佐藤かえでとお母さん
一条家豆知識第十三回、我が家のポスト事情。
我が家のポストはほんのちょっと普通と違う。郵便物は大抵のものなら受け入れ可能。でも入れることは出来るけど、誰にでも回収できるわけじゃない。それは他人ならず私たちまでも、簡単には入手できない。作りそのものが、ぱかっと蓋を開けてさっと取るとかそういうものではなくて、特別な鍵がついている。それは一条さんの持っているキーでぽちっと押さなければ中身を取り出せない代物で、ポスト一つに大仰なセキュリティがついている。聞くところによると、壊したり無理やり開けようとした場合警報が鳴って警備会社にも連絡が入り、すぐさま駆けつけてくるらしい。しかも中に赤外線センサーがあるらしく、おかしなものが入っていればすぐに解るとのこと。おかしなものってなによ、とつっこんだら負けだ。まあ大事な書類はその家にいちいち届いてくるわけではないけれど、念には念を入れているらしく、そんな厳重かつ強固なポストが設置されたらしい。
そういうわけで毎回回収する人は一条さんで、それから家人の各人に届いたものが振り分けられる。私は別にダイレクトメールとかその程度しか届かないだろうからいいけれど、それにしたってドン引き極まりない。一条さんはポストに何らかのトラウマでも抱えているのだろうか。もしくは郵便物に並々ならぬ憎悪と不信を抱いているとか。どの道無機物相手にそれほどの確執を抱く一条さんはやっぱり底知れない。ていうかなんか怖い。意味なく怖い。
そんなこんなで、あまりにぞっとして大事なことを聞くのを忘れていた。そしてその大事なことは、私の勉強机の引き出しの奥へと、深く深く隔離されてしまった。
パンドラの箱は未だ、閉じたままだ。
人生で最も刺激的なハロウィンを経て、落葉真っ只中の十一月。そろそろ本格的に肌寒くなり始め、着るものにも自然と厚みが出てくる頃。当然比例して朝起きるのも億劫になる。一年経つと慣れという厄介な慢心が出てくるもので、一年前はどんな日でもきっちり朝の定時に起きていたものを、休みの日くらいまあいいかと勝手に作り上げた免罪符で寝坊する休日も定番になってきた。
ちゃっかり前日夜更かしをして、翌日きっかり八時間ほど眠った土曜日の九時。いつもの支度をいつもの倍の時間をかけてのんびり済ませ、のろのろと自堕落極まりなくリビングに下りると、そこには既に普段着に着替えた一条さんがソファにくつろいでいた。どっかで見たことある光景みたいに、新聞を広げて読んでいる。ただし、スポニ○とかじゃなくてなんか細かい字がずらーってしてる方だけど。朝っぱらからあんなの読んでよく目が回らないもんだと逆に感心する。
「あ。おはよう楓ちゃん」
「おはよう、ございます」
私の気配に気付いた一条さんが振り返って、朝一番の爽やかスマイルをお見舞いしてくれる。慣れたとはいえ、寝坊した朝一番に一条さんを見るとやっぱり落ち着かず、ちょっと戸惑う。そのまま椅子に座ると、お母さんがさっとご飯を用意してくれた。御飯茶碗を差し出してきたときに、私は声を潜めて聞いてみた。
「あの、今日なんかあるの?」
「え、なに?」
声大きいお母さん!
