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COMPLEX TRIP!  作者: Tm
第三章 佐藤かえで ~過去編~
30/37

  佐藤かえでと誘因

 クリスマスプレゼントと称してもらったものは、なんと人生初の海外旅行。それで年明けに皆でイギリスで過ごして、その後ヨーロッパの観光地を一巡りしてまったり楽しんだ後に帰国しましたとさ。その間ブルジョワの気前のよさにとことん引きまくったのは内緒だ。下手に遠慮すると『子供になんでもしてあげたいって思う親心、楓ちゃんには伝わらないのかな……』とかこれ見よがしに言われるからたまったもんじゃない。まあその辺は少しでも度が過ぎそうになるとお母さんから意外に厳しく待ったが掛かっていたからそれほどということも無かったんだけどね。

 それから、四月までに残っていることといえば入学の準備くらい。気が抜けて、のほほんとして、油断もいいところだった。

 何もかもうまくいっているなんて誰が宣言したというのか。誰も宣言などしていない。誰も、そんなことは、言わなかったはずだ。





 二月。短い冬休みも終え新学期から一月過ぎ、休みボケがやっと抜ける頃。外を歩けば屋根は珍しく雪化粧、道路は擬似アイスリンク、ついでに惜しみながら最後の止めとばかりに肉まんやらおでんやら鍋やらに大いに舌鼓を打つ美味しい季節の終わりごろ。人生でふぐちりを初めて食した季節でもある。

 推薦で早々に受験を済ませた私といえば、学校は既に自由登校だったしすることもない、ということでほぼ巣篭もりな日々を過ごしていた。夜更かしする日々も多くなり、朝寝坊することもしばしば。ついにお母さんに苦言を呈されるようになった頃、それでも性懲りもなく、勿論その日も夜更かしを謳歌していた。そういう、ありふれた夜に起きたこと。


 例によって何か摘むものでもありはしまいかと抜き足差し足で階下へ渡り、リビングへ向かおうと歩みを進めたとき、それに気がついた。

 ――明かりだ。明かりがついている。階段の角を曲がればすぐにリビングの扉に行き着くんだけど、そこから指すおぼろげな明かりが私の足元を照らしていた。時刻は深夜も深夜、二時だ。こんな時間に電気が灯っていることが珍しい。

 なんとなーく足音立てずにゆっくり近付き角に身を潜めると、案の定話し声が聞こえてくる。勿論一人などではなく、二人ぶんだ。予想通り一条さんだけじゃないらしい。おかしいと思ったよ。一条さんだけなら深夜に帰宅したタイミングで私と鉢合わせするとかザラにあることだけど、そういう場合大抵はあの人いっつも電気付けないもん。人が点けるまでぼけーっと暗闇の中で座ってるの。怖いけどいい加減慣れた。でも私が来る前に電気がついているということは、一条さん以外の誰かが点けたってことだ。聞こえてくる声音から察するに、十中八九お母さん、かな。

 でも何を話しているかまではあんまりよく聞こえない。忍者よろしく壁に背中をぴったりつけて、漏れる光の死角ギリギリまで身を寄せてみる。誓って言うけどこれは盗み聞きじゃない。そんな卑劣な真似など、断じてこの私がするはずがない。これはあれだ、偵察ですよ、うん。いきなり乱入して親のいちゃらぶシーンに出くわしたくないし、そうでなくてもお母さんの機嫌が悪そうだったらきっとお小言言われる。早く寝なさいとか。いやそれは機嫌に関係なく普通に言われるか。

 ――ともかく、少し様子見だ。できるだけ息を殺し、耳を澄ます。近付いた分、さっきよりもいくらか鮮明に彼らの会話が聞こえてきた。

「今更こんなことを言うのは間違っているかもしれない。でもやっぱり君を」

「駄目。今更言いっこなしですよ、それは」

 んん? なにやら切迫した様子。痴話喧嘩かしら。いいぞ、もっとやれ。

 冗談半分で野次を思い浮かべつつ、何を話しているのかその本質が知りたくなって退きがたい。ばれたらことですよ、これは。でも、幸いなことに二人は私の気配に気付いてはいないらしい。

「いや、やっぱりそんな訳にはいかないよ。確かに今更僕が言うことではないかもしれない。けれど、君はもっとよく考えるべきだ。これはそんなに単純な話なんかじゃないのは、解っているだろう」

「ええ。解っています。でも、私も言ったでしょう。もう覚悟はできているって」

「紅葉さん」

 動じないお母さんに、一条さんは焦れているみたいだ。単なる難しい話というよりもずっと事情が込み入っているらしい。興味本位に聞くべきではないと理性が訴えるけれど、足は遠のかず微動だにしない。聞いてはいけないと心が警告するのに、その警告こそ私に僅かな不安を導き出しこの場に留まらせる。

