佐藤かえでと一年で最も喜びに満ちた日
十二月に入るとクリスマスムードにもいよいよ拍車がかかり、クライマックスに向けて猛進するようにあれやこれやと何もかもが目まぐるしく移り変わる。天気もそう、人もそう、市場もそう、世情もそう。浮き足立つとはまさにこのこと。この頃の私といえば丁度推薦入試の合格通知が届いて程よく肩の荷も下りて、周りの空気に感化されるように浮かれていた。順調といえば、そう、何もかもが順調だった。私に限って言えば。
それに遭遇したのは、丁度コンビニ帰りのときだった。冬ともなれば自然と日中はどんどん短くなり、この頃になると五時にして辺りが夜のような薄闇に包まれる。そんな中コンビニ袋を片手にぶら下げてだるだる歩いているときに、鉢合わせした。
なだらかなフォルムを描くそれの車種はよく解らないけれど、車に疎い私でも一目で外車と解る。その傍には見慣れたその人がいて、思わずあっと声を上げてしまった。当然、彼もこっちに気付く。よくよく見れば運転席に居るその誰かも、こっちを向いていた。どうやら話中だったらしく、完全に邪魔を入れてしまったようだ。
そのままでも気まずいので、お世辞にも行儀がいいとは言えないぎこちない愛想笑いでお辞儀をすると、先に新さんの方がふいっと目を逸らし、運転席側の人に目を戻した。無視かい。
「じゃあね新。また連絡するから」
街灯からの明かりをフロント硝子が反射していたから、ただでさえ視界が悪いのでその人の顔なんか見えなかったけれど、声からすると女の人だったらしい。それも結構年上の、お上品な人。声だけでなんで解るかって言うと、聞いてるこっちの背筋がぴんと張るほどの気品のある声音だったからっていう。
なんとなーくものものしい空気を醸しつつ、新さんの返事を待たずにその人はゆっくりと車を滑らせた。途中、その緩やかな速度の刹那にすれ違う瞬間、目が合う。真ん中分けの、スッキリと髪を後ろで纏めた、涼しげな目元の人。微笑を浮かべまるで意図的に私にそれを向けたその人の顔は、こっちが面食らうほどの美貌をたたえていた。
ううむ、お姉さんとは言えないけど、おばさんとは死んでも言えない感じの人だったなあ。強いて言えば奥さん。三文官能小説かい。
おかしなベクトルに向きかけた思考を胸に秘めつつ、車が過ぎ去ったところを確認して私も止まっていた歩みを漸く再開させる。新さんは私が近付くと共に、言葉も無くわたしの歩調に合わせ斜め前を歩き始めた。そのせいか、表情が伺えない。嫌に押し黙ったその背中はあえて表情を読ませまいとしている、そんな風に見えた。
「新さん」
「……なに」
心なし、いつもより硬質な声。というより、聞き覚えがある声。さほどの変化は無いけれど、こんな空気を感じていたのは覚えている。丁度一年前の、あの頃とか。
振り返りもしない今の彼は、言葉をかけるのも憚られるほどの雰囲気を纏っている。ただ、傍らには空気も読まずガサガサと世話しなくがなるコンビニ袋。ちらりとそれを横目で見つめ、仕方なしにとため息をついた。
「食べる?」
答えは、無い。それでもしょうがないので、優しい私は選択肢を出してあげる。
「新発売のラー油肉まんと、子猫まん(つぶあん)。どっちがいい?」
本当はどっちも食べるつもりだったんだけどね。甘いの食べたらしょっぱいのも食べたくなる。これ自然の摂理。それでも涙を呑んで選択肢を差し出す私、姉の鏡だね。
暫くの間ガサガサとコンビニ袋だけがやかましく囀り、そしてふいに、新の足が止まった。じっと地面を見つめる彼の顔を私が覗き込むと同時に、ぽそりと呟いた。
「……つぶあんの方」
夜闇に翳る彼の面差しに赤みが差していたかどうかはわからない。ただ私も心が広いので、快く頷き返してあげた。
「おっけぇ、子猫まんね」
「つぶあん」
「だから子猫まんでしょ」
「つぶあんだってば」
「つぶらな瞳がチャームポイントの子猫まんが食べたいんでしょ。正直に言いなよ」
「違う。心のそこから純粋につぶあんが食べたいんだ」
しょうもない言い合いを繰り広げ、羞恥に目を顰めながら「子猫まんが食べたいです」と新さんが呟く頃には、既に我が家の玄関に足を踏みいれているところだった。
今年もやってきた。一年前はどこかぎくしゃくしていた、ぎこちないクリスマス。
十二月初旬、夕食を終えリビングに皆で寛いでいたとき今年はどうしようかという話になり、私はふいに新さんがご飯を作ってくれたことを思い出してその話題を振った。私としては新さんって何でもできるんだねえという一言で終わらせるつもりだったんだけど、そこに食いついたのが他でもないマイマザーと未来のマイファザー。