ちらっと後ろを見たけど、気付いているのかいないのか、一条さんはまだ新聞に目を通したままだ。ふう、危なかった。慎重を期してお母さんを手招きして、前に座らせた。内緒話のお約束、お互い前のめり。
「あのね」
「うん」
「一条さんがあんなにのんびりしてるの、珍しくないかな」
「そう?」
うう、話が繋がらない。きょとんと目を瞬かせるお母さんは、本当にわかっていないようで小首をかしげている。こんな幼い仕草が似合うのも、ひとえにお母さんが童顔で可愛いからこそ許される。ふわふわ緩めの天然パーマで身体ちっちゃいし童顔だし可愛いしで、守ってあげたくなるタイプそのものだ。直毛で比較的長身な方の私とは大違い。
お母さんに言わせれば私はお父さん似らしいけど、お母さんに似たかったなあなんて時々は思わなくも無い。まあ私がお母さんみたいな子ウサギタイプだったら色々破綻してたような気がするから、これはこれでなるべくしてなった結果のような気もするけど。
って今はそういう主観は置いといて、一条さんよ、一条さん。
「あのね、だからね」
「かえでちゃん、ご飯冷めちゃうよ」
「うん、そうだね、冷める前に食べなきゃね、美味しいうちにね」
ぐむむ。話が進まない。でも折角用意してくれたのでちゃんと味わって食べなきゃ。気がそぞろだったり早食いしたりすると拗ねるんだよね、お母さん。まあ私が悪いんだけど。
観念してご飯に集中すると、湯飲みにお茶を注ぎながらお母さんが言った。
「今日はね、お出かけするんだって」
「え」
おでかけって、一人で? もしくは、誰かと? 私誘われてないよね。いきなり皆で行きますって言われても困るよ。私にだって予定というものが、まあ、今日は無いけど。いや、時々忙しいよ、私だって。うん。
脳裏に一瞬で巡った思考に苦しい言い訳をしていると、お母さんが違う違うと首を横に振った。
「かえでちゃんは行かなくて大丈夫だから」
「え? じゃあデート?」
「ちっ、違う違う。そういうこと言わないの!」
言わないの! って言われても普通好きあってる男女が出かけるといえばデートじゃん。全くいい年こいてカマトトぶっちゃって、お母さんたら初心いのう。そこがまた私と違って憎めないところでもあるんだけどさ。
「あのね、そういうんじゃなくて今日は始さんと」
「おはようございます」
慌てふためくようなお母さんの声を遮り、ふっと後ろから声がして振り返ると、新さんがいた。私より寝坊するなんて珍しい、と思ってみてみたら、なんとなくいつもと装いが違っていた。淡い水色のシャツに紺と赤の縞模様のネクタイを締めて、グレーに近い色の黒いベストを着ている。下はカーキのスキニーを履いて、上着に袖の黒いベージュのジャケット、暗めの紺色のストールを首から下げていた。しかも何故か伊達眼鏡着用で、髪もバッチリセットされている。
完全にお出かけモードの装いに、フード付パーカー&ジーンズの完全部屋着スタイルの私は圧倒されてしまった。
なに、なんなの。今日は英国紳士チックに決めてみましたってか。畜生似合ってるよ、足長いよ完璧モード系だよ新さん。今だけは新さんって言うよりARATAって感じだ。ていうか本当に何事。
「ん、用意できた? もう行くか」
「うん」
一条さんだけは解ったようで、傍らのソファの背にかけていたジャケットを羽織った。え、なに、どういうこと。お母さんのデートに新さんも着いていくの。私だけのけ者? とか思っている間に、お母さんが立ち上がって世話女房よろしく一条さんの襟を正してあげている。
「じゃあ、行ってくるね」
「はい。行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」
「うん。じゃあ、楓ちゃんも。行ってくるね」
「え、あ、はあ……いえ、いって、らっしゃい、です」