 少し、少しだけ。何の話をしているか、それを知るだけ。

 言い訳をしながら、じっと耳を澄ます。

「始さん。私は前にも言いましたよね。私、努力は惜しみませんって。あんなに素直でいい子がそうあれない環境なんて、地獄でしかないんです。それをまた引き戻したりしたら、それこそあの子は二度とどこにも寄り付かない。心を閉ざしたまま、この先を一生生きていくことになってしまう。そんな気がしてならないんです。それこそなによりも、避けなければいけないと思いませんか」

「それは、僕だって。でも君は」

「私は平気です。どんなことを望まれても強いられたとしても、それに従います。ねえ、始さん。あの子が大好きなんです。私は、子供が子供らしくあれないことが、なにより一番我慢ならないの。大丈夫。伊達にシングルマザーやってきてないんですから、私だって」

 『あの子』って、誰だろう。余程大げさな話に聞こえる。いや、そうじゃなくて、大げさなほどのことなんだろう。その、話が。いよいよ本当に、話を聞いているのが恐ろしくなってくる。悪い話ともいい話とも判別つかないけれど、お母さんのいやにしっかりした声音が、怖い。

 私は知ってる。お母さんが、いつものほわほわした声じゃなくなるとき。しっかりと芯のある話し方をするとき。そういう時お母さんは一歩も譲らない。絶対にそれをないがしろにせず、とことん突きつめてくる。そしてそうされると、何も言えなくなる。そのどこから引き出したのか計り知れない力強さに圧倒されて、言い返すことすらできなくなる。少なくとも、私は。それでもきっと今、一条さんも同じ心地を味わっているんだろう。その確信を裏付けるように、僅かな落胆交じりの一条さんの声が聞こえた。

「紅葉さん、じゃあ」

「はい。今更逃げたりしません。かえでちゃんもきっと解ってくれる」

 わたし。

 私?

 ――――あ。

 私、は、そうか。そうか、私は『あの子』じゃない。『あの子』はきっと――。

「なんと言われたって私は私ですから。愛人でもなんでもどんとこいです。だから始さん、そんな顔しないで」

 ――――あいじん。

「僕はそんな覚悟を望んでいるわけじゃない。あなたの口からそんな言葉を聞きたくもない」

「それは……あの……うん。ごめんなさい。でも、私……」

 ――ちょっと。

 ちょっと、待ってよ。なんの話をしてるの。二人してどんどん、どんどん、訳のわからないこと。なんなのこれ。意味解んない。どうなってんの。聞けば聞くほど、解らなくなってくる。なんだって言うの、さっきから。二人は、なんの話をしているの――。

「楓」

「う」

 わあ。

 ありえないくらいびくっと体が揺れて危うく漏れかけた声を、後ろから伸びてきた手のひらがタイミングよく塞いでくれた。いや、その元凶なのだからくれたってのはおかしいか。

 不満をぶつけるべく振り返ると、それと同時に腕をつかまれ、問答無用で再び光の届かない薄闇へと連れて行かれる。拒んでどたばたしても本末転倒なので階段を上りきるところまでは大人しくしておいて、私の部屋の前に着いたところでここぞとばかりに振り払ってやった。

「もう、危ないじゃん新さん。こんな夜中に夜更かししてその珠のお肌が荒れたらどうするの」

「誰の何を心配してるんだ。自分こそ取り返しがつかなくなる前に努力したらどうなんだ」

 う。深夜のせいか返しがいつもの二割り増しきつい。家の中は空調が利いていて夜中で廊下にいてもさほど寒くはないというのに、足元をいやな寒気が通り抜けていくような気がする。それにさっきまで明かりの方ばかり見つめていた私には新さんの表情も計り知れない。じっと押し黙り私を見つめる新さんがなんだか怒っているように思えて、彼を責めるどころか口答えさえも口の中で萎んでしまった。

 黙って盗み聞きをした私を責めているのだろうか。でも、新さんは一体いつから私の背後にいたのか。いつからあの話を聞いていたのか。あの話の内容がなんなのか、知って、いるのか。なんであれ、何か言って欲しい。

 ねえ新さん、『あの子』ってやっぱり――。

 薄闇に目が慣れる。暗がりの中で神妙な顔つきとなった彼が、呟いた。

「変な顔」

 そう、へんなかお。

 ――へ?

 へんな。へんなって。

 へんなかお。

「へっ」

 変な顔とはなんだ!

