佐藤かえでとお爺ちゃん
――――面食らった。
それもそうだ。マダムの言う『あの人』とは初老の男の人――所謂、お爺さんだった。
ブザーが鳴った後すぐさまマダムは立ち上がりその人を迎え入れ、コートやストール、帽子などを丁重に受け取り自らハンガーにかけたりと、いやに甲斐甲斐しく介助する。彼女より立場が上の人なのかもしれないけれど、ここまで大物そうな人が来るとは予想していなかった。
そのお爺さんはグレーのスーツによく磨かれた黒い靴を履いていて、背格好はそれほど高くも無いのか彼女と同じくらいの身長だった。でも肩幅は男の人らしくがっちりしていて、背筋だってちっとも曲がっちゃいない。白髪交じりの髪はほぼ灰色だったけれどしっかりと後ろに纏められていて、身だしなみは完璧といっていいほどにぴっちりと隙の無い様で、老人とは呼べない溌剌さを感じる。その後姿を目にして異様な緊張感が生々しく湧き上がり、まるで受験の面接官と対峙している時のような感覚が蘇ってきた。
もー、なんなの。というかそもそも私は何をしに来たんだっけ。そんなことまで今更ぶり返してしまうくらい、無意味に焦る。それでもどうにか相手の一挙一動を見逃すまいと観察している間に、その人と彼女が私の元へやってくる。
おっと、やばい凝視してたし。慌てて立ち上がったときに、真正面から見た表情は印象に反してとても好意的な笑顔で、正直拍子抜けしてしまうほどに穏やかなものだった。
「君が佐藤楓さんだね。初めまして。私が一条源治だ」
「……はじめ、まして。佐藤楓です」
諸々の違和感を突き抜けて、相手が差し出してきた握手に答える。握り締めてきた手のひらは思いのほか乾ききっていて、けれどがっしりとした重厚感のある感触がした。それだけでなんだか気圧されてしまう。ああ、私は今、うまく笑えているだろうか。
相手の何気ない一挙一動にすら身構えて、緊張感が拭えない。それでもどうぞと促され、私はひたすら自分に落ち着けと言い聞かせながらその場に腰を下ろした。そしてその人――一条源治さん、も私の向かい側のソファに腰を下ろし、マダムはというとその真横、間を挟むように置かれた一人掛けのソファへと静かに腰を落ち着けた。
――沈黙。あー、ああ、あー。困った。まだよく状況が掴めない。結局この人は誰なんですかね。どういうポジションでここにいらっしゃるの。
そんな私の戸惑いは顕著に現れていたらしく、その一条源治さんが怪訝そうな顔を、私の横で澄ました顔をして座るマダムへと向けた。
「なんだ朔子、まだ話していなかったのか」
「ええ、まあ。お話は全てご自身がとのことでしたので」
「おいおい。それにしても加減があるだろうに。すまないね、佐藤さん。これじゃあ訳もわからないはずだ」
全くその通りで。
ともいえず曖昧な愛想笑いを返すと、彼はうむ、と何故か一つ解ったように頷き、改めるように佇まいを正した。
「自己紹介が遅れてすまないね。私はさっきも言った通り一条源治。これは私の娘で、一条朔子というんだ。まあ、私の秘書と言ったところかな」
――はあ、娘さんでしたか。で、それが何か。
心象とは裏腹に無言で頷くと、何故だか苦笑いを浮かべながら言い含めるように。
「私は君のお母さんの婚約者の父だよ。一条始は私の息子。つまり私は新の祖父、ということになるな」
――そふ。
祖父っ。マジでお爺ちゃんかいぃ!