どうやら新さんがあの日料理を作ったことはおろか料理を作れると言う事実も知らされていなかったらしい(それもどうなんだ特に一条さん)二人は、いわく驚愕の事実に大層なリアクションを返してきた。
その時若干新さんが恨みがましく私を見つめていたため、ああ内緒だったんだとそこで空気を読んだところで後の祭り。あとはもう普段のテンションに三割足した具合でちらちら恨み言を盛り込みつつ自分達も食べたいと言い出し、私たちの二人へのクリスマスプレゼントが手料理ということで決定打を押されてしまった。
ていうか私も巻き添えってこれ墓穴って言うのだろうか。嫌じゃないんだけど、あのとき食べた新さんのご飯は中々手が込んでいて美味しかった。私がそれに加わったところでプラスはおろかマイナスにさえなりかねない。
新さんもあれだけ上手に作れたくせに何が不服なのか気が進まない様子。結局なんだかんだで私と新さんだけが置いてけぼりのまま、親ばか二人はきゃいきゃい楽しそうにクリスマスの話を進めていった。
「ごめんってば」
「別に」
「怒るこたーないのではないかね。そんなに嫌だった?」
「別に」
いや、別に、って感じじゃなさそうじゃん。怒ってるじゃん、やっぱり怒ってるじゃん。
――あの後、やっぱり悪いことしたかなあと部屋を訪ねてみると案の定この様子。こっちを向かずになにやらパソコンでカチカチやっている。照れてるのか怒ってるのか紙一重だから新さん攻略レベル10の私にはちと難関です。
一体どうやって機嫌を直してもらおうか。ぼーっと突っ立っているのもあれなので勝手にソファに腰を下ろし、新さんの後姿を眺めながら考える。うーん、良策、良策っと。そんなもんあるかね。
っていうか新さんの怒りどころがよく解らない。何がスイッチなの? ごめんね、無神経でさあ。デリケートなお坊ちゃんのお心なんざ所詮庶民の私には解らないっつーの。
だんだん逆切れしかけていく思考を展開しているとき、ふいにくるりと新さんが椅子ごと振り返った。どうやらスーパーカタカタタイムは終わった模様。やれやれ。
「まだ怒ってる?」
「怒ってないよ。でもそのクリスマス、楓も手伝ってくれるんだろう」
「そりゃあ勿論、言いだしっぺだし」
自信はないけどね。内心舌を出しつつそう言うと、疑っているのなんなのか、新さんがじっとこっちを見つめてくる。いやに真摯な眼差しを向けられていると、なんだか段々何もしていないのに悪いことしたような気分になってくる。
なに、なんなのさ。
「じゃあ25日、一緒に出かけよう」
「へっ」
「買出しに」
――あっ、ああ。
買出しね。買出し、うん。
なに、一瞬ぎくっとしたのは何で。妙にどぎまぎしてしまったのはなんでなの。うわあいやだ、なんか気持ち悪い。買出しだよ買出し。ただの買出し、うん、よし。
なんだか必死になって心を落ち着けて、それでもせかせかソファから立ち上がりドアに向かう。なんだかこのままじーっと見られているのもいやだ。ついでにどぎまぎしていることを悟られるのもなんとなく癪だ。君子危うきに近寄らず。寝た子を起こすな。三十六計逃げるに如かずっ。
「よし、おっけ。じゃっ、クリスマス買出しね。おーけーおーけー。じゃあ失礼さーした」
さらば、っと振り向かずに部屋を出て、なんとなーくほっと胸を撫で下ろす。何を一人で動揺してるんだか。まあいい、25日はお出かけ。買出しのため。お母さんとついでに一条さんのため。それだけ。
なんだかぐるぐるとおんなじ単語を呪文のように心の中で唱えながら、自分の部屋へと戻った。
それから、あれよあれよと日は過ぎていき、皆で家の飾り付けをしたり、外にも電飾をつけてみたり、学校では最後の大掃除に精を出したりなんだりと、なんだかんだで忙しい日々を過ごした。
イヴは当然終業日。去年のようにお母さん達はデートで、私と新さんは学校から帰ってから予行練習をしたり当日の計画を練ったりあーでもないこうでもないと中々濃い一日を過ごした。
そして来るクリスマス。昼間は一条さんは仕事でいないしお母さんもやることがあるらしいので、私と新さんは心置きなく買い物。前日はものの見事に空気を読んだイヴによってホワイトクリスマス、そして当日は打って変わってあっけらかんとした快晴の空の下、なんとも気持ちのいい買い物日和となった。