 何を言うかと思えば淡々と無礼な口を利く新さんに思わず声を上げかけた。けれど、それは発せられる前にまた萎んでしまう。気がつけば至近距離から彼の手が私の頭に伸び、触れるか触れないかのところでゆっくりと、撫で付けていた。

 優しいというよりもどかしいその感触に戸惑っていると、ふと、微笑んだ。よくは見えなかったけれど確かに新さんは、微笑んだ。

「寝なよ。大丈夫だから」

 言葉とは裏腹に睡魔を吹き飛ばすような艶やかな笑みを私に向け、もう一度私の頭を撫ぜるとそのまま新さんは自分の部屋へと戻っていってしまった。後に残された私は到底何か言えるはずもなく、また下に戻って立ち聞きの続きをする気にもなれず、すごすごと部屋に戻る。ベッドの上で布団を被るように包まり悶々と考えたけれど何も答えは出なかった。ただ一つだけ、思い出したことを除いて――。




 あの夏貰った一通の手紙。私は、一度はそれを一条さんに渡してしまおうと考えていたのにも拘らず、結局それを示唆することさえもせずに机の奥深くへと封印し、自分自身ですらその存在を忘却の彼方へと置き去りにした。

 それに触れすらしなかったのは、得体の知れないもので不安を仰ぐことへの忌避か、それとも単に一条さんを信用していなかったのか。

 私はその答えを知っている。だから余計に、今更言えなかった。あんな立ち聞きをしておいて、言えるはずがなかった。




『いつでもご連絡ください。お会いできる日を、心よりお待ちしております』


 封筒の中にはまた封筒があり、その上質な手触りの封筒にはご丁寧に深紅の蜜蝋で封がしてあった。そしてその中には、縁が金、内枠が赤で装飾された一通のカードが入っていて、ただそれだけ記されていた。

 連絡先どころか差出人の名前すら記名されていない、それだけ見たらただの不審な一文。微かなものを鼻腔に感じ鼻を寄せれば、薔薇のような華の香りの感触。私はそれを元に戻し、携帯に手を伸ばした。




 好奇心かと問われれば、否定はできない。それだけかと問われれば、そうではないと確信を持って言える。根拠のない自信に身を任せたつもりはない。ただそれを、ほんの少し糸口を辿るだけ。それさえ掴めればすぐに手を引けばいい。

 そう思っていた。結果的に言えば、侮っていた、という言葉に尽きる。私は侮っていた。私だけが、侮っていた。姿を捉えきれない、その深淵を。


「私今日ちょっと帰りが遅くなるかもしれないから、先にご飯食べてていいからね。……って、なに、みんなして」

 一条さんは会社に行く直前。お母さんはそんな一条さんがコートを羽織るのを手伝っている。新さんと私はまだ時間に余裕があるので朝ごはん継続中。そんな慌しさとは無縁の空気の中お母さんに向かってそう言った。――はず、だったのにどうして全員こっちに注目するの。

 え、駄目。駄目なの。一条さんなんかしょっちゅういないじゃん。私だってそういうときくらいあるよ。

 なんだかどぎまぎしながら突き刺さる視線から目を泳がせてなんとか回避していると、何故かコートを羽織り終えた一条さんがにっこり微笑んだ。

「楓ちゃんが遅くなるなんて珍しいね。学校の用事?」

「ああ、まあ、はい。文集の編集に選ばれまして、その打ち合わせやらなんやらで集まることになったんです」

「ああ、それは出世だね。ねえ紅葉さん」

「そうですねー。お赤飯炊かなくちゃ」

 やめて。お願いだからやめてください。年頃の娘に文集委員に選ばれたからってお赤飯とか家庭内いじめにも程があるでしょ。めでたく感じて何でもお赤飯炊いてたら月一でお赤飯定期摂取してしまうわ。ていうかそもそもおめでたくもなんともないし。

 にこやかなカップルの傍らでドン引きしていると、僅かに口元を緩ませる新さんが視界の隅に移る。てめっ、後で覚えてろよ。

「まあなんにせよ、あまり遅くなるようだったら常田さんをすぐ呼んでね」

「そうねー。かえでちゃんすぐ一人で帰ろうとするんだから。ちゃんと呼んであげなくちゃ可哀相よー」

 いやだって私あの人苦手なんだもん。ていうか可哀相ってお母さんの中で常田さんのポジションはどうなってるの。私と常田さんの距離感はどんな風に配置されてるの。激しく気になるんですけど。