これほど度肝を抜かれたことも早々無い。吃驚過ぎて言葉も無い。ってことはこのマダムは、つまり朔子さんは新さんの叔母さんってこと? なーる。道理で所々に妙なデジャヴを感じたわけだ。ごく近いご親戚だったわけね。そりゃ似てるわ。そりゃこの美貌だわ。となると朔子さんと一条さんは兄妹か姉弟ってことか。さすが美形一族、一人残らず無視できない美貌。そういえばよく見るとこの爺さんもナイスミドル。どうでもいいトリビアがまた増えた。お母さん知ってたのかな。帰ったらさりげなく聞いてみよう。
驚きのあまり目まぐるしく同でもいい思考をぐるぐる展開していると、爺さんがそれすら悟ったようににやりと口角を上げる。ああそうそう、その全部解ってますよと言いたげな微笑もデジャヴだ。オールド一条さんじゃん。年取った一条さんがいるじゃん。タイムスリップしてきました? 一人二役? あ、クローンですかそうですかお疲れ様です帰っていいですか。
「やはり驚かしてしまったようだな。朔子、説明くらいしておきなさい。佐藤さんも訳がわからなくて怖かっただろうに、突然こんな爺と対面させられて」
「私は指示に従ったまでです」
「融通の利かん奴め。すまないね、佐藤さん。そういうことなんだが、納得してくれただろうか」
「はあ……」
見た目に似合わず多弁なお爺さんだ。それとは打って変わって彼女の雰囲気もさっきとまるで違う。クールさが増したというか、滲むサド気質がなりを潜めたというか。親の前だから控えてるとか? それなんて二重人格。
ていうか相手が誰だかは解ったけど、呼び出された理由がわからない。いや、正確に言うと私が呼び出したんだっけか。どのみち作為的な事は否めない。すっとぼけちゃいるけど、この人は何か目的があって私をここに導いたってことだ。危うく雰囲気に飲まれそうになったけど、そこんとこ忘れちゃならない。とにかくあんまり食われないように、目的だけどうにか引き出そう。
「あのぅ、それで私……」
「ああ、そうだったそうだった。で、どうなのかな」
――はい? これまた何を言い出すのかなお爺ちゃーん。キングオブマイペース。
もうね、最早半分飲まれかけているという自覚はあるよ。でも人生の先輩であるご老人相手に先手を打つほどの気概も起きないっていうか、ねえ。なんというか、相手の土俵過ぎて立っているのがやっとみたいな感じ。きっとこの爺さんもそれが解っていてあえてこんな態度をとっているんだろう。その証拠に、未だ戸惑う私にはもう付き合うつもりもないのか更に押し通してきた。
「新のことだよ。近頃はとんと顔も見せてくれない。私の孫は、そちらで元気にやっているのかな」
「はあ……」
笑い皺が、目尻に濃く刻まれる。
戸惑う私に、隣で知らぬ存ぜぬとばかりに澄ました顔を続けるマダム、もとい朔子さん、そして食えない一条進化系爺さん。挑む気概の糸口すら掴むことも許されず、まあ面白いように、私はずぶずぶ飲み込まれていった。
――あえて言おう、苦痛であると。
いったい何十分、いや何時間経ったんだろう。というか、そもそもこの部屋には時計が見当たらない。これじゃあ一体どれだけ時間が経ったかも解らないじゃないのよさ。VIPの部屋の癖になんでこういうところ行き届いていないんだろう。調度品とか景観とかの前にそこんところ抑えて然るべきでしょうが。
いや待てよ、むしろこれはアレかな。時間の概念を忘れて憩いのひと時をお過ごしくださいとか、そういうことですか。それどんな精神と時の部屋。余計な配慮だよ。貧乏人は生き急ぐのが世の常なの。時計がないと生活もままならないの。って貧乏人には用は無いよって。そっかー、あははー、こりゃ一本とられたー。引きつり笑いが止まらないですぅ。
「んん、どうしたのかな。ああ、こんなに話して喉が渇いただろうね。紅茶も冷め切ってるじゃないか。朔子、楓さんに新しいものを」
「はい」