とってつけたような好条件の元、行ってきますと声高に、行ってらっしゃいと背に受けて、私たちは例によって常田さんの送迎に預かり家を後にした。
「それにしても」
「なに」
「いや」
後部座席で二人並んで座る。助手席に座る勇気なんてありませんからねー。まあ折角隣りに座ったので、ここぞとばかりに車が走り出してからじーっと新さんを見る。
うん、やっぱし。
うんうん頷くと、怪訝な眼差しを向けられる。いつもと違う雰囲気で見つめられると照れるねえ。うん。
「なんなの」
「いやさ、新さんって意外と可愛いカッコするよねーって」
「は」
心外とばかりに目を顰めるけど、私の言ってること間違ってないよ。この間も思ったけどね、新さんって意外と洒落こいてる。私の中のお坊ちゃまファッションって大抵アーガイルのニットにシャツかっちり着てずっしり重いコート着てるようなお決まりな感じなんだけど、新さんは違うんですねー、これが。とりわけ今日は一段と可愛い。かっこいいって言うより可愛い。
まずまた伊達眼鏡でしょ。しかも前とはまた違うお洒落ぶち眼鏡。で、ニット帽、上はファーのあるフードがついたブルゾンにⅤネック、下にもなんか重ね着してるかな。で、ベルトにその下がハーフパンツ、レギンスに編み上げブーツ。鞄はボディバッグ。つーか足ながっ。ほそっ。
「新さんぽくないよね。普段あんなお堅い制服かっちり着こなしてるのに」
普段の制服の新さんだと、すごくすらっとしていてその制服も似合っているんだけどどこかお堅い感じを覚える。対して今だと逆にラフっていうか、私もそうそうかっちりした格好をしないせいか並んでいてもあんまり不自然じゃない。まあ、美醜とかにじみ出るオーラとかそういうものを除外したらの話だけど。
ちなみに私はジャケットにニット、下はスキニー、エンジニアブーツ。至ってシンプル。着まわし苦手だし貧乏人だからそんなに服持ってないの。だから少ない服で着まわす癖がついちゃったの。悪いか。
新さんも私がじろじろ見ていて気になったのか、私の格好を頭のてっぺんからつま先まで眺めて、それからふいっと顔ごと逸らした。
「か……似合ってるよ」
「ど、お、も」
社交辞令って時と場合を考えたほうがいいと思うんだ新さん。あまりにわざとらしいその配慮に憎憎しく返す。全く忌々しい。どうせ私は何着ても似合う新さんと違って服に選ばれちゃってますよーだ。
「でも俺っぽくないなら上々だ」
「どういうこと?」
「TPOに合わせてる。今の格好が俺っぽくないなら変装の価値ありということだ」
――あれ。
今変な言葉が聞こえませんでしたかね。
返送。変奏。変装?
「へんそお?」
なに言っちゃってんのなに言っちゃってんのこの人。
バーロー。バーローなのか。真実はいつも一つのあれでもするつもりなの。これから殺人現場に向かう途中なの。実はその眼鏡は特殊望遠機能付で、そのブーツは筋力増強シューズだったりしちゃうの。
やだ、うそ、わくわくしてきたんですけど。うぷぷ、江戸川アラタ。見せて見せて、謎が解けるところ見せて。麻酔針刺して。常田さん狙いで。
口に出さずに心の中で妄想炸裂、一人でにまにました私を、新さんの伊達眼鏡がキランと写す。やだ、睨まれてる。
「泣かすよ」
「……サーセン」
っかしーな、口に出したつもりないんだけど。
ていうかボソッと言われると地味に怖いです。ゴメンナサイ、調子にのりました。
「俺と判別つかなければつかないほどいい。そうしたかっただけ。それだけだ」
確かに、ぱっと見だと新さんとは解らないかもしれない。雰囲気そのものが違うから。残念なことに滲み出るオーラとか覆い隠せない美貌とか、そういったものはどうしようもないけど。
でもなんだかそこには新さんなりの努力が潜んでいるように思えた。隠す努力? どうして。態度に偽りや誤魔化しはない。けれどどこか妙に芯のある意志がある。再び窓の外に顔を向けてしまった新さんの表情を伺うことはできず、その答えを見つけることはできなかった。
新さんはあの日私が謝りに行ったとき、パソコンでめぼしいメニューを調べていたらしい。なるほどそういえば熱心にカチカチ画面を見つめているものだから、確かに気になってはいた。まあ仮にも年頃の女子の前でエロサイトを検索するほど豪胆な奴でもないのでそれほど気にしてなかったんだけど。