 などなど、諸々つっこみどころが多すぎてどこからつっこんだらいいのか見当がつかず口をパクパクさせている間に、一条さんは悪戯っ子のようにぱちっとウィンクを私に投げつけ、それじゃあ行ってきますとばかりに颯爽とリビングから出て行ってしまった。勿論お母さんを携えて。

 この間の暗黙の了解は、お母さんと一緒に玄関までの見送りに行ってはいけないということと、近寄ってもいけないということ。別に見送りたくもないからいいけれど、その理由というのも言わずもがなだ。暗黙の了解だから黙って然るべき。

 毎朝の光景に若干胡乱な眼差しで彼らの背中を見送ると、私も新さんのように朝食を再開させる。と、思っていたら今度は新さんがこっちをじいいいっと見つめていた。だから、なんなのさ。みんなして。

「なに」

「文集の編集ってそんなにかかるものなの」

 うっ、するどい。さすが現役学生。しかしここで動揺をちらっとでも見せたら最後、何が何でも白状させられてしまうだろう。眼球運動で探られるのも癪なため、ご飯を食べる振りをしながら伏し目がちに答えた。

「新さん私に友達がいないと思ってるの? 失敬な。居るわ。時間のめどもたたないくらい遊んじゃう友達がわんさか居て手が回らないほどだわ。失敬な。デリカシーないわあ、白けるー。ホント失敬」

 計三回ほど失敬ジャブを織り込みつつ、暗に『その後遊び倒すんだよそれくらい察しろ』オーラを醸す。ジャブが効いたのか新さんもそれ以上は何も言わず、ただ二人黙々とご飯を食べ続ける。

 お母さんがリビングへと戻ってきたのはご飯を食べ終えた頃。長いわ。と私も新さんも言わなかったのも、暗黙のお約束。




『良かった。本当に良かった』


 電話越しに聞こえた涙交じりのその声には、抱えていた不安の重さとそれから開放された安堵の大きさを示していた。何度もありがとうありがとうと述べる彼女に向ける言葉など、一つとしてなかった。何かを言える立場ではないという漠然とした罪悪感と、かける言葉など無いという無言の叱責。相反する二つの感情に根拠などなかったけれど、確信だけはあった。

 もしかしたら私はこれから間違いを犯そうとしているかもしれない。いや、確実に間違いであり過ちだ。普通に考えて、してはいけない選択だろう。そうは思えど、後には引けない。きっと彼女に連絡を取ったことで、既にそれは坂の上を緩やかに転がり始めたのだから。





 毎年のことだけれど、この季節は一年の中で最も過酷だと思う。少なくとも私にとっては。

 暑さは我慢できるけれど、寒さは我慢の限界値が格段に下がる。だから外を歩く時いつも、ある種の覚悟が必要だ。肌を突く寒さを堪え、凍える寒気を受け入れ開き直る覚悟。そうでなければむき出しの肌から滑り込むその冷たさにいつまでも震え、猫背がちになりながら暖を求めて未練がましく彷徨う羽目になる。いったん深呼吸をしてその寒気を内に取り込んでしまえば、案外なんてことはないものだ。そういう小さな覚悟を済ませてしまえば、いかに凍て付く風が頬を撫で行く手を阻もうとも、足取りを鈍らせるほどにはならない。前を向き、背筋を伸ばし、しゃんと立って目的へと一歩一歩進めばなんてことはない。

 ――そうだ。なんてことはない。例え姿の見えない風に晒されようと、覚悟を決めた私の意思に勝てるはずがない。ああそうだ。勝てるはずがないんだ。きっと。

 そう言い聞かせて足取りはゆったりと、けれど酷く重々しく、一歩一歩地面の硬さを踏みしめる。その一歩をまた踏み出したとき、初めて柔らかな感触が足の裏に伝わった。上等な深紅のマットの上をゆっくり、ゆっくり、私のローファーが踏みしめる。そして目の前で絶えず巡るその透けた回転ドアにも惑うことなく滑り込み、どうにか滞りなくそこへと進入することが適った。

 中へ入ると一変して乳白色の大理石が足元からこれでもかと広がりを見せ、空気すらも暖かく身を竦ませることなど一度も起きないだろう快適な温度を保っている。目も眩む光がそこかしこに乱反射し、誘われるように上を見上げれば呆気にとられるほど見事なシャンデリアがあった。

 けれどそれに目を奪われている暇はない。というより今ここに入ったこの瞬間から、ここにあるすべてのもの、どれにも心を預けてはいけない。そういう決心があった。それは確かに私に必要な決心だったようで、一歩歩みを進めるごとに様々な誘惑が私の足に、意思に絡みつく。それらを振り切るようにわき目も降らず前を進み、聞いていたとおりの場所に目星をつけそこへと向かう。

