銘打って。

「そりゃあもう、大騒ぎよ。本家に居なきゃならないはずの当主と次期候補が居ないんだから。古参の連中なんて真っ赤になっちゃって、そんな話を聞いてなかった私は大目玉を食らったわよ。始の馬鹿のせいでね」

 それから、経緯はともかくもどうにかこうにかその古参の人々も、一条の人々も、勿論朔子さんやお爺さんすらもねじ伏せて、一条さんはそのままそこに新さんと一緒に落ち着いてしまった。

 一条さんは尤もらしいことを言って一族の人をやり込めてしまったそうだけれど、朔子さんは一条さんの目論見を探っていた。そして一条さんと新さん、それから私のお母さんとの接触を知って、一条さんの『目論見』に見当がついたと、言った。

「目論見?」

 理解の範疇を超えた話は遠すぎて、朔子さんの指し示す話の筋さえ読めなかった。ただ、オウムのように意味さえ解らず問い返すと、隣で苦笑を返された。ような、気がした。

「あなた、始を随分と誤解しているみたいだけど、そんなに生易しい男じゃないわよ」

 じゃあどんな人だというんだろう。

 脳裏にふと、いつものように穏やかに笑っている一条さんが浮かんだ。そう言われてみると確かに、生易しくはないだろうと思える。

 けれど優しかった。お母さんにも、新さんにも、そして私にも。優しかった。確かにあの人は、優しかったはずだ。

「あの男はね、新を利用するつもりなのよ。だから新に余計な影響を及ぼすものから隔離して、自分の手元に置いたの。都合のいいように使うために」

「使う、って」

「始には前妻が居たって、言ったわよね。その人、最初はよく笑う人だったのよ。本家に入ってからだんだんと笑わなくなって、人形みたいになった挙句、逃げ出したの。ある日突然。失踪ってやつね」

 普段の私なら、そんな話を他人事どころかドラマの話をするような感覚で話す相手に、嫌悪感を示しただろう。でもどうしてだろう。そんな当然の感情すら、引き出されるのに時間がかかる。次々放り込まれる情報に、追いつかないみたい。

 この人も、あのお爺さんも、そんな話を私に聞かせて、どう思えというの。

「思えばその頃からなのかもしれない。誰も気付かなかったけれど、多分きっとそう。始は当主を辞めたがっている。貴女のお母さんと出会ってからはそれが顕著になった。――で、押し付けようとしたのよ。新に全部、ね」

 一条さんが、新さんに押し付ける。

 利用、する。

 ――嘘だ。

「……母親として、思うことはないんですか」

 別に反発心とか、攻撃的な意味で聞いたわけじゃない。ただ本当に、自然すぎるほど他人事みたいに説明するから。

 でもきっと、愚問だったんだろう。可笑しそうにふっと笑って、緩やかに首を振った。まるで私に「馬鹿なことを聞かないで」と優しく諭すように。

「そりゃ、思うことはあるわよ。してやられたってね。だって私も新を利用しようと思っていたのに、先を越されてしまったのだから」

 ――ありえない。

 新さん。本当に、新さんのお母さんなの。なんか、怖いよこの人。

 硬く閉じた瞼の裏に、あの時見た新さんの後姿が浮かぶ。決して表情の伺えない、薄暗い新さんの背中。

「もう解っているでしょう。私だけじゃないわよ、あの爺もそう。誰も彼もが新を利用したがってる。さしずめ今は新争奪戦、かしらね」

 ああ、そう。あの人の良さそうな爺さんもか。

 今更驚かないけど、やっぱりかとガッカリする。どいつもこいつも、反吐が出そう。ていうか眩暈を起こしそうだ。何もかも無茶苦茶すぎる。

「一条にはね、『翁』という古参がいるの。当主の上とでもいうのかしら。ようは会社で言うとすると社長の上の会長よね。複数人居るんだけど、その多くが前当主とか、前当主候補。あの爺もそのうちの一人。旧世代の異物。老害の吹き溜まりよ」

 無機質に話していた朔子さんの表情が、その一瞬だけは、汚点を晒すかのように苦々しく歪んだように見えた。

「元々がね、当主を諌める役割だったんだけど、いつからか当主を退いてなお一条を動かしたがる馬鹿共の巣窟になっちゃって。いまじゃ自分の推した当主候補が当主になると発言力が増すものだから人材集めに躍起になってるのよ。揃いも揃って馬主気取りよ、笑っちゃうわね」

 嘲るように言う朔子さんは、もう私の返答なんて待っていないようだった。まるで独り言を呟くみたいに、淡々と話し続ける。

「あの爺は新に目をつけたのよ、誰よりも早くね。それなのに始が横から新を掻っ攫ったものだから、面白くないのよね。それで私を動かして新の動向を探って、そして今度はあなたに目をつけた。ここまで言えばもう解るでしょう」

 ――解る。

 解る、けど、解らない。新さんが変わったのは解る。確かに、みんなで住みはじめてから、新さんは変わった。何がとは言えないけれど、最初よりもずっと柔らかくて優しい雰囲気になった。でもそれは私のせいとかじゃないし、多分環境のお陰なんだ。一条さんの思惑がどうあれ、あれだけ穏やかな人たちに囲まれていれば、どれだけ頑なな心の持ち主でも一年もあれば嫌でもほぐれてしまう。私だって。私だって、その一人だ。