かくいう献立は私のリクエストで去年も食べたミネストローネ、一条さんのリクエストでポテトサラダ、お母さんのリクエストで手作りケーキ。それだけじゃわびしいのでローストチキンとパエリア、それからお酒を飲むであろう大人たちのためのつまみ、って感じ。
ご飯はいいけどケーキ手作りって。買ってきたほうが美味しいんじゃないかと思うんだけど、どうしても手作りケーキがいいと二人がきゃいきゃい盛り上がったために拒否権はなかった。
ていうかその他の内容も洒落こいてて若干中級レベル以上な気がしてならないのは気のせいではないだろう。ケーキやポテトサラダくらいならお母さんと一緒に作ったことあるけど、パエリアとか、どこのイタ飯屋っていう。うまくできるんだろうか。不安でならない。
まあそのために休日に各一つずつ二人で作ってみたりしたから初めてよりはましだけど、それで身に染みたのはやっぱりお母さんのありがたさだね。慣れてないから手際が良くないって言うのもあれだけど、一つ作るのに思ったよりも時間かかったもん。いつもご飯を作ってくれてるお母さんがどれだけ手間隙かけてくれてたのかっていうのが痛いほど解った。
そしていくら新さんでも初めての料理となるとそうそう完璧にはできないということも。新さんは言わなかったけど、あのときのクリスマスの料理も相当時間をかけたのだろう。練習のときも私以上に真剣で慎重すぎるほど慎重だった。確かにやってることは流石新さんとだけあって丁寧で綺麗な仕事なんだけど、いかんせん時間がかかりすぎ。ちまちま分量キッチリ測るわ徹底的に時間を計るわ手順をいちいち計算するわ面倒くさいことこの上ない。
逆に私は全体的にアバウトすぎたらしく何度も新さんにつっこまれたけど、正直どっこいどっこいだと思います。小姑め。その辺りのことも含めて、練習してよかったねーって改善点を見出せた。
今回はその辺りの段取りや時間の計算も含めて計画に織り込み済みだから余裕はある、はず。計画の本筋は新さんがきっちり組んでくれたので、後は私が足を引っ張らないようにできる限りサポートするのみだ。
やるなら美味しいものを作って食べてもらいたい。口にはしなかったけれど、なんとなく新さんもそう思っているような気がする。渋っていたわりにやる気満々なところがまた新さんの可愛いところだ。
最近、解ってきたんだけど、新さんは言葉よりも態度で心を示してくるのね。あえて言葉にすることは少ないけれど、それ以上に彼の仕草や行動によってその時の気持ちが顕著に現れる。それは何かを事細かに説明するよりも不思議と重みがあり、そしてどこか不器用な素直さを思わせる。
そういう新さんの行動に目を細めて微笑む一条さんやお母さんに気付いてから、私も新さんが名実共に我が家のアイドルとなったということを確信した。共に過ごすごとに、新さんの本来持っているだろうその本質が見えて、不思議と惹きこまれていくような気がする。
だからこの一年をかけて、新さんが色々な人の注目を集める理由がわかった。見た目の麗しさだけじゃない。内に秘めるそのまっさらな純真さが、人の心を惹くのだろう。
一条さんやお母さんだけじゃない。私のそのうちの一人。全く厄介なものだけど、不思議といやじゃないのがまた困る。一緒にいると、自分の中にあるはずの悪い気持ちがなりを潜めてしまう。本当に不思議な子だ。けれど、憎めないから、むしろ可愛いと思えるから、この子をまっさらなままに守ってあげたいと望んでしまったりもする。
彼を知れば知るほど、誰もがそう思うのだろう。近寄りたいけれど、近寄りがたい。けれど受け入れてもらえると、とてつもなく嬉しくなったりする。一年を通してなんて随分遅いけれど、私も痛いほどに新さんの魅力が解った。この子にそのまっさらな心で接してもらえるなら、私も出来うる限りの真心を尽くしたい。そんな風にまで思ってしまう、今日この頃。
面映いから本人には言わないけれど、どうやら私も新信者の一人になってしまったらしい。だからと言って、追い詰めたりはしたくない。家族となるなら家族として、傍で見守っていけたらいいと思う。時には姉らしく彼をサポートしたりして、支えになれたらいい、なんて願望。
こういうのなんていうのかな。ブラコンってやつだろうか。恐ろしや、新フェロモン。そこまでいっていないと思いたいけれど、そこに行き着くのもそう遠くないだろう。なにせ我が家には既に親ばか二人がいるのだから。あの度を越えた二人から新さんを守ってやれるのは私しかいない。私がやらねば。うむ。
「楓よ、いかがなされた」