何故だか私にもふってきたので慌てて駆け寄ると、にっこり満足そうに笑って私に新聞を手渡してきた。その新聞を受け取りながら新さんを見ると、彼はいつもよりも更に寡黙になってしまったように、目を伏せていた。機嫌が悪い? いや、というよりむしろ――。
首を捻っている間に、リビングの扉が閉じる。見送りにお母さんまで行っちゃって、私一人がぽつねんと残る。取り残された私の耳には、まだあの言葉がリフレインしていた。新聞を受け取るときに、こっそりと囁かれた嬉しそうなその声によって。
『驚いた? これが、イイコトの正体だよ』
――イイコト。
私の頭の中にはその声と、そしてあの夏の夜に垣間見た蕩けるような微笑がぽっかりと浮かんでいた。
「試写会に行くんだって」
「ふーん」
結局中途半端に冷めてしまった朝食を再開しながら、私はお母さんにことの経緯を改めて説明してもらっていた。つまり、デートはお母さんと一条さんじゃなくって、新さんと一条さんだったんだ。いや、親子でしかも同姓同士でデートって、あんまり言わないだろうけど。一部マニアックな設定をお持ちの世界を除いて。
それをデートといわずしてなんと呼ぶかはさておいて、一条さんのイイコトってこういうことだったのか、と今更納得した。いやあ、あの時はてっきり息子の寝室に不法侵入を試み、結果侮蔑の眼差しを向けられたことによってある種の性癖を刺激されて得もいえぬ快感を得ることが出来て重畳でした、とかそんなオチだと思ってた。いや、嘘だけど。そういう設定を練って楽しんでたっていう。ごめんなさい一条さん、妄想で変態扱いしてしまって。
しかしそれにしてもだね、てえ事はだよ、あの夜に新さんとその約束を取り付けたから、一条さんはあんなに嬉しそうな顔をしていたって事か。そっか。試写会に誘ったわけだ、一条さんが。で、新さんはそれを断らなかったと。真夜中に? 新さんもよく断らなかったもんだ。あ、真夜中だから断るのも面倒くさかったのかな。一条さんはソレを狙ったのかな。どうよソレ。父親として邪道まっしぐらってどうなのよ、ソレ。じゃあさっきの妙なムッツリ顔は、照れてたのか。なんか新さんにしては珍しく目も合わせようとしなかったし。なるほどねえ。可愛いとこあんじゃん。そりゃ一条さんもご機嫌になるわけだ。
「はあー、あの二人がねえ」
「ね。今まで二人で私的な用事で出かけたことがなかったんだって。良かったねえ」
「うーん。そうねえ」
私的な用事ってことは、色々事情によっては借り出されることもあったけど、個人的に二人で出かけたりすることが無かったって事か。それってどんだけなの。何かお母さん今日は晴れてよかったね位の軽さで笑ってるけど、よくよく考えてみるとそれってすんごく切ないものを感じるね。
なんなのあの二人って。本当位置関係とか距離感とか意味不明なんですけど。けどなんか若干デリケートな感じですごいつっこみづらい。どう接したらいいのってか今までどうも接しなかった私って何なの。一年経ってやっとこさ現状掴むってどうなの私。無関心にも程があるでしょ。一年前と大違いだよ。緩みすぎ、マジで。
「お、お母さんは、その……」
「んー?」
「知ってた、の?」
諸々。ていうか多分まだ私が知らないこと山ほどあるんだろうけど。どこまで知ってるんだろう。ていうか知ってたなら少しくらい教えてくれてもいいのに。のほほんと笑ってくれちゃって。
「んー? 知ってたって、何がかなあ。なんだろうねえ」
首を右に左にわざとらしく傾げながら、いつのまにか食べ終えていた空の食器を回収していく。ナニソレ。はぐらかしてるのかな。はぐらかしてるつもりかな。つっこんじゃ駄目なの。どこまで。さじ加減がわかんないんですけど。ええええ。何この置いてけぼり感。もしかして私、一番出遅れてる? ウソ、ヤダ、マジで。私としたことがっ。
「お母さん!」
「うーん、あ、かえでちゃんも早く準備してねー」
「えっ」
食器を洗いながら、こっちに振り向きもせずになにやら言い出す始末。