いやそういう問題じゃないから。お爺さんの孫ラブマシンガントークに付き合わされて闘争心どころか平常心すらぶち折れて精神磨耗の疲労困憊で一気に若さを吸い取られたとか、今そんな感じ。時間の経過と共に爺さんがいきいき若返って私がよぼよぼ気が萎えていくっていう悪循環。
もう開放してくださいお願いですから。何かっちゃあ新新新。孫ラブにも程がある。聞いてるだけならまだしも時折会話の内容を復習させるみたいに聞き返してきたり新さんの話をあれはどうだこれはどうだと搾り出してきたり、実質時間がどれだけ経ったかはわからないけど相当色々聞きだされた気がする。主に新さんについて。
すっごい疲れた。もうなんか色々どうでもいいから帰りたい。心配した自分が馬鹿みたいだ。もうこれただの孫コンじゃん。つうか新ファンクラブの会長じゃん。私関係ないじゃん。聞きたいなら本人に聞けばいいじゃんっていうかほぼ他人の私に聞いてどうするよ。誰か助けてー。
思わせぶりの朔子さんは相変わらず我関せずで裏方に徹してるし。さっきのあの何か有り気な態度はなんだったんですかねー。私をおちょくったんですかねー。そんな気がするんですがねー。あーもういやだー。かえりたーい。
「おっと、いやあ、少し喋りすぎたかな。君ほど若い娘さんと話す機会なんて早々無いから張り切ってしまったよ」
タヌキめ。なんてことはなさそうに微笑みながら朔子さんの差し出したコーヒーに口をつける爺さんは、台詞から風貌、雰囲気仕草に至るまで本当に一条さんに似ている。この台詞とか年取った一条さんならそういうこと言いそうだ。そして相手を自分の土俵に担ぎ上げてくるくる踊ってわあ楽しいみたいな茶番を繰り広げる。ソックリ。言っとくけど張り切るってレベルじゃなかったですからね。ハッスルもいいところでしたからね。
紅茶を朔子さんから受け取りながら、打ち明けられない想いを胸にそっと飲み込む疲労のため息。よくよく見ると、外から漏れていた夕日はなりを潜め外はすっかり暗闇に包まれ、部屋全体を穏やかなオレンジ色の照明が照らしていた。
あーあ。プロペラのように回る照明からの陰を見つめながら、私はまたこっそりと息をついた。だって、なんだか拍子抜けだったからさあ。随分と緊張していたわりに、思っていたのと大分誤差があるというか、なんというのか。繋がらない一連の不安要素が紐解かれると思ったのに、一向にその気配すら見当たらない。この爺さんは全く関係ないってことなのかな。それとも、関係あるのはやっぱり思わせぶりだった朔子さんの方とか。
――――私は、誰を相手にすればいいの?
気付けば、言われたとおり確かに喉がからからに渇いていた。まったく、一体どれほど時間が経ったのか。今日はもう深入りはやめて、この辺で帰ったほうがいいのかもしれない。巡る思考にそう決着をつけ、差し出された新しい紅茶に手を伸ばす。湯気の立つそれの香りを確かめながら、お暇を言い出すタイミングを計る。そんな私に先手を打つように、先にお爺さんが呟いた。
「新は、不憫な子なんだ」
不憫。
――はい?
いきなり投下されたその言葉はあまりに不自然で、それそのものの意味さえ一瞬掴めなかった。
ええっと、不憫って言ったんだよね。新さん、が? その言葉はなんだか妙に尤もらしく、けれど違和感を覚えるほど不適切にも感じる。ついでにそのことについて、どこがと思うと同時に、そうだねと思う自分にも、違和感。
不憫って、新さんが、ねえ。なんと答えるべきか迷っていると、ふと、爺さんが微かに笑った気がした。
「新は佐藤さんに何も話していないようだ。散々君と話しても、その片鱗が見られなかった」
私が、何も知らないと。この穏やかな空気の中でそんなことをまだ考えている私が穿ちすぎなのか。まあ、でも、それは確かにその通りだとも思う。だって一年経ったとしても、所詮一年。この人の言うとおり私は新さんのことなど何も知らない。特に深くまで知ろうとも、しなかった。
「始もどういうつもりなのか知らんがね。君は、どこまで聞いている?」
「……どこまで、とは」