 眩むようなこの空間。広く、豪勢で、何一つ穢れも曇りもなく完璧に整備された、世界。行き交う人々はどれも私より住む世界が三段飛ばしに違うと思わせる様相の人ばかりで、自分がそこで唯一つの違和感として浮いていることは辺りを見回さずともありありと感じられた。

 居心地が悪いだのという話どころではないけれど、これでいいとも思う。ここは私とは違う。私はここにいるべき人間じゃない。私はこの世界の人たちとは違うんだ。なんとなく、そう思っていなければいけないような気がした。

 それでもできるだけ自然を装い慎重にそこへと向かう。回転ドアから向かって左、カウンターよりも奥、ラウンジの両端にあるエスカレーター。前の人に続きそれに乗り込み、ただ足元だけを見つめる。気を抜けばすぐにでももつれてしまうんじゃないだろうか。そんな不安と戦いながら、早く上へ、いやもう少し遅くなれ、と葛藤する。そうしている間上へ上へと、前へ進むことを余儀なくされる。

 ――そして、とうとう頂上にたどり着き小さな覚悟だけを支えに前を向いたとき、その人はそこにいた。

「初めまして、でもないかしら。お久しぶり。佐藤楓さん」

 頭のてっぺんからつま先まで微塵の隙も感じられないその人は、明らかに余裕のある笑みでもって私を出迎えてくれた。




 一度しか面識のない同級生に、クラスメイトの連絡網からなんとか辿って連絡をこぎつけた。

 突然電話した私にあの子は――記憶によれば眼鏡で意外と足の速い、今まで出会った人の中では厚かましさで群を抜く野生の小動物みたいな吉本さんは――驚くよりも先に電話口で突然涙した。一本の頼りない回線を隔てて聞こえる彼女のすすり泣きは、ただの音声のみだというのに目の前で見るよりも生々しく、その時私は既に電話を切りたい衝動に駆られていた。けれど切れない。切ったら彼女はまた、ここまで彼女を追い詰めた衝動のままにむせび泣くだろう。この音声の比ではなく。

 そうして暫く辛抱して待っていると彼女は漸く持ち直したようで、未だ涙交じりのか細い声で謝罪を呟き、すぐに折り返し電話をするから待っていて、とだけ言うと一方的に電話を切った。相変わらずの問答無用な厚かましさっぷりに苛立ちよりも幾分安堵を覚えたのも、また事実。そうして妙にどきどきしながら待つこと数分、予告通りかけ返してきた彼女は理由も告げず時間と場所を指定し、私が何を言う間も与えずにただありがとうとごめんねを自分の気の済むまで繰り返し呟いてから、再び間髪いれずに電話を切った。

 一瞬掛けなおすことも考えたけれど、やっぱりやめた。きっと何度電話してもかけられる義理もない謝罪と感謝の言葉しか聞けないだろう。もう一度それを聞くためだけに電話をかけても、結果的には自分が何かを余分に磨耗するだけだ。

 結局それ以上のことは諦め、私は半ば自棄になった気持ちでその指定された場所へと向かった。たった一つの意思、何があっても揺るがされないというちっぽけな決意を携えて。




 文集委員の集まりがあったのも事実。けれどそれも昼前には終わってしまったので適当に街をぶらついて指定の時刻まで時間を潰した。指定されたのは四時。場所は一泊十数万円ともウン十万円とも聞く噂の某高級ホテル、ラウンジの真上に位置する場所で、エレベーターのすぐ傍の店の前で待ち合わせ。入ったこともなければ行ったこともないし事実まともに見たことさえないくらい敷居の高すぎる場所だ。正直迷子による遅刻とかで無駄に恥を晒したくなかったので早い段階から下見に行ったのは内緒。

 で、持てる最大限の勇気を振り絞り女子中学生が学校帰りの制服でどうぞ見てくださいとばかりに単身踏み込み、その異様さにも関わらず何故かホテルマンに足止めされることもなくどうにかラウンジを通り抜け、目的地へと辿り着けた。自分じゃこれだけでも重畳ってもんだ。

 けれどそうは問屋とブルジョワが下ろしてくれない。さあ目的は果たしたし帰ろう、なんてギャグをかます余裕も与えず真打登場。恐らくはあの手紙の差出人であり、私を呼び出した張本人、ついでに厚かましい吉本さんを得体の知れない重圧で泣かせた鬼畜大人のご登場。