「今日はかえでちゃんも久しぶりにお母さんと一緒にでかけましょーねえ」
「ええええー」
イキナリ! 突拍子も無い。あたふたと意味なく左右を見渡して、それでもお母さんはもう何も言わずに黙々と食器を洗っているので、私も仕方なくすごすごとリビングを出た。
――聞くなって事ね、お母さん。
「……はあ」
少しだけひんやりと温度の下がった廊下を進みながら朝一番でため息をつき、私はのろのろと階段を上った。
十一月ともなると、自然周りは早々とクリスマスムードになる。街はイルミネーションに昼夜輝き始め、BGMは流行の曲から一挙にクリスマスのイメージソングへと移り変わり、どこもかしこも赤と緑の配色に包まれる。
その様変わりした街中を車から降りたときに一望すると、なんだか自分まで心が沸き立つような、様変わりしたような、毎年の既視感と新鮮さを同時に味わえる。
「では、またご帰宅の際にはご連絡ください」
後ろでめちゃくちゃ低い、けれどいい声がしたかと思えば、私に続いて車から降りたお母さんがにこにこと愛想よく、その低いけどいい声の主にお辞儀した。
「はい、ありがとうございます常田さん。ホラ、かえでちゃんも」
「あ、ありがとうございます常田さん」
「いえ。ではまた後ほど」
そう言うと常田さんはあっという間に車の雑踏の中へと車体を滑り込ませて行ってしまった。それを見送る私、と律儀に手を振るお母さん。立ちっぱなしもなんなので歩道を歩き始めると、お母さんも横についてきた。
「……はあ」
「どうしたの、かえでちゃん」
どうしたもこうしたも、ないと思うんですけど。ちろりと横目で盗み見ると、なんともまあほえほえと何もわかっていないようなお気楽な表情で首をかしげている。うん、癒される。癒されるはず。はずだけど時々若干疲れもする。何この矛盾。
「お母さんはさあ、なんでそんなに平気そうなの」
「平気って何が?」
「だからさ、常田さん」
吃驚したように目を丸くする。その顔、まるで子ウサギちゃんみたい。小首をクイッとかしげちゃってさ。
「かえでちゃんは常田さんが嫌いだったの?」
「ちっ、違う違うそういうんじゃないよっ」
好きでもないけどさあ、好き嫌いの話をしてるんじゃないのよ、私は。本当に解っていないようで、益々といったように眉を顰めている。その表情に、ああやっぱりこんな風に思ってるのは私だけなんだ、と納得した。
「もういいよ。それで、どこいくの?」
「えー、気になるなあ」
「いーの。ホラ行った行った」
不満そうなお母さんの背を押して先を歩かせると、私は歩道側からさりげなく車道側に移動した。それからちらりと常田さんがいなくなった方角を見てから、すぐにお母さんとの他愛の無い会話を再開した。
常田さん。本名、常田聡介。一条家、っていうか私とお母さんの専属の運転手さん、である。
運転手なんていつからいたのかっていうと、正確には最初から居た、らしい。らしいっていうのは、私が常田さんという人と直接面識を持ったのはこの間の夏休みの頃が初めてだったので、らしいというほか無い。元々、一緒に暮らし始めてからはお母さんの買い物なんかの送り迎えをしてくれていたようで、私も何度かはお世話になったことがある、っぽい。それもまたその都度一条家御用達のお抱え運転手さん達の誰かなんだろうなあと思っていただけで、まさかそれが同一人物で、しかも基本お母さん専用とか知るはずもなかった。聞かなかった私もアレだけど、言わなかったお母さんも相当アレだと思う。
で、その常田さんと私が直接お抱えの間柄になったのが、夏休み直前、だったかな。ふいに一条さんが、『この季節になると夜道どころか昼間でも変なのが沸いてくるからね、念のためと思って』とかなんとか言い出して、常田さんは私とお母さんの兼用になった。今まで普通に通っていたんだからそんな必要はないと最初は断ったんだけど、お母さんにまで頼まれては無碍にも出来ない。結局私が折れることになり、夏休みを開けても通学のときなど逐一常田さんにお世話になっている。