「一条の話だよ。あいつが現当主なのは知っているかな」
「はあ……」
知っている、というよりそれしか知らない。一条とか言うどこぞの名家の御当主で、そのどれだけいるかも定かでない一条家の人々とやらを総括しているらしい、なんてあやふやな情報だけだ。聞こうにも一条さんにはまともに質問する機会もそんなにないし、お家の事情とかおいそれと聞けるものでもない。お母さんもその辺りの話はふってこないし、どうも情報を暈されている感も拭えない。でもお母さんはある程度までは知っているらしいし、お母さんがいいなら私もって――――
『なんと言われたって私は私ですから。愛人でもなんでもどんとこいです』
――思って、いたけど。いたんだけど。
掠める思考を繋げるように、お爺さんがうんと頷く。
「そう。一条の元は辿ると華族の一つでねえ、ホラ、君も見たことはないかな。ここよりもう少し行ったところに屋敷があるだろう。古めかしくて敵わんのだが、何せ大戦前からあるものだから手を加えるわけにもいかん。時代錯誤に居を構えているんだが」
屋敷、ねえ。なんのことやら、思い当たるものが無いから連想できもしない。そんなもの、この辺にあったのかな。というかこの辺でさえ市街地でこんなホテルがどーんと建ってるというのに、屋敷なんてあるのか。
必死になってそれらしきものを思い起こそうとして、一つだけ思い当たる節があったことを思い出した。
「――塀……」
塀。そう、塀だ。
以前この辺りからもう少し離れた付近を常田さんの車で通ったときに、延々と続く塀があった。いやに長く終点に着く前に曲がってしまったのでどんだけでかいお寺なんだろうと思っていたんだけど、もしかして――。
唯一思い当たるそれを思い浮かべてつい頬が引くついたとき、それだとばかりに爺さんが食いついてくる。
「おお、それだ。敷地ばかり広いもんだから年寄りにはちときつい。古いばかりであちこちガタがきとるんだが、修繕だけ繰り返して騙し騙し今まで持ってる家だ」
ああそう。そうか、あの家か。つくづくとんでもないなあ。確かあの時私、お寺か神社かな、なんてあたりをつけた覚えがあるんですけど。少なくとも一般人の民家には当てはまらないよね。そりゃ住む世界も違うわ。
「古いといってもうちは戦前から閨閥にのっとり通婚ばっかり繰り返していたからなあ、今じゃ血なんて怪しいものだな。そのくせ同族意識だけは高いもんだから、頭の緩い馬鹿者ばかりだ」
ぐちゃぐちゃ言われても知らないですよー。でも言ってることには棘を感じるなあ。穏和な爺さんの皮が剥げかけてますよー。笑っちゃいるけど目の奥が剣呑に煌いてるし。ついつい、びびっと僅かに身を引いて反応してしまうと、途端にくしゃりと目じりに皺の慣れた微笑。あ、誤魔化そうとしてる。爺さんめ。
「すまない、身内の恥なんざ聞かせてもどうにもならんね。まあそんなうちなんだが厄介な慣習が根付いていてね、本来ならば世襲制である当主の任命もまた、面倒な方式に則っている」
「世襲制じゃない、と」
「そう。普通は直系の者から選出されるが、一条のそれは直系に限らず四親等までだ。心身ともに健全でありその系譜に属するものは資格ありとみなし、幼い内から相応の教育を施される」
四親等ってどこまでだろう。下っていくと考えると、えーと、直系だと、玄孫まで、かな。当主から下るなら――うわ、微妙に範囲広っ。思わず目を瞬かせると、いつから見ていたのかそんな私を眺めながら爺さんがにんまり微笑む。
「頭の回転が速いようだ。実によろしい。そうさね、現当主は始だが、あいつの代にはライバルが十人いた。いずれも次期当主としての教育を施された精鋭ばかりだった。が、始はそれを当時最年少の二十歳でもぎ取り、二十九にして当主の座に就いた。異例の早さだよ」
「はあ」
わあ、お間抜けな返事。でもしょうがないじゃん。そう答えるほかに無い。一条さんが凄いらしいなんて、そんなの今に始まったことじゃなさすぎて意外性に欠ける。正確には今じゃないけどさ。