ふっと、眼前を影が遮る。反射的に顔を上げると、息をもつかせぬ麗しいご尊顔が私の粗末な顔を覗き込んでいた。ええい、麗しい奴め。本当にまっこと麗しい奴め。
「すまぬ。某、あい呆けており申した」
「ならばよし。来たれ」
「うむ、苦しゅうない」
ちょっととんちんかんな会話を育みつつ、新さんの隣に並ぶ。食材の買出しは、家より離れたところにあるちょっとお高いデパートにした。そこだと香辛料も豊富だし何でも揃っているから材料には困らない。
デパ地下のスーパーに入って数十分か、材料はメモにきっちり記してあったのでそれほど時間もかからずにあらかたのものは揃えられた。既に会計を済ませ、荷物は手元にはない。例によって常田さんが以下略でつっこんではいけない法則です。
「意外と早く済んだねえ」
「うん。まだだいぶ時間に余裕がある」
左手に嵌めた腕時計を見つめながら新さんが言う。地下をエスカレーターで上がり出たところで彼の足がぴたっと止まり、私も数歩遅れて歩みを止めた。ぽつりと、呟いた、らしい。新さんが。
「お」
「お?」
よく聞こえなかった。振り返ると、じいいいっと見つめてくる新さんの真摯な眼差しにぶつかる。真摯っていうか力こもりすぎて殆ど睨まれてるって感じなんですけど。
何を言われるやらと身構えた瞬間、口を幾度か開閉していた彼が意を決したように言った。
「お茶してく?」
ぽそっ、と放ったその台詞。見る間に新さんの顔が紅色に染まりだし、耳までそれに染まり目は潤み、ほぼ同じ身長だというのに若干上目遣い。寒気にあてられてか口からは白い息が漏れ、ゆらゆらと揺れる透き通った濁りない瞳。真正面でその衝撃を受けた私はおろか、傍にいた通行人でさえ足を止めたのが解った。
これはまずい。非常にまずい。
危機回避本能から反射的に新さんの手をとり、その場から逃げるように足早で歩き出す。
「楓?」
「新さん、その顔は反則」
「え」
何あれ。なんなの。なんで赤面するかなあ。ていうか乙女ならいざ知らず男が頬染めただけだというのに嫌悪感どころか心臓止まりかけるくらい魅入られてしまった。あのままあそこにいたら新さんの貞操が危なかったかもしれない。
嘘じゃない。その証拠に歩みを止めた通行人には中年男性やらバリバリのサラリーマンなんかもいて、何故か顔を真っ赤にして新さんを凝視していた。恐るべき破壊力。男女問わずどころか無差別にも程がある。
今だってホラ、ただ歩いているだけだというのに道行く人が振り返る。目で追う。凝視する。なんで数メートル手前の人まで気配を察知して振り返るの。ここまでくると怖いわ、新オーラ。
久しぶりに一緒に出かけたのでこの現実をすっぱり忘れていた自分が恨めしい。そうだよ、新さんはこういう奴だ。要注意なの。主に周囲。
セオリーから逆転している我が身を嘆きながら、戸惑う新さんをぐいぐい引っ張り、仕切りのあるカフェへと駆け込んだ。ああ、無情。
空いていたのでこれ幸いとばかりに案内される前に店の最奥に向かい、問答無用でジェラートのセットを頼んだ。勿論新さんもちなのはいわらいでか。さっきのことを踏まえて考えれば、新さんは私に喜んで奉仕して然るべきだ。
漸く落ち着けるところに腰を下ろし、段々と怒気がふつふつ湧いてくる。対して新さんは呑気に外の眺めなんかを見つめて、さっきのあの乙女のような表情は欠片も見当たらなかった。少しは気にしろ元凶め。
「あのさあ、ねえ。なんでさあ、頬赤らめるの。おかしくない? 普通に言ってよ。なんでいちいちフェロモン撒き散らすの。頼むからTPOを考えてよ」
「なにそれ。知らない、そんなの。俺はただ、その」
むっと拗ねたように目を逸らし、口ごもる。またこの表情が素なのが解るから逆にいらっと来る。いらっとくるが、可愛くも見えてしまう新マジック。
ふん、私はその辺の新初心者と違って玄人レベルなんだよ。さっきは油断したけどそうそう何度も通じませんから。さっさと言えとばかりに鼻息荒く睨みつけると、また若干ぽっと頬を染めつつ白状した。
――だからそれを止めろと。
「なんか、台詞が一昔前のナンパの常套句みたいだったから」
――はあ?
と、口に出さなかった私は偉い。偉いが、顔には顕著に表れていたらしい。何故か新さんは羞恥のためか益々頬を赤らめ、私の凝視から逃れるようにしてまた外の眺めに目を移した。
ていうか、あの、あのね。意味、解んないんですけど。つまり、あれでしょ。ナンパの台詞みたいなこと素で言っちゃったから、恥ずかしくなったってこと?