 どんな人かと想像してみれば意外や意外、女の人であった。けれど既知だとばかりにこの人が言うとおり、私も彼女には見覚えがあった。一度だけ、出会ったとも言えないくらいの接触ならばした覚えがある。それは一度見たら嫌でも目に焼きついて離れない、そんな人。

 昨年、クリスマスの前頃に新さんと言葉を交わしていた、おばさんとは言えないド綺麗なあの女の人だ。

 淡いクリーム色のドレープのついたブラウスにワインレッドのタイトスカート、腕にはプラチナの時計、すらりと均整のとれた足元は私が履いたら一歩目でずっこけそうな黒に近い濃紺のピンヒール。いでたちはすっと芯が通ったように真っ直ぐで、佇まいが凛としている。すっと切れ長の目元は涼しげに、けれど口元はスカートと同色の艶やかな色を放ち、全身に余裕と自信が満ち溢れていた。あの時と同じように髪を後ろで纏めているらしく、けれど後れ毛のように前髪だけ少し顔の脇に寄せられているのがまた妙な色気を感じる。

 見ているだけで自分という存在を根底から覆されそうだ。完璧すぎて同じ人類とは思えない。日本人なんだろうけど膝の位置が高いわ細いわ鼻筋通ってるわで、もうなんかごめんなさいですよ。私がこの人に意味深な手紙の文句を言うより先に服従するほうが早いんじゃあないだろうか。

 早くも決意やら意思やらなんやら諸々と崩れ落ちていく。人間なんて脆いもんですね、ええ。悪いよ。私が悪かったよ。だからおうちに帰して女王陛下。

「そんなに怖がらないで。とって食いやしないわよ」

「はい?」

 何言ってんの何言っちゃってんのこの人。怖くねーしビビッてねーしむしろこのまま紐なしバンジーもやぶさかではないし。何ならこっから飛び降りて三回転半にスピンもおまけして華麗にロビーのど真ん中へ着地してやろうか。ん?

 あんこらとばかりに内心メンチきりつつ表面上は純真無垢な眼差しを意識して、というか普段の新さんを真似して小首を傾げると、目の前のマダムは艶やかか唇に弧を描き、それを指摘した。

「あなた今すぐ家に帰りたい、って顔してる」

 ――ふっ。

 嘘。やっぱ怖い。この人怖い。怖いよ、怖いに決まってんじゃん。微笑みながら人の心読んだよこの人。怖いでしょ。笑顔で心読まれたら流石に怖いでしょ。

 なに、アレですか。美女エスパー的な感じですか。一条家はキワモノで構成されてるんですかね。普通の人は居ないんですかね。笑顔で人の心読むのがセオリーだと。標準装備だと。それってどんな人類補完計画。昨今のトンでもアニメでも流石にそれはないよ、ねえ。あの裏国民的アニメでさえATフィールドっつースーパーマインドウェポンが取り入れられてるんですよ、ねえ。心の中くらい一人にさせてよ、お願いだから。あ、なんか今中学生日記みたいなこと言った。って私まだギリちょん中学生か。いやーんリアルタイムー、っていうかパニくりすぎて脳みそ現実逃避みたいなー。

「まあ、来たばっかりで帰るのも、ね。寒かったでしょう。暖かいものでも飲みながら、ゆっくりお話しましょう」

「はあ」

 考えれば考えるほど冷めていく思考を展開させている私を見下ろし、超絶マダムはうっとりものの笑みを浮かべたまま私の背を押すように促した。

 ――ゆっくりお話、ね。こりゃそんなに早く帰してくれそうにはないな。とりあえず無駄に口答えしないでハイハイ言っとこう。そんでもって一言一句覚えて一条さんにちくってしまおう。餓鬼を舐めんなよ大人め。あることないこと涙目で誇張累乗しまくってやるわ。

 ほくそ笑みつつ謙虚な姿勢でマダムに促されるままエスカレーターの傍から離れ、案内されるまま歩き出す。どうやらカフェというよりサロンらしく、白塗りの壁の上を水が絶え間なく上から下へと流れ落ち、下は白い砂利で敷き詰められ本物かどうかは定かではないけれど蔦が所々張っていた。それらを伝うように通り過ぎると中央に凝った意匠のアーチがあり、金色の文字で英語ではない、恐らくはフランス語かなにかで表記された店名がさらりと記してあった。

 入り口にはボーイらしき人が立っていて、マダムがカードを差し出すと隙のない動作で先を案内するように歩き出す。これがまた中は中で天鵝絨ビロードの、深紅の絨毯に壁は下から半分が漆喰にペイズリーの凝った彫刻、半分から上は中世の絵画を模した半裸で布一枚纏ったベイビーやらおっさんやらヴィーナスやらがあっちらこっちら、なんという優雅な乱れ模様。アンティークの照明に照らされた演出が憎い憎い。テレビの取材を実体験している気分だ。