大体、あの人の凄さはもう日常生活に滲み出るレベルで思い知らされてるからこれ以上余計な情報要らないんですけど。ていうかあれだけ孫自慢したにも拘らず今度は子供自慢? ちょっとちょっと勘弁してくださいよ。爺さんの家族愛はもう身に染みて解ったから。続きは今度聞くから、今日のところはもう返して頂戴よ、ねえねえ。
――とは、口が裂けてもいえない。だからこその生返事である。爺さんは相変わらず笑い皺を湛えたまま、私を捉えて離さない。
「あの頃は奴も若くてなあ、着任当初はワンマンとも言える策に一族で非難轟々だったが、せんだっての社会現象でピタリと納まったよ。誰もが責任逃れで手一杯の中、あいつはよくやった。その件もあって正式な当主に成り上がったのだがね、それからこの数年、見事なものだよ。小姑みたいな一族をまとめ、地道な邁進を続け、あげく婚約者にその娘まで手に入れる始末だ」
爺。
いやお爺さん。なんでもいいけどその言い方やめて。絶対わざと言ってるでしょ。微笑ましい笑顔で言う台詞じゃないからそれ。誤解を招くこと山の如しだからそれ。しかもその項は別に付け足す必要なかったよね。あえて言ったよね。反応待ちだよね。スルーするから。全力でスルー申し上げるからねお爺ちゃんよ。なんか面白そうにこっち見てるし。やっぱりわざとかい。
「ふふ。一時は景気を取り戻したかに見えたが昨今は就職氷河期に経済格差、なんだかんだとろくな時代じゃない。不景気真っ盛りもいいところだ。切迫していないとはいえども、うちだって笑っちゃ居られない。そういう流れだったからな、自然、周囲の期待も次代に注がれるようになる。当代に生まれた子らはこぞって教育された。勿論新も漏れず」
そう言った途端、爺さんの笑顔が翳った。何かを思い起こしているのか、物憂げに組んだ指先を見つめている。
「あの子に自由は無かった。物心ついた頃には既に私の手元には居なかった。後継候補の子供はね、基本親の一存でその教育方針が決められるが、あの子はとにかくあらゆる意味で特別だった。子供らしく振舞うことすら許されず、ひたすら試され続けた。頭角を現せば周囲の期待は益々高まり、愛情なんてものの欠片も与えられず海外で何年も孤独の生活を強いられていた」
その、ポツポツ明かされる新さんの事情には、ところどころ思い当たる節があった。
『僕はね、あの頃新の父親じゃなかった。他人よりも遠い、距離があった』
一条さんはあの夜、そんなことを言ってはいなかっただろうか。あの頃って、今この爺さんが話している頃と同じときの話なのかもしれない。でもあの一条さんが新さんにそこまでのことをしたのだろうか。今を知っているぶん、俄かには信じがたい話だ。
それに、海外の話。噂で聞いたときは眉唾だと思っていたけれど、住んでいたのはどうやら事実だったらしい。でも新さんはそんなこと一度も話さなかったな。――それとも、話せなかったのかな。
「年端もいかぬ子供にかけるにしては過大な期待があの子に寄せられた。そうこうしているうちに新は次期当主に指名された。まだ十二になったばかりの子供が、だ。異例の早さだ。異常と言ってもいい。しかしそれこそがあの子の……なんだろうね。神聖性とでも言うのかな。一族内ではあの子に傾倒するものが現れ始めた。祭り上げるように、多くの者があの子を支持した」
とてもじゃないけど笑えそうにないことを、自嘲するようにお爺さんは告げた。正直、ことのスケールが違いすぎて受け止めきれない。不憫なんていう話どころじゃないよ。想像の枠を超えすぎて、誰の話をしているのかも見失いそうだ。世界が違うと思っていたけれど、こうなると次元そのものが違う。あんな純粋な子からどうやってこんな異様な逸話が生み出されるっていうのさ。どう思えばいいのか、どう感じたらいいのか、感情の置き場さえ解らない。こんな話を私に聞かせて、この爺さんは一体どういうつもりなんだろう。私は何かを、試されているんだろうか。