いや、解る。言いたいことは辛うじて解る。解るけど、総合的に意味わかんない。それで頬赤らめたの? それだけで羞恥に赤面して辺り一帯の視線を独り占めしたの?
意味解らんです。新さんの価値観が謎。頬の赤らめどころが解らない。ていうか危険。危険だよこれ。いっつもこうなの? 普段でも、外でもこんな感じなの新さん。そりゃ老若男女魅了されるわけだわ。フェロモン垂れ流しなんだもん。常に出血大サービスのヘヴン状態でしょ。しかも本人解っていない。自覚していない。素で己も周りも見ていない。
もうやだ、なんなのこの子。危なっかしくてこっちが怖いわ。天然系乙女ヒロイン男バージョンみたいな。苛々しながらももどかしいっていう術中に見事に嵌りましたよお姉さんは。
「まあ、あの。その、なんですかね。そういう顔は、好きな子の前だけに見せてあげなさい、ね?」
自分でも何を言っているのか意味不明ですとも。言いながらも筆舌に尽くしがたい虚しさを覚える。これって年頃の女の子が年頃の男の子にかける言葉かな。ありかな。ありなのかな、これ。我ながら痛々しい。
「好きな子」
新さんは、私の意図に反して余計なところに反応した。不思議そうにぱちくりと目を瞬き、比類なく純粋な眼差しでじっと私を見つめてくる。そんな、『好きな子って、誰のこと?』とかききたげな眼差しで見られても、私も知らんがな。そういうのは自分の心に聞いてほしい問題なんですけど。
そうして『赤ちゃんってどこから来るの?』的な質問をされたような居心地の悪さに身をすくめたとき、天の救いが現れた。
「お待たせしましたー。こちら、三種のジェラートとフルーツティーのセットをご注文のお客様」
「あ、はいはいこっちでーす」
近場なのにわざわざウェイトレスさんに向かって大げさに挙手して場を有耶無耶にっと。なんかまだじーっと見てるけど、『わあ美味しそう』なんてオーバーアクションでスルーしきってみせた。
ふいー、やれやれ。なんだこの面倒くさい空気。危うく『好きな子とはなんぞや』とか真剣十代な話題に突入するところだった。さて、それはともかくジェラートを頂くとするかね。
「美味しそうだねえ」
全くです。
――あれれ。
一匙掬い、さあ食べようと大口開けたその瞬間を狙うように、合いの手が聞こえた。新さんの声じゃない。もっと低くて、そう、大人の男の人のような――。
「あのう」
「うん。あ、続けて続けて」
顔を上げると、目の前に知らない男がいた。正確には、斜め前。私の向かい側に座る新さんの横に、知らない男の人がいつのまにか腰掛けていた。二十代後半辺りでやや頭髪の色味が明るい。グレーのスーツに紺色のネクタイを締めていて、人当たりのいい笑みは一見爽やかそうに見えるけれどこの場ではどう見ても胡散臭い微笑にしか見えない。
大口開けていた私はそれを口にすることなく匙を置き、また新さんも警戒するように眉を顰め佇まいを正す。異様な緊張感がさっと走り抜けると、突然現れたその男はその空気に苦笑するように肩をすくめた。
「そんなに怖い顔しないで、楓さん」
――きた。また、きた。既知の感覚に、背筋にも力が入る。
ああ、また、知らない人のお出まし。正確に言うと、一方的にこっちの情報を把握している知らない人。新さんも思い至ったようで眉間の皺を濃くして立ち上がろうとして、けれどすかさず男が新さんを制するようにさっと片手でそれを遮る。
上手だ。いや、いつもこんなものなのだろう。最近新さんと出かけることもなかったから、こちらもすっかり失念していた。ぬかった、馬鹿め。予想できたことなのに。
内心舌打ちをして、けれど表情では努めて平静を装う。こういうのは舐められたらおしまいだ。相手の空気にまんまと呑まれちゃいけない。
「どなたか存じませんが、あまりに不躾ではないですか」
「やあ、はは。ごめんね。どうしても君達に会いたくって」
――君達、と。新さんだけじゃなくて、私も含まれているんだろうか。
その言葉に引っ掛かりを覚えた私に目ざとく気付いた新さんがもの言いたげに私を見つめてくる。うん、まあ、相手にしちゃいかんのは解ってるんだけど。ちょっと待って、とアイコンタクト。