 などとこの場のイレギュラー最高潮な自分を叱咤激励している間に、こちらです――なーんて、執事さながらにイケメンボーイさんが白い手袋に覆われた指先で終着点を示した。いつのまにか重厚な扉が開かれていて、広々と開けた部屋が視界を覆った。ほの暗くアンニュイな雰囲気の廊下から一変して眩いばかりの輝きに、目を顰めつつ前を行くマダムに続いてそこへと足を踏み入れると、背後で音もなく扉が閉まる気配がした。

「立ち話もなんだから、座ってちょうだい。まだ少し時間があるから、先にお飲み物でも頼んでおきましょうか」

 マダムは勝手知ったるとばかりに私を促し、部屋の中央に位置するソファへと座らせた。その間にもメニューらしきものを私に手渡し、上着や鞄を受け取りハンガーにかけたりと卒がない。やらせっぱなしというのも気まずいんだけど、ほぼ相手の土俵で甲斐甲斐しく動く度胸もない私。仕方がないのでメニューに目を写す振りをしつつ、辺りに目を配ったりしてみた。

 広さは十五畳ほどだろうか、割と広い。踏み心地の柔らかい上等な絨毯も、両開きの扉の装飾も揃ってアンティーク調。全体的なコンセプトがそう設計されているのかもしれない。部屋の端に扉があり、奥に進むと今私が座っているソファがある。ソファは三対になっていて、長方形の机の両脇に二人掛けほどのソファ、その間に一人掛けのソファが鎮座している。そしてその一人掛けのソファの反対側に暖炉が位置していて、ご丁寧に黒い鉄柵がついている。ソファと机の下には絨毯の上にまた白い絨毯、というか恐らくは本物の毛皮らしきものが敷いてあり、足元が異様にふわふわしている。

 ――ゴメンヨ、足蹴にしちゃって。

 脳内で謝るそんな私の頭上には同じくアンティーク調の照明がぶら下がっていて、すずらんを模したような形のランプが四つぶら下がっているような形。それだけだと全体的に薄暗く見えそうなものだけど、暖炉のすぐ脇から部屋の最奥の方、つまり部屋半分暖炉側の壁は完全なガラス張りになっていて、外の光が惜しげもなく入るようになっている。今は四時で丁度夕暮れ時なので、部屋の色調も相成って部屋全体が茜色に染まっているみたいに見える。良く見ると一番奥はカウンターがあるらしい。ここでお酒も飲めるんだろうか。益々サロンっぽい。

 そんなことを延々と考えている間に、いつのまにかマダムが私の向かい側にあるソファに座っていた。足を組み、その上に肘をついてなんだか心持楽しそうに私を眺めている。いつから見られていたんだろうか。慌てて目をメニューに戻すと、彼女がふっと笑ったような気がした。

「決まった?」

「あ、ええと……じゃあ、紅茶をお願いします」

「はい、紅茶ね」

 笑い混じりに答えているから、やっぱり私の様子が可笑しかったんだろう。そりゃそうだよね。何語表記か知らないけど紅茶の種類が幾つも表記されてんのに『紅茶』って。いやだってよく解んないし読めないし。紅茶通じゃないから紅茶は紅茶しかないんだよ。

 内心ふてくされつつも、まあ居心地は悪いけれどそんなにいやな感じはしないなーなんて思う。馬鹿にされてるって訳でもないみたいだ。子ども扱いは確実にされてるだろうけど。元より子ども扱いされていたほうが色々と容赦があっていいような気がするし、それに甘んじておこう。

 おっと、それよりすっかり空気に呑まれて忘れていた。携帯携帯っと。手に持っていたメニューを机の上に戻し、制服のポケットを弄って携帯を取り出す。許可もなくいじっちゃって体裁が悪い気もするけど、躾のなっていない餓鬼認識されたほうが都合がいい。黙って弄っちゃおうっと。

「お家の人に連絡?」

 室内電話ですぐに連絡したのか、マダムが戻ってくる。一瞬ぎくりとしそうになって、けれどなんとか身じろぎ程度で済ませた。危ない危ない。

「連絡の方は、もう既に。あの、電源切っとこうかなって」

「……そう。まあ、あまり意味はないわね」

 ――う。

 見透かしたように呟かれたその言葉に、今度こそ本当にギクッと僅かながら肩を揺らしてしまった。本当に見透かされているのかもしれない。なんだか恐ろしくて顔を上げられず、それでも下を向いたまま私は携帯を閉じて口を噤む。