なんと答えていいやら解らず逡巡しているうちに、何かを読み取ったかのように爺さんは苦い笑みを目尻に浮かべた。
「そんなに言うなら何かしてやろうと思わなかったのか、と言いたそうだね」
「……いえ」
違うよ。そんなレベルじゃない。情報を飲み込むだけで手一杯だ。
それでも爺さんはふるふると首を振る。
「そうだ、私が手を差し伸べてやればよかった。だが一線を退いたこの老いぼれにどれだけの影響力も残されていなかった。年寄りの戯言だよ。誰も耳を貸さなかった。私はそこまで、出来た人間ではないんだよ、お嬢さん」
――私は、責めてなんかいないのに。けれど自嘲的に笑う爺さんはそれこそ誰に言われずとも、悔やんでいるように見えた。自分を責めているのかな。
でも、ただ一つ気になるのは――いやに無表情のままの朔子さん。人形のように、今の話に機微も返さず、じっと黙って前を向いている。いくらなんでも無反応が過ぎるんじゃないんだろうか。それとも、甥の話になんて興味が無いのか。まるでさっきまで微笑んでいたのが嘘のように、色の無い美貌だけが目の端に映る。ちらりとつい横を伺った瞬間、「楓さん」と爺さんに呼ばれた。
「あの子は、変わったんだね。きっと、君たちと暮らし始めてから。あんなに子供らしい笑顔を浮かべたあの子は、初めて見たよ」
――あ。嬉しそう。
思わず愛想笑いを返すと、満足したようににこやかにうんうん頷く。
――なんかなぁ、普通のじいちゃんだ。孫が大好きで、孫を心配する、普通のお爺ちゃん、ぽいよねえ。おかしな話だ。あれだけヘビーな話を聞いた後に、爺さんとニコニコ微笑みあってるっていうのも。一人無表情貫いてるけどさ。
「楓さん」
「……はい」
ゆったりと爺さんが立ち上がり、私もその声に引き上げられるように立った。目尻に笑い皺をたっぷり湛えた老人は、かみ締めるように笑って、その節くれ立った右手を差し出した。
「あの子をよろしく頼むよ。どうかこれからも、仲良くしてやってくれ。何かあったら、力になってやってほしい」
「は、はい。こちら、こそ……」
しっかりと両手で握るその力が面映くて、なんだか無愛想にそれしか言えなかった。それでも爺さんは満足のいく答えを得たようで、より笑みを深くして手を離してくれた。
「さて、それじゃあそろそろお暇しようかな。悪かったね。こちらから呼び出しておいてこんなに暗くなるまで長居をさせてしまって。朔子、送って差し上げなさい」
「はい」
「いや、あの」
なんか怖いんで別に必要ないんですけど――と心のそこから思ったところで、押し留めるように爺さんがにっこり笑顔でダメ押し。私がまごまごしている間に既にコートを羽織って、帽子を手にしていた。はやっ。
「いいんだよ。こんな時間にこのまま君を放り出したら親御さんに申し訳が立たない。――ああ、そうだ。失礼ついでに言うのもなんだが、私たちがこうして話したことは、あれらには内緒にしてくれるかね。勝手に会ったとなっちゃあどやされかねんからな」
「はあ……」
茶目っ気たっぷりにウィンクして、悪びれるつもりもないらしい。まあ私も内緒で来たわけだし、もとから話すつもりもなかったしむしろ『言っといて』なんて言われなくて好都合だから別にいいんだけどさ。
結局終始爺さんのペースに飲まれたまま、「じゃあ」と挨拶代わりに帽子を上げて、爺さんが部屋から出て行く。妙な爺さんだったなあと思いつつぺこりとお辞儀をした瞬間、何かが引っかかった。
――――あ。
そうだ! お爺さん、待っ
「あ……っ」
呼吸が喉を掠める。はっと顔を上げたその時にはもう、爺さんはいなくて――――代わりに朔子さんが、掠めた私の声を遮るようにして、眼前に立ちはだかっていた。目を細め、決して逃さないとばかりの微笑みを浮かべながら。
引いていたはずの悪寒が、指先からぞわぞわと、舞い戻ってくるような間隔がする。
その時、今まで充満していた穏やかな空気がまるで引き波のようにザアッと指の合間をすり抜けていく心地が確かに、した。