「ご無礼をお許しください、若様。こちらも立て込んでおりまして、このような形で拝謁いたしますこと、ひらにご容赦くださいますよう」
私のアイコンタクトに便乗してか、畳み掛けるように言う。どこか慇懃無礼なその物言いに、新さんの表情も険しくなる一方だ。この人、まるであえて挑発しているみたい。いや、みたい、じゃなくて――。
「当主の許しを得ていないのならばお引き取り頂くほかありません」
「そうは申されましても、こちらも承諾いたしかねます。どうか暫しお話を聞いてはいただけませんか、若様」
『若様』のイントネーションがいやにこれ見よがしだ。やっぱりこの人挑発しているんだ。しかも新さんが嫌がる言葉を知っているらしい。
新さんの眼差しがどんどん険しく、そして冷ややかになっていく。スーツの彼はそれをものともせず薄ら笑いを浮かべ、挑発的な態度を崩そうとしない。こりゃ呑気に話を聞いてる場合じゃないな。
「あの、お話を聴く前にお名前を伺ってもよろしいですか?」
「その前に私の話を聞いてくだされば、喜んでお教えしますよ、楓嬢」
楓嬢ゆーな。この歳でお水みたいじゃろが。フェミニストぶりやがっていちいち癇に障るヤローだな。新さんじゃなくてもイラつくわ。
って術中術中。嵌っちゃあかんて。私の土俵私の土俵。新さんがギリギリ相手を睨む傍ら、私は心の中で呪文を唱える。
「基本的な素性も示せない相手とお喋りする余裕はないんです。プライベートですよ、お分かりですか」
「ふふ、プライベート、ね」
てんめええええ。こっちだって気取った喋り方したくねーんだよど畜生馬鹿にしやがって。クスッとか笑ってんじゃねえですよおお。気持ち悪いんだよおお。
頭の中で罵詈雑言、表面上はにわか笑顔の応酬。このままだと多分同じような応酬で埒が明かない、平行線だ。一気にぶちきれて店を飛び出すか、と机の端に両手をついた。ガタッと些か荒っぽい音が物静かなカフェに響く。
――が、私じゃない。新さんの方が先に、立ち上がっていた。
「ふざけるな。不愉快だ。非礼を承知ならばそれ相応の報いを受けろ。次期の名を舐めるなよ」
輝きの一かけらもない凍て付く眼差しを男に向け、そのまま椅子の背にかけていたジャケットと鞄を引っつかみ、もう片方の手で私の右手を掴んでわき目も振らず店を飛び出した。
私はといえば二の句を告げることもできず、ただあわあわと空いてるほうの手で自分の荷物を引っつかむしかできなかった。何がどうしたというのだろう。いつもの新さんとは違う。荒々しく、そしていつも以上に直情的で、およそ普段の淡々とした様が欠片も見当たらない。ただただ引かれるその右手が少し痛くて、けれど振り返りもせず憤然と前を歩く新さんにそれを言うのは何故か憚られた。
どんどん、どんどん、街場から離れていく。人気がなくなったところで漸くその競歩並みの歩みが止んで、それと同時に右手も開放される。けれど新さんはそのまま勢い良く振り返ると私の両手を掴みなおしその両手でぎゅっと包み込んで、近すぎるほどに私の顔を覗き込んできた。
「ちょっ、新さ」
「大丈夫か。ごめんな、怖い思いさせて」
私の声を遮り矢継ぎ早に言う新さんの表情こそ不安げな色に染まっている。請うようにも見えるその切なげな眼差しに圧倒され、私は半ばのけぞるようにしながらもなんとか首を横に振った。
「いや、大丈夫、だけど新さんが」
「俺は」
ふと、思いつめたように新さんの瞳が揺れる。揺ら揺ら、揺ら揺らと揺らめくそれは、もう元の澄み切った色に戻っているようで、私は寧ろそのことにほっとした。さっきの新さんは吃驚するくらい、いつもと様子が違っていた。怖かったのは新さんなんじゃないだろうか。
意気消沈したように項垂れ、今さっきこれでもかと握り締められた両手も辛うじてつま先が繋がっている程度。ころころと変わる彼の態度に戸惑いながらも、どうにか慰めようと今度は私が新さんの顔を覗き込む。
「あの、大丈夫だってば。新さんこそ、大丈夫?」
何故だかものすごーく落ち込んでいらっしゃる。このまま帰ったら何事かと私がお母さんや一条さんにどやされてしまう。そんな面倒なことは御免だ。心配半分自己保身半分で伺ってみた。
「俺は」
「うん」
「不甲斐ない、よ。楓に悪いことした」
――悪いこと?