 ――ばれたんだろうか。ばれてるんだろう。私が携帯を切っていないこと。というか、ボイスレコーダー機能を開始させたこと。

 意味はないって、どういうことだろう。携帯取り上げられるって言う意味?むしろもうお家には戻れないわよ、とか拉致を匂わせてるの? いや、それはないか。だったら『お家の人に連絡?』なんて聞かないもんな。この流れで私に危害を加えるなんて色々考えてリスクがありすぎる。

「大丈夫だから、落ち着いてちょうだい」

「……え」

「もっと堂々としていなさい。あなたはお客様なんだから」

 もう完全に私の心情を見透かしていると言っても過言ではないだろう。マダムはゆったりとソファに背を落ち着けて、言葉の通り随分落ち着いているように見える。

 けっ。それはそうだろうとも。大人はいつだって子供の目線に立つ振りをしながら、自分の土俵で話をする。そういう大人に問答無用で合わさせられるのが、力も経験も無い圧倒的に不利な立場の子供だ。

 なんとなく、そんな彼女の余裕さに私も幾分冷めた心持になり、図らずも少しだけ落ち着くことができた。

 どうあろうと、私を見失っちゃいけない。そうだ。私は、私。

 小さく息をつき、今度こそきちんと前を向いた。

「さっき、時間があると仰っていましたけど、それはもう一人来るということですか?」

「そう。さしずめ私は案内人といったところね。本命は一応、別」

 その一応がまた引っかかるんですけど、あえていったんでしょうねえ。なーんかこの人と話してると妙な既視感を覚える。なんなんだろう。そうは思いつつも表面上はどうにか平静を装ってみる。見透かされてようとね。ふんだ。

「本題は、まだ教えてもらえないんですか?」

「あら。私は貴方がご用命だとばかり伺ったのだけど?」

 にこやかに、けれど有無を言わさない雰囲気で言い切るものだから、つい口を噤んでしまう。

 くそう、まだならまだって言やあいいのに。この人面白がってんな。ええ、悔しがってたまるか。クールだ、クールに行くぞ楓。おうよ。

「ではまだですか?」

「そろそろよ。そんなに時間をとりはしないから安心して」

 宥めるなー、くそー。安心できるかー、一から十まで胡散臭くって酸素マスク欲しいほどだわー。高山に匹敵する息苦しさに早くも眩暈を起こしそうだっつーの。

 全力で無表情装いつつ頭の中でそんなことを叫んでいると、ふっとマダムが口元を歪める。艶やかな唇から忍び笑いを漏らしながら、肩を揺らしてくつくつと笑う。なにが可笑しいんじゃ。

「あなたって、素直なのね」

「はあ」

 そんなこと今まで言われたことないんですけど。貴女が悟りすぎなんじゃないですかね。今すぐ心を読むのをやめてください。さもないと警察を呼びますよ。十中八九虚言癖扱いで先に私が病院送りになるんでしょうけどね。

「まあ、頭は悪くなさそうだけど、少し危うそう」

 だからなにが、だ!

 いい加減眼差しくらいには苛立ちが現れているかもしれない。平常心平常心、と全力で表情括約筋のコントロールに勤しむ私を、マダムの綺麗な眼差しが写る。笑みに潜むその薄茶色の瞳ははっと息を呑むほどに澄んでいて、その瞬間妙な既視感を抱いた。

 ――あれ。なんかこの感覚、覚えがあるような。そんなことを思いながらも目を離せずに居る私に向かって、彼女はいっそう美しい、美しすぎて凄みすらある微笑を浮かべた。

「忠告しておくわ。あの人の言うことを鵜呑みにしては駄目。――いいわね」

 ――――あの人。

 反論する余地もない。彼女の有無を言わせないような壮絶な微笑みに向けて返す反応なんて、頷くことだけで精一杯だった。なんなんだろう。この問答無用さ加減。逆らっちゃいけないっていうか、それ以前にそういう気すら起きなくなる。でも私はどこかで似たようなものを感じたことがある。ぼやけた記憶とうまく繋げられない。けれどいつかもあった。こんなことが。

 ――一瞬の静寂が空間を包み込んだその時。思考を一気に引き戻すようなブザーの音が、その空間を突き抜けた。

「あら。御大尽のご到着。さあ、本番よ楓ちゃん」

 まるで舞台の幕開けを示すように、彼女は言った。

 私は満足に心の準備を整えることも出来ず、ただ、ただ、ゆっくりと開かれるその扉を見つめた。

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