学校までそんな送り迎えだなんてどこのお嬢様だと最初はすっごく嫌だったんだけど、そこは気を利かせてくれるのか、最初に学校の近くのコンビニに下ろしてもらったらそれ以降コンビニからの乗り降りになった。無口なくせに気が利く人だ。車内での無言の威圧と送り迎えの大仰さに慣れてしまえば、なんてことは無いのかもしれない。
けれどそれだけじゃあない。常田さんは、それだけじゃなかった。
いつかのとき、こんな風に常田さんに送られお母さんと街を出歩いていた頃、ふいに道端であろう事か私とお母さんがそこを通り過ぎようとしたときに、殴り合いの派手な喧嘩が起こった。勿論私とお母さんは関係ない。けれど突如起こったそれに人だかりが出来始めるわ、その喧嘩が白熱するわで私とお母さんはその喧嘩の間近に居ながら身動きが取れなくなり、いつ火の粉が降りかかるかとヒヤッとしたそのときに、現れたその人。
言わずもがな、常田さん。いつのまにか私達の背後にぴったりと寄り添っていた彼は『奥様、お嬢様、こちらへ』とかさらっと言うかと思うと、お母さんと私をやんわり誘導しながら的確に人の合間を縫って離れたところに連れ出してくれた。
それはいい。いいの。いいはず。百歩譲って『奥様』と『お嬢様』はスルー。でもやっぱりよくない。絶対これは譲れない。
おかしいでしょ。どんだけ絶妙のタイミングで現れるの。ついさっき颯爽と去ったかと思えば後ろにいるんだよ。怖いでしょ、どう考えても。百歩譲ってお母さんを助けるためだとしてもね、やっぱりスルーできませんから。
私は聞きたかった。すごく聞きたくてたまらなかった。いつからいたのかと。ていうか、もしかしてずっとかと。何時からとかいう問題じゃない。出かけるたびに、貴方はそうしていたのかと。SPとか言えば聞こえはカッコイイかもしれないけど、これ、ていのいい監視じゃん。
それを当然のようにつっこんだら、お母さんは困ったように呟いた。
『そうねえ。多分、お母さんがしっかりしてないから、常田さんがお守りをさせられてるのかも。もっとしっかりしなくちゃね』
違う違う違う。悩むベクトルが明後日の方向向きすぎ。ある意味ネガティブだけど要らないところで前向きすぎ。そんなところもいいところだけど時々無性にもどかしくなるよ、お母さん。
そしてまだ納得のいっていない私に、ダメ押しの一言。
『かえでちゃんも、始さんに自分の娘のように思われてるんじゃないかな。よかったねえ』
よくない。諸々良くない。
良くないけど、これ以上心の地雷をピンポイントで突かれるのは勘弁して欲しくて、結局私が黙る羽目になった。
おかしい。何かがおかしい。そう思うのに、あれよあれよと私は流されていた。思えば、今に始まったことじゃない。何かと流されて、私は色々と見過ごしてしまっているんじゃあないだろうか。
私がその違和感に気付いた頃、お母さんはまだ昼食を和食にするか中華にするかで思い悩んでいるところだった。
昼食を終え、再び買い物魂に火がついたお母さんと私は、それはもう練り歩くというほど街中を闊歩した。喧騒の中を行き交う中で色々と消耗した私たちは、帰宅前の一服にと一軒のカフェに入った。
「はあ。今日は沢山歩いたからお母さんちょっと疲れちゃった」
「そうだねえ」
そう言いながらも、お母さんの傍らにも私の傍らにも荷物は無い。それを購入と同時に常田さんが颯爽と現れ、瞬く間にそれを回収すると共に再び颯爽と去っていったからだ。もう何も言うまい。霞む如くさっと過ぎ去る常田さんの背中を見て、私も悟った。一つ、大人になった気がする中三の冬。