なんだか悲壮感たっぷりに思いもよらないことを言うものだから、頭の上にはてなが幾つも乱立する。悪いことってなにが。新さんっていうより、あの人でしょ。むしろ新さんも一緒に迷惑被ってただけじゃん。
「あのー、新さんは別に悪く、ないよ? 私も悪いだなんて思ってもないっていうかさ、」
「食べられなかったから」
「は」
何を。何を、って。あれか。まさか、ジェラートのことでしょうかね。疑い交じりでじっと見ると、私の言わんとしていることに同意の意を示すためか、こくんと無言で頷く。どうやら本当にジェラートのことらしい。
いや、待て。待ってください。ジェラート? あのジェラートで落ち込んでるのですか、貴方は。不甲斐ないとか、ズガーンときてるんですか。マジで。新さん、マジですか。
「はあー? ……はっ。ちょ……と、もう……ハハハ」
突如笑い出した私の声に反応して、新さんが顔を上げる。私はこみ上げる笑いをかみ殺しながら新さんの頭を少し荒い手つきで撫でてあげた。意味が解らないとばかりに目を白黒させている新さんを見ると、益々笑えてくる。でも違うよ。新さんにはわからないだろうけど、可笑しいっていうより嬉しいって感じなの。だから笑っちゃうんだ。
「そんなこといーんだよ。らしくないね、落ち込んじゃって。謝ることなんてないじゃん。むしろ見直したよ」
不思議な子だとは思ったけど、ここまでとは。まだ解っていないのか、子リスのようにぱちぱち目を瞬かせている。普段はホラ、こんな風に、かっこいいって言うより可愛い感じ。守ってあげたくなるみたいな。でも――。
「新さんは不甲斐なくなんかない。かっこよかったよ、さっき。ありがとう」
ジェラートのことなんかチャラになるくらいすかっとした。正直直前まで私が新さんを守ってあげなくちゃーなんて思っていたからなおさらだ。まさに度肝を抜かれた。私が手を出す余地もなかった。そんなに落ち込むってことは、少なからず私を守ろうとしてくれたってことでしょ。しかもジェラート含めて。そんなところで落ち込んじゃうのがまた新さんらしいっちゃあらしい気もするけど、でもそんなことはいいんだよ。とにかく嬉しい。なんだかすごく、嬉しいぞ。頑張ってくれたんだね。さっきだけじゃない。きっと、今日一日。
「わはは、いい子だねー新君は」
「褒めてないだろ、それ」
「んなこたあないですよ」
にやにやしてしまったせいか、頭を撫で付けていた手も避けられる。けれど背けられた顔はやっぱり赤くなっていて、その素直な態度を嬉しく思いつつほっとした。さっきの新さんは、正直とても怖い顔をしていた。けれど今の新さんはもういつもの新さんだ。それがなんだか、本当の新さんはこっちなんだと示しているようで安心できる。なんとなくだけど、新さんにああいう顔をさせたくはない。ああいう顔も気持ちも、新さんが望んでいるとはあまり思えない。
それに憶測だけど、一条さんもきっと見たら悲しむだろう。お母さんも、きっと。それが想像できるから、余計に立ち直ってくれたことに安堵する。解らないことも色々起こりすぎて混乱したけれど、今こうであることがなによりだ。
穏やかでいること、笑うこと、怒ること、落ち込むこと、立ち直ること。それらを素直に示せるこの環境はきっと新さんにとって大事なことのような気がしてならない。間違ってもあのカフェのときのように、いやな緊張感で満たされてはいけない。姿の見えないものに脅かされることの恐ろしさをなによりも知っているのは、きっと新さんに違いない。薄氷の上でこれまでの日常を築き、けれどいつ崩されるかと憂う危うさを私ですら感じていた。何がとは言い切れないから歯がゆいし悔しいけれど、確かにそれを守りたいと思ったのも事実だ。
私だけじゃない。多分、お母さんも、一条さんも、そして新さんも。この日常が何より大切なんだ。だから守ろうとするし、そのために変わることさえできる。私はこの一年で自分の心を向き合い、そして新さんは避けることから立ち向かうことを覚えた。変わったのは、私だけじゃなかった。
なんだかそれが、嬉しい。共に歩む心が見えたようで、嬉しい。労うように新さんの背中をぽんと叩いて、隣に並ぶ。歩き出すと、歩調を合わせるように新さんも歩き出した。
「サンタさん来るといいねえ」
「いくらなんでも子ども扱いしすぎだ。一歳しか違わないだろ」
「でも身長はまだ私の方が上だもんね」
辛うじてだけど。ご機嫌を損ねたようにむっと押し黙る新さんの横で、空を見上げた。
「美味しいご飯作って、お母さんと一条さんに食べてもらおうね」
「……うん」
同じ高さで見上げる、凍て付く寒空の下、火照る心を抱きながら暖かい家路へと向かう。
その年のクリスマスは喜びに満ちていて、一年を締めくくるには相応しい思い出の日となった。