 だからこの人が言う一条さんがどうのこうの言う話だって全く信じられないし、たかが他人の私に目をつける理由にもならないはずだ。少し、仲が良いってだけで? そんなのは、大げさすぎる。いくらなんでも。

 戸惑いが顔に表れていたのかもしれない。じっと私を見下ろしていた朔子さんは呆れたように小さくため息をつくと、再び車内の照明をつけて私に一枚の写真を差し出してきた。それは――あの日アイスを食べ損ねて、喫茶店を飛び出したときの写真だった。

「これは……」

「あの時おかしな男に絡まれたでしょう。それからあなた達は帰ったのよね。二人仲良く、手を繋いで」

 いやに含みがある言い方だ。でもやっぱりあの男もこの人の差し金か。怒りを通り越してもう呆れる一方だ。

「別にどう思われても今更かまわないけれど、一応弁明しておくと彼は独断だったのよ。私は何も指示してないもの」

「はあ……」

 本当に今更だよ。どうでもいい。

「まあいいわ。それでね、それが決定的だったのよ。あなた、なんの躊躇も無くあの子に触れてるじゃない」

「……それが?」

 そんなの今に始まったことじゃないと思うんだけど。そりゃ今までだってベタベタ触ったことなんて無かったけど、触るくらい日常生活でありえることでしょ。

「それがじゃないわ。それこそ、よ。あなたは知らないだろうけど、あの子は……なんて言うのかしら、一種の接触嫌悪? 潔癖症とはまた違ってね、他人との触れ合いを拒否する癖があったの。母親の私でもあの子に触れたのなんか数えるほどしか無かった。いつも他人と距離を置いていた。そうしないと落ち着かないからよ。手を繋ぐなんてもってのほか」

「それは、病気とか……」

「さてね。必要に迫られれば我慢できていたようだし、本人の意思じゃないかと私は思うわ」

 ――意思、って。なんか、言ってることむちゃくちゃじゃないの、それ。

 そりゃ嫌になるでしょ。ちっちゃい頃から誰にも相手にされないで過ごしてさ、それがいきなり手のひら返されてちやほやされてると思えば結局誰も自分のことをちゃんと見てないなんて、ふざけてるにも程がある。わたしが新さんでも『誰も近づいてくるな』って思うかもしれない。

 いや、正直なところ、解らないけれど。私は新さんじゃないから。でもそんな環境に居れば他人にうんざりするのも仕方ないことなのかもしれない。期待も何も無い目で見てしまうのだって、しょうがないのかもしれない。初めて会った、あのときみたいに。

「これで解ったでしょう。新はあなたに心を許してる。それにあの爺が目をつけるのも、遅かれ早かれ仕方ないことだったのよ」

「それであんな回りくどい真似を。どういう方法使ったか知りませんし知りたくもないですけど、他人まで巻き込んで。あんな真似したら普通警戒しますよ。やることにつじつまが合ってないです」

 なんでだろう。無性に苛々する。食って掛かるように言った私に、けれど朔子さんは意に介した様子も無くしれっとした様子で言った。

「それは、私」

「は?」

「だから、そう仕向けたのは私よ。あの爺に普通に呼び出されたんじゃあなた、いいとこ丸め込まれて思う壺だったでしょう。ああでもしなきゃ警戒心なんて持たなかったんじゃないの。ヒントもちゃんと用意してあげたし」

「それは……」

 あれか。彼女が最初から私のことを『一条さん』って呼んでいた、こと? そりゃ、可笑しいなって思ってたけど。内情を知る人間じゃなきゃ私のことわざわざ一条さんなんて呼ばないはずだし、そうなると十中八九一条の関係者だということ。しかもあえて一条呼びってことはそうさせられたわけでって――ああなるほど、だからヒントね。

 いやいやいや。だとしても尚更訳わかんない。益々訳わかんない。この人あの爺さんの手先なんじゃなかったの?言ってることやってることちぐはぐ過ぎない? 何がしたいのこの人。っていうかどうしたいの。どうして欲しいの。

 いよいよ頭が混乱してきた。ああもうキャパオーバーだってば。

「結局私にどうしろと……」

 言いようの無い疲労感に、自然肩も下がる。

 もう何聞いても驚きようが無いわ。さっさと聞いて帰ろ――。

「身を引いてほしい」


 ――は。

 え?


 緩慢に顔を上げると、かっちりと目が合った。ぎくりとするくらい、真摯なあの眼差しと。

「出て行って欲しいの、あの家から。勿論あなた一人で。そして一条と縁を切って、生涯関わらないと約束して欲しい」


 は、い?


 ――――それは、暗闇でも解るくらいに、明確な訴えだった。

 嘘偽りの無い、真摯で誠実な、そう――まるで彼がいつも向けてくる、真っ直ぐな瞳で彼女は言った。


「これはあなたのためでもあるの。――私と、取引しましょう。佐藤楓さん」

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