数あるビルの中の一角にあるこのカフェは見晴らしもよくって、運よく窓際にて目下米粒のような人々行き交う交差点を一望できていたりする。優雅なもんだ。以前はこんなところにくることもなかったのに、随分生活水準が上がってしまった。この上もしもこれががた落ちするとなれば、落差はこの景色も笑って見られないほどとなるだろう。そう思えばこそ、一服だというのに途端にそわそわしてくる始末。お母さんは『ここ、始さんと入ったの』とかのろける余裕があるみたいだけど。ああ、私にもその余裕を分けて欲しい。
「かえでちゃん、どうしたの、ぼーっとしちゃって」
「ああ、うん、あー……」
言うか言うまいか。ふっと過ったそれに一瞬逡巡するけれど、この際だからと腹をくくる。
「あのさあ、えっと、お母さんと一条さんって、どうやって知り合ったの?」
「ええ? いきなりそれ聞く?」
「いや、だって聞いてなかったじゃん。馴れ初め……とかさ。そういうの」
途端、窓に目を向けていたお母さんがこっちを向いて吃驚したような顔をする。それも無理からぬとは思うので聞いておいて私の方が目を逸らす。聞いてなかったっていうか、聞かなかったんですよ、つまり。もっと言うと、聞きたくなかったっていうかさ。むしろ聞く必要なんかないし、みたいな感じだったね。ハブられたんじゃねーし俺がハブったんだしの要領みたいな。違うか。
自分でも可愛くないと思うけどね。自分ではそんなつもりなかったけど、お母さんには見えていたんだろうな。その辺の、その、私の頑なさが。そう思えば少し、悪い気もするもので。気まずくなって目を泳がせる私に、お母さんは優しい目をして微笑んでくれる。
「うん。言ってなかったね。ごめん」
「いや、」
気恥ずかしさに、後に続くフォローの言葉すら浮かばないときた。あー、もう。なんか、へたくそだ私。
でもそんな私をお母さんは許してくれる。いつも、いつだって。
見透かすように緩く微笑みながら、お母さんは思い起こすように窓の向こうに眼差しを馳せた。
「そうだねえ。うん、お母さん、あの頃お花屋さんで働いてたでしょ?」
「うん……」
あの頃って言うと、私が中一かそこらの頃からかな。お花屋さんと、本屋さん掛け持ちしてた。お休みの日は少なくって、その代わり夜は家に居て家事もちゃんとこなしていたお母さん。ほえほえしてるのに、やることはきっちりしてるんだよねえ。本当によく頑張ってた。お花屋さんは意外と朝早いし、本屋さんもレンタル業兼ねてるから割と落ち着いてるようで動き回る職業だったし、すんごい頑張ってたよ、お母さん。自分では大変とか疲れたとか、仕事の愚痴すら言わなかったけど。
「それでね、そのお花屋さんに始さんが来たの。身なりのいいお客さんがきたなあなんて思ったら、ふいに胡蝶蘭の鉢植えを指して、『コレ包んでください』って。聞けば、お見舞いの品だって言ったんだよ。面白いよね」
まあ、うん。普通一般常識だとお見舞いの品に鉢植えは病が根付くからって避ける品だってことは、中学生の私だって知ってる一般教養だ。しかも見舞いに胡蝶蘭の鉢植えて。チョイスが、また。一条さん、意外ともの知らずなのだろうか。お母さんはそのときのことを思い出しているのか、クスクス笑って言った。
「それでね、そのことやんわり注意してみたら、それを聞いた途端に始さんたらあちゃーって顔して、困りきったみたいに『じゃあ年頃の男の子に似合う花はありませんか』って。もうそのピンポイントな注文がおかしくって。思わずその場で笑いそうになっちゃった」
年頃の男の子に似合う花。
――一条さんて、勉強できる馬鹿だったのかな。私だったら絶対冷やかしかなんかだと思うけど。
「それでお母さん、お花選んであげたってこと?」
「ううん。追い返しちゃった」
「はあ?」
折角の客をですか。ていうか想像できない。ほんわかふにゃふにゃのお母さんが一条さんを追い出した。どうやって。ていうかどうしてそうなる。どうせ自分で花を買ったこともないお金持ち様様なんだから、高値の花でも売りつけてやればよかったものを。
そんな考えが顔に浮かんでいたのか、お母さんは私を嗜めるように見て、苦笑する。
「追い出したっていうかね、よく解らないものを買うより、ご自分のお好きなものを差し上げてみたらいかがですかって言っただけ」
「ええー。そんなこと言っちゃったの」
若干喧嘩売ってるとも取れるような言い方だなあ。人によっては絶対怒るよソレ。よく言ったもんだ、あの一条さん相手に。思わず目を丸くしていると、悪戯っ子みたいな目をして笑うお母さん。
「やんわりね。だってよく解らないから適当に見繕ってくれ、なんて言うから。聞けば事故で入院した息子さんへって言ってたし、仮にもお見舞いでしょう? そんな投げやりじゃ息子さんもお花もいい迷惑じゃないの」
「事故? 新さんが?」
「そうみたいね。接触事故らしくて、それほど大きな怪我でもなかったみたいだけど、検査入院させられたらしいの」
嘘、そんなの知らなかった。愕然とする私に、私たちと会う随分前のことだから、とフォローするようにお母さんは付け足した。うーん、まあ、それなら仕方ないかもだけど。全然知らなかったよ。そんなことあったんだ。なんていうか、意外だ。新さんが事故にあうとか、自分から飛び出す以外全部回避しそうなイメージだから。いや、だからって自分から飛び込むほどドMでもないだろうけど。
「それでね、話に戻るんだけど、好きなものって言っても何が良いかよく解らないからヒントだけでもください、なんて言うものだから、それならお客様のお好きな本を差し上げてみたらいかがですかって言ったの。そしたら『そうか……』なーんて呟いて、フラフラ出て行っちゃって。これじゃあ本当に冷やかしだよね」
まあ私がそう仕向けちゃったようなものだけど。なんてお母さんは笑った。
それから後で一条さんが『お礼がしたい』だのなんだのとベタな誘い文句でもってしてお母さんに接近を図って、交流を深めるうちに今に至る、と。はあー、なるほど。あるようで、ない話って感じ。よほどのことがあったのかと思えばロマンスというには地味すぎるし、かといっても現実的に考えるとそうある話でもないような気がするし。うーん、摩訶不思議。
しかし一条さん、意外なところで色々ベタだなー。益々あの人の人物像が解らなくなってきた。今に至る、のところとか大分はしょられたし。これはまだまだ追求が必要なのかも。
うーんと一人で唸っていると、不意にお母さんがくすっと笑った。
「――なに?」
「ううん。まさかこんな風になるなんて、思いもしなかったから」
――こんな風。
それがどんな風なのかは知れない。けれど、私にもお母さんがそう言ってしまう気持ちは少しだけ、解る気がした。それこそあの時の自分が、一年前の自分が見たら開いた口が塞がらないことだろう。何が変わったとか何がどうしたとか、そういったことは深く追求するとそれほど明確ではないんだけど、でもやっぱり私は変わってしまった。それがいいのか悪いのかは解らないけれど、確実に今の私は一年前の自分とは違うと言える。それが何によるものなのか、或いは誰によるものなのかを考えると、少し面映い。変わってしまった私。残念なことに、今の私はさほどそれを後悔していない。むしろ――。
「でも、どうしよっかな!」
突如私の思考を遮るように、いやに明るい声を出して、お母さんは困ったように微笑んだ。
「なんか、もったいなくなってきちゃった、お母さん」
「もったいないって、なにが」
「だって、もうお母さんだけのかえでちゃんじゃあなくなっちゃうんだなあって、思ったら、ね? だから、なんだか寂しくなってきちゃって」
「寂しい……?」
一瞬、何を言われているのか、わからなかった。けれどお母さんのその、ほんの少し切なそうな眼差しを見つけたとき、すぐに理解した。
まさか、いや、でも。そうだ。そうなんだ。お母さんは結婚をまだ、迷っていたんだ。いや、まだ迷ってるっていうよりあと一歩が踏み出せずにいる、のかもしれない。
なにそれ。どうして今更。いや、どうしてじゃないでしょ。どうしてじゃない。解ってるでしょ。気づいてるんでしょ。そうだよ。
――私。
私、がお母さんの一歩を、踏みとどまらせているんだ。
『もうお母さんだけのかえでちゃんじゃあなくなっちゃうんだなあって、思ったら、ね』
は。
なに、言ってんの。逆でしょ。
お母さん。お母さんが、そうなるんじゃない。お母さんが、私だけのお母さんじゃなくなっちゃうんじゃない。お母さんが勝手に私の手を離して一条さんのところに、私を独りに、
――違う。
そうじゃない。そうじゃないの。
ううん、そうだったんだ。お母さん。知ってたの。ずっと解っていたの。見えていたの。私がそう思っていること。心のどこかでお母さんを責めていたこと。私が、裏切られたって、思っていたこと。知っていたの。気付いて、いたの。気付いていたのに、見ない振りをしていてくれたの。
そんなの。そんなこと、知らなかった。全然、知らなかったよ。
「お母さん……」
「んー?」
急に俯いた私の顔を覗き込むように、お母さんは首をかしげる。解っているのかいないのか。ううん、全部解っているんだ。それを知った上で、私はこの上なく酷な言葉を口にする。
「結婚、やめて、って私が言ったら……止めてくれる?」
「うん、止める」
「……ふ」
即答、なんて。不自然なほど軽快な声に、ぐっと喉が詰まる。少しでも息を吐けば、全てが瓦解するような気がして、唇をかみ締めてなんとかとどめた。
そんな、止めるって、本気で言ってるの、とか。そんなことしたら一条さん悲しむよ、とか。今更そんなことしたらみんなに迷惑掛かるけどそれでもいいの、とか。
そんな言葉が頭の中をぐるぐる巡るのに、一言たりとも呟けやしない。お母さんが本気で言っているのが解る、から、何も言えない。
本気なんだ。私が嫌って言ったら、止めてくれるんだ。いいじゃない、好都合だよ。言っちゃえば。こんなに簡単に言えるなら、それほどじゃないんだよ、きっと。こんなチャンス二度と来ないよ。もう後戻りできなくなるよ。言っちゃえば、試しにさ。ホラ。言いなよ。
「馬鹿言わないで」
思ってもみない言葉が、頑なだった口からするりと零れだす。お母さんが息を呑むのが、目を伏せていても伝わった。それでもするする、するすると、私の口が勝手にまくし立てる。
「無責任なこと言わないでよ。一条さんが聞いたら泣くよ。あの人、この間『今が夢みたいだ』って言ってたんだよ。それね、去年も同じこと言ってたの。そうやって同じこと言うってことは、それまでずっと、あの人はそうやって不安定な気持ちを抱え続けてたってことなんだよ」
ぐらぐらと、揺れていたのは私だけじゃなかった。新さんも、一条さんも、お母さんも。きっとみんなが、私を含めて、不安定な足場でどちらを向けばいいのか、探り続けていた。私がそれに気付いていなかっただけ。
私だけじゃ、なかった。
「私のせいにしないで。押し付けないでよ。したいならすればいいじゃん。お母さんの気持ちで決めることだよ。……私の気持ちは、もう、決まってるから」
――それは、嘘偽りなく、そこにある。いつからだろう。解らないけれど、それはもう撤回できないほどに育ってしまった。それが真実。
お母さん。私もう、目を逸らさないって決めたんだよ。あの夜に。
顔を上げて、泣きそうな顔をしているお母さんににっこり、微笑みかけた。
「いいんじゃないの、結婚しても。きっと楽しいと思うよ。今より、もっとね」
「かえで、ちゃ――……っ」
お母さんの顔がこれ以上ないくらい真っ赤になって、見る間に目じりが潤みだす。消え入りそうな声で「ごめん」と呟いたお母さんは席を立って、化粧室の方へと消えてしまった。
私は、なんだか最初の居心地の悪さもすっかり忘れて、驚くほど穏やかな気持ちで窓の外を眺めた。
「……言えたよ、新さん」
イルミネーションに飾り立てられた街中は、それはそれは色鮮やかで、とても、楽しそうに見えた。